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エピローグ

 作製室の大きな窓から日が差し込んでいる。窓の外は、風はまだ冷たいが、日差しはもう春のまぶしさだ。最近は夜が明けるのもずいぶん早くなった。先週は近くの高校の卒業式があったようで、仕事帰りに、スイートピーやチューリップなど春色の花束を抱えた制服の子たちを目にした。3月に入ってから谷ちゃんの後任の人が決まり、今谷ちゃんは引き継ぎに追われている。

 あの宝くじが当たった後、谷ちゃんはまず作製室のみんなに大学受験のことを話し、そして教授と柴田先生に3月いっぱいで辞めることを伝えた。

 谷ちゃんの第一志望はもちろんここ三城大学医学部で、それを聞いた教授は「はあ、医学部を」と目を丸くし、柴田先生は「今度は院生でうちに来いよ。鍛えてやるから」と早くも谷ちゃんを医師の1人と見て、目を輝かせたそうだ。

「『鍛えてやる』って、ヤバいよね。私が研修医終わってここに来る頃には、たぶんもう柴田先生が教授になってるもんね。怖いわ~」

と、谷ちゃんは今から恐れている。そんな谷ちゃんを、実験室で杉山先生や加藤先生が半分からかい、半分励ましている、というのがここ最近の日常の風景になっていた。谷ちゃんの後任の人は佐藤景子さんという理学部出身の30歳で、そんな光景を落ち着いた笑顔で見守っているという感じだった。彼女の専門は分子生物学なので、引き継ぎも順調なようだ。

 安道さんが結婚のため1月いっぱいで辞めることは前から決まっていたので、あの仕事初めの日の翌週から、安道さんの後任の黒木ゆかりさんが来ることになった。黒木さんは谷ちゃんと同い年の26歳で、私と同じように全く畑違いな学部出身で、栄養士の資格を持っていると言っていた。それでも手先が器用な人で、もう2カ月経った今では包埋や薄切などを普通にこなしている。年齢が近いこともあって、私も亜矢もすぐに仲良くなった。

 驚いたのは、ひろのさんと豊田さんが2月いっぱいで辞めることになったことだ。

 豊田さんは去年の年末に、息子さんから一緒に住もうと言われていたのだそうで、宝くじのお金で二世帯住宅を建てることにしたのだそうだ。息子さんの奥さんの妊娠もわかり、

「もうすぐおばあちゃんになるのよ。でも、うちはまだおばあちゃんがいるからね。孫には私のことは『えっちゃん』って呼ばせようかな」

と笑っていた。下の娘さんも、この前一緒にドリカムのコンサートに行った時に彼氏を連れて来たそうで、

「家建てて、後は娘の結婚資金でなくなりそうね」

と言いながら、とても幸せそうだった。

 ひろのさんは航希くんのことを考えて、しばらく仕事を辞めて一緒にいることにしたのだそうだ。

「仕事は代わりがいるけど、母親は代わりがきかないからね。それに、私も少しは親孝行しないと」

 実は辞めることは去年の12月頃から考えていたのだそうで(私が忘年会の時に、ひろのさんの様子がいつもと違うと感じたのはそのせいだ)、宝くじに当たったことで、背中を押される形になった。これからは、隣の県にあるご両親の家で家族4人で暮らすと言っていた。それでも臨床検査技師の資格も技術もあるひろのさんのことだ。また何年後かには、どこかで白衣を着ていることだろう。

 

 ひろのさんと豊田さんが辞めることになったのは急なことだったので、後任を探すのが大変だった。特にひろのさんの仕事は資格のある正職員で、作製室の指導と管理にあたる立場だ。そこで、片桐先生のツテで、違う病院で臨床検査技師をしていた堂島智子(どうじまさとこ)さんが来ることになった。堂島さんは31歳のきりりとした美人で、どことなく雰囲気がひろのさんに似ている。先生たちには早くも「さとこさん」と呼ばれ、最近ではさとこさんが、先生たちの行動を厳しくチェックしている場面も見られるようになった。

