第八話 Fランク少女と、期限なしのパーティーを組むことになった
「入院患者を口説かないでください」
「まだ何もしてない」
「連絡先を渡そうとしていました」
「退院後の経過を確認するためだ」
「あなたは医者ではありません」
目を覚まして最初に見たのは、冷たい目で俺を見下ろす澪だった。
白い天井。
消毒液の匂い。
身体へ巻かれた包帯と、胸の奥から響く鈍い痛み。
どうやら病院らしい。
「おはよう、澪」
「おはようございます。意識を取り戻して最初にすることが女性患者への声かけとは、さすがですね」
「隣のベッドから三十分くらい見つめられてたんだぞ。無視する方が失礼だろ」
「見つめていたのは、あなたが寝言で『美人に養われたい』と繰り返していたからです」
「夢の中でも志を失わない男なんだ」
「立派なのは一貫性だけですね」
澪がベッド脇の椅子へ腰を下ろす。
制服姿ではない。
黒いシャツに細身のパンツという私服姿だった。
髪は下ろされ、濃紫色の瞳も元へ戻っている。
「どれくらい寝てた?」
「二日です」
「そんなに?」
「肋骨が七本。右腕と左脚にも骨折。内臓にも損傷がありました。胸には穴が開いていました」
「思ったより軽傷だな」
「どこがですか!」
澪が立ち上がる。
その声に、近くの患者たちが振り返った。
「静かに。病院だぞ」
「誰のせいだと思っているんです!」
「冥黒騎士」
「あなたが無茶をしなければ、ここまでの怪我にはなっていません!」
「無茶じゃない。勝つために必要だった」
「なら、私の目の前で何度も潰される必要もあったんですか?」
「あった」
「即答しないでください!」
「俺が立つたびに、あいつは俺へ攻撃を集中させた。その間、澪への拘束が弱まっていた」
「だからといって――」
「それに、約束しただろ」
澪の言葉が止まる。
「もう二度と、君を一人にしない」
「……その約束を守るためなら、自分が死んでもいいと?」
「死ぬつもりはなかった」
「胸を貫かれた状態で言っても説得力がありません」
「澪が治してくれると思ってた」
「人任せです!」
「信頼と言ってくれ」
澪が俺を睨む。
けれど、その瞳の奥には怒りだけではなく、うっすらと涙が浮かんでいた。
「もう、やめてください」
小さな声だった。
「私のために傷つくなとは言いません。戦うなとも言いません。私も、あなたを守るためなら戦いますから」
「ああ」
「ですが、勝手にすべてを背負って、私を置いていかないでください」
「分かった」
「本当に分かっていますか?」
「今度から死にそうになったら、事前に相談する」
「死にそうになること自体を避けてください!」
「努力する」
「努力ではなく、約束してください」
「……約束する」
澪が右手を差し出した。
小指だけが立っている。
「何だ?」
「指切りです」
「高校生にもなって?」
「嫌なら結構です」
澪が手を引こうとする。
その小指へ、自分の小指を絡ませた。
「嘘をついたら?」
「《万象簒奪》で、女性を口説く能力を奪います」
「それは俺の命を奪うのと同じだぞ」
「では、約束を守ってください」
「分かったよ」
指先から、澪の体温が伝わってくる。
二日前。
この手から放たれた黒い大鎌が、俺の胸を貫いた。
けれど、怖くはなかった。
澪は澪で。
ミレアはミレアで。
そのどちらも、同じ一人の少女だ。
前世の記憶を取り戻したからといって、澪として生きた十七年間が消えるわけではない。
「澪」
「何です?」
「ミレアの記憶は、今もあるのか?」
「あります」
澪は小指を絡めたまま答えた。
「すべてではありません。思い出せないことも、まだたくさんあります。ですが、あなたと過ごした時間は、ほとんど」
「そうか」
「怖いですか?」
「まさか」
「かつて殺した相手が、目の前にいるんですよ」
「その相手から、愛しているって言われたばかりだからな」
「なっ……!」
澪の顔が、一瞬で赤くなる。
「覚えてたのか?」
「忘れてください!」
「無理だな。死にかけながら聞いた言葉だぞ。一生忘れない」
「あれは、混乱していただけです!」
「つまり、今は愛してない?」
「そういう意味では――」
「では、愛してる?」
「質問を取り消してください!」
澪が絡めていた指を離そうとする。
逃がさないように、少しだけ力を込めた。