 一方、豊田さんの後任がなかなか決まらなかった。そんな2月の初め頃、3月の終わりにある医技短の卒業式の謝恩会の案内を持って、大橋さんと太田くんが作製室にやって来た。2人は安道さんがいないのと、谷ちゃんもひろのさんも豊田さんも辞めると聞いて驚いていた。

「それで今、豊田さんの後任を探してるのよ」

とひろのさんが言うと、

「あ、じゃあ、私じゃダメでしょうか?」

と大橋さんが自分を指さした。太田くんは三城大学附属病院の検査部に就職が決まったが、大橋さんはまだ就職が決まっていないということだった。それを聞いて豊田さんもみんなも喜んだ。早速ひろのさんが亜矢を通して教授に伝えると、大橋さんはすぐに教授室に呼ばれ、あっさりと面接を終えて豊田さんの後任に決まった。

「大橋さんなら、もう引き継ぎもしなくていいんじゃないですか?」

医技短の授業はもう終わっていたが、2月の終わりには国家試験もあるということで、卒業するまでは大橋さんはパートという形で午後からだけ来ることになった。

「よかった~」

と大橋さんは、待っていた太田くんと一緒に喜んだ。

「これでまた一緒に通えるね」

2人がそう言うのを聞いて、実験室から来ていた谷ちゃんが「あれ?」と2人を見た。

「もしかして、2人付き合ってるの?」

そう尋ねる谷ちゃんに、2人は恥ずかしそうに頷いた。あの実習の後、付き合うことになったのだそうだ。

「そっか~。大橋さんも彼がいるのねー。私たちも頑張らないと」

と谷ちゃんが私の肩をたたく。私もため息とともに頷いた。

 

 宝くじに当たって、結局ここに残るのは私と亜矢だけだった。後はみんなそれぞれの道へ行ってしまう。私が“出来上がった”と思っていた「小さな世界」は一瞬で崩れてしまった。そう考えると、宝くじに当たったことは果たして良かったのか?それなら私もイギリスに行けばよかったかな?とちらりと思ったりもしたが、やっぱり違うな、とその考えは頭の中ですぐに打ち消された。きっとこれで良かったのだ。これからまた新しいメンバーで、新しい世界が出来上がる。

 あれから杉山先生とも以前と変わらない関係が続いている。元日には先生からの年賀状が届いた。そこには殴り書きのような文字で、「去年はありがとう!今年もよろしく!」と書いてあった。後から聞いた話では、年末に加藤先生の家で一緒に飲みながら書いたのだそうで、

「ごめん、俺酔っ払ってて、字、すっごい汚くなった」

と先生は頭をかいていた。そんな変わらない先生の笑顔が嬉しい。この前のバレンタインデーには、先生にも加藤先生にも義理チョコをあげた。

 さて、亜矢はなぜここに残ることにしたのか。それは石川さんがいるからだ、と私と谷ちゃんはにらんでいる。

「違います。私はここで、お医者さんを探すんです」

 この前の昼休み、久しぶりに学食に3人でご飯を食べに行った時、亜矢はまだそんなことを言っていた。

「いいじゃん、もう石川さんで。そんな高収入の人探さなくても、お金あるんだしさ」

と谷ちゃんが声をひそめて言う。宝くじに当たったことは、誰にも話していないのだ。亜矢と私は今のところ使い道がなく、とりあえず貯金することにしていた。

「収入の問題じゃなくて、ステイタスの問題です」

と亜矢は澄ましているが、そんな彼女の右手の薬指に見慣れない指輪が光っているのに、私も谷ちゃんも気が付いている。その指輪はどうしたのか尋ねると「宝くじのお金で、記念に自分で買った」と亜矢は言っていたが、去年の年末の大掃除の時に、ロッカーで大事そうにその指輪をはずしている亜矢を私は見ていた。それは宝くじに当たる前だ。クリスマスのことも亜矢は何も言わないが、きっと石川さんが頑張ったのだろう、と私は思っている。