「どっち?」
「……知りません」
「知らないのか」
「今の私は、夜凪澪です。アルミレアだった頃の感情を、そのまま自分のものとして受け入れていいのか分かりません」
「だったら、急いで答えを出さなくていい」
澪が顔を上げる。
「過去に好きだったから、今も好きでいなきゃいけないなんてことはない。澪が自分で決めればいい」
「あなたは、それでいいんですか?」
「ああ。俺も、今の君に改めて好きになってもらえるよう努力する」
「具体的には?」
「毎日、愛を囁く」
「減点です」
「花を贈る」
「悪くありません」
「ほかの女性を口説いて、嫉妬心を刺激する」
「死刑です」
「最後だけ厳しくない?」
「当然です」
澪が、ほんの少しだけ笑った。
久しぶりに見た気がする。
実際には数日しか経っていない。
けれど、ずっと遠い場所から戻ってきてくれたように思えた。
「ところで」
俺は病室を見渡す。
「朱音は?」
澪の表情から、笑みが消えた。
「同じ病院にいます」
「容体は?」
「…………」
「澪」
「手術は成功しました」
その言葉に、胸の奥で止まっていた息が抜ける。
「右腕の複雑骨折。肩から胸にかけて深い裂傷。大量出血もありました。医師からは、一か月以上の入院が必要だと」
「後遺症は?」
「現時点では分かりません。探索者として復帰できるかも……」
澪が膝の上で拳を握る。
「私のせいです」
「違う」
「私を守って、朱音さんは傷つきました」
「朱音が自分で選んだことだ」
「ですが――」
「その選択を、君が否定するな」
かつての俺が、ずっとしてきたことだ。
誰かのために戦った者の覚悟を、すべて自分の罪へ変えてしまう。
それは償いではない。
相手の意志を奪う行為だ。
「朱音の気持ちを大切にしたいなら、目を覚ましたときに礼を言えばいい」
「……はい」
「それで、治るまでそばにいてやれ」
「はい」
「ついでに配信へ出て、治療費を稼ぐ」
「最後で台無しです」
病室の扉が開いた。
「経済面に関しては、その必要はありません」
高嶺静香が入ってくる。
今日も皺一つないスーツ姿。
手には分厚い資料と、果物の入った籠を持っていた。
「お見舞い?」
「事情聴取です」
「果物は?」
「夜凪さんへです」
「怪我人は俺だけど」
「夜凪さんは二日間、ほとんど食事を取っていません」
「余計なことを言わないでください」
澪が静香を睨む。
「もしかして、ずっとここに?」
「……たまたまです」
「二日間?」
「帰る時間がなかっただけです」
「心配してくれた?」
「怪我人は黙って寝ていてください」
顔を背ける澪の耳が赤い。
静香は小さく息をつき、資料をベッド脇へ置いた。
「まず、東京第七ダンジョンで発生した一連の事件について報告します」
「冥黒騎士は?」
「地下の対魔物収容区画で隔離しています。意識は戻っていますが、非常におとなしくしています」
「暴れてないのか?」
「夜凪さんから『そこで待っていてください』と命令されたため、直立不動のまま二日間、一歩も動いていません」
「真面目な奴だな」
「食事も取らず、睡眠も必要とせず、瞬きすらしません。監視担当者の精神が限界です」
「あとで会いに行きます」
澪が答える。
「大丈夫か?」
「はい。あの人とも、話をしなければなりません」
「俺も行く」
「入院患者は寝ていてください」
「一人で行かないって約束したばかりだろ」
「危険はありません」
「それを一人で決めるな」
澪が目を瞬く。
やがて、静かに頷いた。
「……では、一緒に行きます」
「退院後にしてください」
静香が間へ割って入る。
「葛城さん。あなたは担当医から絶対安静を命じられています」
「もう歩ける」
「先ほど看護師の目を盗んで立ち上がり、三歩目で倒れたと聞きました」
「床が滑った」
「靴底に滑り止めがついた院内履きで?」
「現代の技術も完璧じゃない」
「あなたの言い訳よりは信頼できます」
静香が俺の逃走防止用なのか、ベッドの柵を上げた。
「次に、記録映像についてです。試験区画の映像は協会の内部端末に保存されていました」
「配信は?」
「されていません。外部通信を遮断した時点で、火神さんの配信も停止しています」
胸を撫で下ろす。
澪が魔王として覚醒し、俺が何度も潰され、最後には二人で未知の種を破壊した。