「そうだ、谷ちゃん、医学部に入ったら誰か紹介してくださいよ!」

亜矢が目を輝かせて、谷ちゃんにお願いする。

「ええ~、かわいそうな石川さん」

と同情する谷ちゃんの言葉を聞き流し、さらに亜矢が続けている。

「あ、でも私、絶対20代で結婚したいんで、できればサークルかなんか入って、5、6年生を紹介してください。そしたら年の差もそんなにないし。ね、合コンあったら忍さんも行くでしょ?」

そんな亜矢の言葉に私も乗って、

「うん、行く行く!」

と張り切って返事をし、亜矢と2人で「谷ちゃん私たちのために頑張ってー」と声を合わせた。

「何、その私利私欲のこもった応援。なんで私が2人のためにサークルに入んなきゃいけないのよー」

と谷ちゃんは口をとがらせていたが、彼女のことだ、きっとなんとかしてくれるだろう、と今から期待している。

 

 作製室の大きな窓越しに、最近咲き始めた真っ白なコブシの花を眺めながらそんなことを考えていると、水田化学の村川さんが、この前注文していた抗体を持ってやって来た。

「谷さんの合格発表、もうすぐですねー」

そんなことを話しながら、納品書にサインする。谷ちゃんの医学部受験の話を聞いた時、村川さんもとても驚いていた。合格発表は来週の水曜日だ。その前に、今度の日曜日には、安道さんの結婚式がある。ウエディングドレス姿の安道さんと、豊田さんにひろのさん、それに航希くんに会える。

 さとこさんからキシレンの注文を受けて、村川さんは「じゃ、どうもー」と帰って行った。私は今届いた抗体を冷蔵庫に入れ、その抗体が届くのを待っていた加藤先生に知らせるために廊下に出た。

 作製室のドアを開け、実験室に向かおうとすると、廊下の奥の“非常口”の緑の光が目に入った。ここに初めて面接に来た時、目に入った光。思えばあの時は、私にとっての“非常事態”だった。私はあの時、逃げ込むように、あの緑の光を頼りにここに来た。でも今は、もう逃げ場じゃない。

 その時ちょうど実験室のドアが開いて、杉山先生と加藤先生が一緒に出て来た。

「あ、加藤先生、抗体届きましたよー」

作製室の前からそう言うと、「あ、じゃあ、今からそっち行くから」と返事が返って来た。私は頷いて、また部屋に入ろうとして、ふとそのドアの上にある標識を見上げた。

 その標識の文字。

 “第二病理標本作製室”――。



 完 

 ようやく連載が終わりました。ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。

 「毎週金曜日の夜10時に更新する」と自分で締め切りを決めたものの、今回の連載は書きためていたわけではなく、毎週の一話一話をその都度考えて書いていたので、思っていたよりも大変な作業となりました。

 この小説は半分ほどが実話で、登場人物は全員架空の人物ですが(モデルはいます)、仕事上起こる数々の事件は実際にあったことです(注:残念ながら宝くじには当たっていません。また、ニ病理の前に私が勤めていた職場も、小説に書いたような嫌な雰囲気ではなくとてもいい職場でした)。

 以前勤めていた職場のことを思い出し、懐かしく思いながら書いてきました。「あれもこれも」と書きたいことはまだたくさんあったのですが、それではただの「思い出話」になってしまうので、小説になりそうなエピソードを選んで書いたつもりです。登場人物は違っても、私たちがあの頃、あの場所にいたことをどうしても書いておきたかったので、今の自分に書ける精一杯の力で書きました。

 登場人物を活躍させきれなかったことや(柴田先生にももっと活躍して欲しかったし、名前しか出てきていない馬場さんなど)、語彙の少なさなど突っ込み所は多々あるかと思います。読んだ感想やアドバイスなど、頂けるとうれしいです。

 最後に、この連載を書くにあたって、私が書いたものを更新前に毎週冷静な視点で読み、助言してくれた旦那と、更新毎にメールで感想を送ってくれた義母に感謝します。

 そして、私の職場、第二病理に、愛と感謝を込めて。


薫ようこ

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