あれが世界中へ流れていたら、今ごろ病院の周囲が記者で埋め尽くされていたはずだ。
「ただし、渋谷迷宮での映像は現在も拡散されています」
静香が端末を操作する。
画面には、澪へ跪く無数の魔物が映っていた。
『自称魔王の女子高生、都内に潜伏』
『夜凪澪は人類の敵なのか』
『探索者協会は“黒姫”の身柄を拘束せよ』
『魔王美少女に支配されたい人、集合』
「最後の記事を書いた人だけ方向性が違うな」
「笑い事ではありません」
再生回数。
投稿数。
澪の名前が含まれる検索件数。
どれも、以前とは桁が違う。
「好意的な意見もあります。しかし、魔物が彼女へ服従した映像は衝撃が強すぎました。協会本部にも、夜凪さんを拘束しろという要望が届いています」
「するのか?」
静香へ視線を向ける。
「俺がどれだけ怪我人でも、澪へ手を出すなら話は別だぞ」
「その場合、今度こそ病院の床で死にますよ」
「死なない。《暁光不滅》がある」
「その能力は無敵ではありません」
「何で知ってる?」
「記録映像を見た医療班の見解です。あなたの能力は損傷を治癒していません。戦闘中の身体を、黄金の力で強引に動かしているだけです」
「便利だろ?」
「自分の死期を早める能力を便利と呼ばないでください!」
澪の声が病室へ響く。
「すみません」
今度は自分から周囲の患者へ頭を下げていた。
「現時点で、夜凪さんを拘束する予定はありません」
静香が続ける。
「渋谷迷宮で魔物を使役した事実はありますが、人間へ攻撃させた事実はない。東京第七ダンジョンでは、協会職員と火神さんを救助し、暴走した冥黒騎士を止めています」
「俺も止めた」
「あなたは勝手に侵入しただけです」
「呼ばれた気がした」
「自宅の端末から異常を確認した直後、壁を突き破って出ていく姿が近隣の防犯カメラに映っています」
「窓から出た方がよかった?」
「玄関を使ってください」
「次から気をつける」
「次がある前提なのですね」
静香が額を押さえる。
「葛城さんへの処分は後日決定します。ですが、その前に解決しなければならない問題があります」
「世間への説明か」
「はい」
静香が澪を見る。
「協会から公式声明を出します。夜凪さんは人間であり、魔物による襲撃へ加担していない。現時点で危険人物として扱う根拠はないと」
「それで信じてもらえますか?」
「難しいでしょう」
「正直だな」
「映像を見た人々が知りたいのは、協会の見解ではありません。夜凪さん自身の言葉です」
澪の表情が強張る。
「私が、話すんですか?」
「強制はしません。ただ、沈黙を続ければ、他人があなたの物語を勝手に作り続けます」
役立たず。
追放されたFランク。
謎の美少女探索者。
黒姫。
魔王。
澪はこれまで、他人からいくつもの名前を与えられてきた。
そのたびに、自分が何者なのかを決められてきた。
「やります」
澪が顔を上げる。
「私が、自分で話します」
「大丈夫か?」
「怖いです」
それでも、その目は逸れなかった。
「ですが、もう逃げたくありません。私は私が何者なのかを、自分で決めたいです」
「分かりました。火神さんが回復してから、公式配信の場を――」
病室の外から、騒がしい足音が聞こえた。
「ちょっと! 患者さん、待ってください!」
「平気平気! うち、鍛えてっから!」
「平気な人は車椅子で廊下を爆走しません!」
扉が勢いよく開く。
車椅子に乗った朱音が、左脚で床を蹴りながら病室へ飛び込んできた。
「やっほー! 生きてる!?」
「朱音さん!」
澪が立ち上がる。
朱音の右腕は肩から固定され、胸元にも厚い包帯が巻かれていた。
顔色は悪い。
それでも、いつもと同じ明るい笑顔を浮かべている。
「澪ち、泣いた?」
「泣いていません」
「目、真っ赤じゃん」
「二日間、寝ていなかっただけです」
「それはそれでダメっしょ」
朱音は器用に車椅子を動かし、澪の隣へつけた。
「朱音さん……」
「ん?」
「助けてくれて、ありがとうございました」
澪が深く頭を下げる。
「私のために、大怪我をさせてしまって――」
「それ禁止」
朱音の左手が、澪の額を軽く弾いた。
「痛っ」
「勝手に、うちを被害者にしないで」
「ですが」
「あのとき、澪ちを守りたいって決めたのは、うち。友達を守るのに理由とかいらなくね?」
「……友達」
「もう認めたよね?」
「はい」
澪の目から、一筋だけ涙が落ちた。
「あなたは、私の大切な友達です」
「おっけ。言質取った」
朱音が笑う。
「じゃあ今度、うちの配信に出てね」
「なぜそうなるんです?」
「友達のお願いだから」
「怪我人であることを利用していますね?」
「バレた?」
「ですが――出ます」
今度は朱音が目を丸くした。
「マジ?」
「はい。私自身の言葉で、話したいことがあります」
「……そっか」
朱音は澪の顔を見つめ、優しく笑った。
「なら、うちが世界中へ届けるよ」
「お願いします」
「ついでに二人の関係も聞いちゃお」
「それは必要ありません」
「一番視聴者が気になってるところじゃん」
「公式配信を私物化しないでください」
「トーヤっち、澪ちに告白した?」
「ほとんどした」
「クズ!」
「愛してるとは言った」
「どうして言うんですか!」
「うわ、マジじゃん! 病院で修羅場見られる感じ!?」
「今夜の配信タイトルは決まったな」
「『元勇者と転生魔王、病室で交際宣言』」
「しません!」
澪が枕を投げる。
俺は右手で受け止めようとして、胸の傷に激痛が走った。
「ぐっ……!」
「トーヤっち!?」
「クズ!」
「葛城さん!」
三人が同時に俺へ駆け寄る。
「だ、大丈夫だ。少し傷が開いただけで――」
「医師を呼びます!」
「その前に、そこの看護師さんを」
「まだ口説くんですか!」
◇
一週間後。
朱音の配信チャンネルで、探索者協会監修の特別配信が行われた。
場所は病院内の会議室。
俺と朱音は車椅子。
澪と静香は、その後ろに立っている。
冥黒騎士は映していない。
協会との協議が終わるまで、彼の存在は秘匿されることになった。
「みんな、マジで心配かけてごめん!」
朱音が、動かせる左手を振る。
「無事、生還しましたー!」
『朱音ちゃん!』
『生きててよかった!』
『右腕大丈夫?』
『待ってた!』
『黒姫いる』
『無職ニキも生きてるじゃん』
『魔王について説明して』
視聴者数は、配信開始から三分で百万人を超えていた。
海外向けの同時翻訳も流れている。
「今日は、うちからじゃなくて澪ちから話があります」
撮影用ドローンが澪を映す。
澪の肩が、わずかに揺れた。
「緊張してる?」
「……少し」
「手、握る?」
「配信中です」
「だから?」
澪が俺を見る。
数秒迷ったあと、その手が俺の左手へ重なった。
『手繋いだ!?』
『付き合ってるじゃん』
『魔王と勇者のカップル?』
『情報量が多い』
『無職ニキそこ代われ』
澪はコメントを見て、頬を赤くする。
それでも、手を離さなかった。
「夜凪澪です」
まっすぐ前を見る。
「先日の配信で、魔物たちが私へ跪き、私をアルミレア・ノクティスと呼ぶ姿が映りました」
コメントの流れが速くなる。
「私は、その名を知っています。私の中には、かつて異世界で魔王として生きた女性の記憶があります」
静香がわずかに目を見開く。
事前に用意された原稿にはない言葉だった。
「ですが、私は誰かに操られているわけではありません。魔物の命令を受けているわけでも、人間を敵だと思っているわけでもありません」
『転生ってこと?』
『本当に魔王なのか』
『危険じゃないの?』
『信じられるわけない』
「怖いと思う人がいることは分かっています。私自身、自分の中にある力と記憶が怖いです」
澪の手に力が込められる。
俺も握り返した。
「けれど、私は夜凪澪です。この世界で生まれ、家族に育ててもらい、学校へ通い、探索者になりました。弱くて、役立たずだと言われて、それでも諦めたくなくて、一年間ずっと戦ってきました」
朱音が静かに聞いている。
「アルミレアだった私も、夜凪澪として生きてきた私も、どちらかが偽物ではありません。そのすべてが、今の私です」
流れていたコメントが、少しずつ止まっていく。
「私は、この力で人を傷つけません。魔物に人間を襲わせることもしません」
澪は一度、朱音を見る。
「大切な友達を守るために使います」
次に、俺を見る。
「そして――大切な人と一緒に、誰かを守るために使います」
「俺のこと?」
「今、口を挟まないでください!」
『大切な人って言った』
『告白じゃん』
『無職ニキ黙れ』
『澪ち頑張れ』
『黒姫じゃなくて夜凪澪』
『俺は信じる』
『朱音ちゃん守ってくれてありがとう』
「私が何者なのかを、他人に決めさせるつもりはありません」
澪が撮影用ドローンを見据える。
「私は、夜凪澪。探索者です」
そして、ほんの少しだけ笑った。
「今はまだEランクですが、必ず世界最強になります」
コメントが爆発した。
『かっこいい!』
『推す』
『世界最強宣言きた』
『黒姫じゃなくて黒の女王だろ』
『澪ち頑張れ!』
『無職ニキが育てるの?』
『師弟コンビ最高』
『魔王でも美少女なら問題ない』
『最後の奴は一回黙れ』
朱音が目元を拭う。
「いやー、よかった! では最後に、みんなが一番知りたい質問を――」
「配信を終了してください」
「まだ時間あるじゃん!」
「終わりです!」
「トーヤっちとの関係だけ!」
「一か月限定のパーティーメンバーです!」
「あと三週間くらいで別れんの?」
澪が口を閉ざす。
俺も、彼女を見る。
配信中だということを忘れたように、澪はしばらく黙っていた。
「……それについては、あとで話します」
『意味深』
『何かあるな』
『別れないで』
『結婚発表待ってます』
「以上、夜凪澪ちゃんからでしたー!」
「朱音さん!」
朱音が強引に配信を終わらせる。
画面が暗くなった瞬間、澪は大きく息を吐いた。
「終わった……」
「よくやったな」
「途中で何度も邪魔されましたが」
「俺の応援があったから最後まで話せた」
「邪魔と応援は違います」
「でも、手は離さなかった」
「それは……」
澪が俺の手を見る。
配信が終わった今も、俺たちの指は重なったままだった。
「離す?」
「…………」
「澪?」
「そのままで構いません」
消え入りそうな声だった。
「ところで、一つ報告があります」
静香が端末を差し出す。
「夜凪さんのランクについて、審査結果が出ました」
「昇格ですか?」
「はい。東京第七ダンジョンでの戦闘記録、火神さんと協会職員への救命措置、未確認災害級存在の鎮圧。複数の実績を総合し、特例でCランクへ昇格します」
澪が固まった。
「Cランク……?」
「登録から一年以上もFランクだった探索者が、数日でCランクへ昇格した前例はありません」
「おめでとう、澪」
「……ありがとうございます」
受け取った新しい資格証を、澪は両手で大切そうに包む。
それから、何かを思い出したように俺を見た。
「そういえば」
「何だ?」
「一週間以内にCランクになれたら、あなたの言うことを一つ聞くという話がありましたね」
「ああ」
「私は了承していませんが」
「でも条件は達成した」
「何をさせるつもりです?」
「膝枕」
「却下です」
「添い寝」
「却下です」
「デート」
「……検討します」
「本当か?」
「先に、私の話を聞いてください」
澪が鞄から、一枚の紙を取り出す。
見覚えのある用紙だった。
俺たちが初めて協会で書いた、パーティー結成申請書。
活動期間の欄には、一か月と記されている。
「一か月限定のパーティーについてです」
「ああ」
「この契約は、解消します」
覚悟していたはずだった。
澪が記憶を取り戻したあとも、俺と一緒にいたいと思ってくれる保証はない。
改めて好きになってもらうと言ったばかりだ。
それでも。
実際にその言葉を聞くと、胸の傷よりずっと痛かった。
「そうか」
「何ですか、その顔は」
「別に」
「捨てられた犬のような顔をしています」
「してない」
「耳と尻尾が垂れています」
「生えてないだろ」
「最後まで聞いてください」
澪が、もう一枚の用紙を取り出した。
「一か月という期限を設ける必要がなくなりました」
「それは……」
「期限なしのパーティーを、新しく申請します」
そこには、すでに夜凪澪の名前が記されていた。
「ただし、条件があります」
「女性を口説かない?」
「それも追加したいところですが、三つです」
澪が指を一本立てる。
「一つ。隠し事をしないこと」
二本目。
「二つ。一人で犠牲になろうとしないこと」
三本目。
「三つ。大切なことは、二人で決めること」
第七ダンジョンから帰還するとき、交わした約束。
「破った場合は?」
「《万象簒奪》で、あなたの大切なものを奪います」
「身体?」
「どうして嬉しそうなんです?」
「澪になら」
「最低です」
澪は頬を赤くしながら、申請書を俺へ差し出した。
「どうしますか?」
「聞く必要ある?」
「返事は言葉にしてください」
ペンを受け取り、自分の名前を書く。
「よろしく、澪」
「はい」
澪が微笑む。
「これからも、よろしくお願いします。クズ」
「期限は?」
「ありません」
「一生?」
「そこまで言っていません!」
「じゃあ、とりあえず百年くらい?」
「人間の寿命を考えてください」
「魔王なら何とかできるだろ」
「私を不老不死の研究へ利用しないでください!」
「夫婦で長生きしたいだけだ」
「まだパーティーを組んだだけです!」
朱音が腹を抱えて笑う。
「やっぱ二人とも、付き合ってんじゃん!」
「違います!」
「これから付き合う予定?」
「朱音さん!」
「式には呼んでね」
「話を進めないでください!」
「高嶺さん。証人になってくれる?」
「業務外です」
静香はそう言いながら、わずかに口元を緩めていた。
◇
配信を終えた日の夕方。
俺と澪は、病院の屋上にいた。
医師には止められたが、夕日を見るだけだと説得した。
正確には、澪が医師を説得し、俺は車椅子へ縛りつけられた。
「これ、必要か?」
「逃走防止です」
「逃げないよ」
「三回逃げました」
「院内を散歩しただけだ」
「一度目は女性看護師の休憩室。二度目は産婦人科。三度目は朱音さんの病室です」
「最後は問題ないだろ」
「最初の二つが致命的です」
屋上からは、夕日に染まる東京の街が見える。
異世界にはなかった、高い建物。
地面を走る車。
遠くで明滅する巨大な広告。
帰ってきた直後は、すべてが懐かしかった。
けれど、どこか自分の居場所ではないようにも感じていた。
「トーヤ」
懐かしい呼び方だった。
振り返る。
澪の瞳が、鮮烈な紅紫色へ変わっている。
「ミレア?」
「ええ」
「人格が入れ替わるのか?」
「そうではないわ。私は澪であり、アルミレアでもある。どちらの話し方を選ぶか、それだけよ」
「じゃあ、いつもの澪にも戻れる?」
瞳が濃紫色へ戻る。
「戻れます」
「便利だな」
「からかわないでください」
もう一度、紅紫色に変わった。
「私も、あなたへ伝えておきたいことがあるの」
「愛の告白?」
「……おそらく、近いわね」
本気で言ったわけではなかった。
返ってきた言葉に、心臓が跳ねる。
「前の生で、私はあなたと海の見える家で暮らしたいと願った」
「ああ」
「小さな畑を作って、二人で野菜を育てて。朝はあなたより先に起きて、夜は同じ寝台で眠る」
「覚えてたんだな」
「ええ。けれど、それはアルミレアの願いだった」
澪の瞳が、濃紫色へ戻る。
「だから、今度は夜凪澪として決めます」
夕日に照らされた少女が、俺の前へ立つ。
「私が世界最強の探索者になったら、海の見える家を買ってください」
「俺が?」
「はい」
「無職に要求が重くない?」
「獄炎龍の討伐報酬が振り込まれるのでしょう?」
「老後の資金にしようかと」
「二十歳で老後の心配をしているんですか?」
「今後も無職を続けるなら必要だろ」
「働いてください!」
「澪が世界最強になれば、養ってくれるって話だったはずだ」
「本当に最初からそれが目的だったんですか!」
「じゃあ、家は澪が買う?」
「…………」
澪が少し考える。
「分かりました。私が買います」
「いいのか?」
「その代わり、家事はあなたがしてください」
「料理できないぞ」
「覚えてください」
「畑仕事は?」
「二人でします」
「寝室は?」
「別です」
「約束と違う」
「何の約束ですか!」
「夜は同じ寝台で眠るって」
「それはアルミレアの願いです!」
「澪の願いにはならない?」
「……それは」
澪が夕日の方へ顔を逸らす。
「いつか、自分で決めます」
「なら、その日まで待つよ」
「ほかの女性に寄り道せず?」
「善処する」
「約束してください」
「逃げ道がないな」
「嫌ですか?」
その声には、わずかな不安が混じっていた。
俺は車椅子から身を起こし、澪の手を取る。
「嫌じゃない」
かつて俺は、愛した魔王を殺した。
彼女の願いも。
彼女と歩むはずだった未来も。
自分自身の手で終わらせた。
それでも、彼女は戻ってきた。
違う名前で。
違う人生を生きて。
同じ魂を持ちながら、過去とは違う一人の少女として。
「今度こそ、一緒に生きよう」
澪の瞳が紅紫色へ変わる。
そして、すぐに濃紫色へ戻った。
二人分の記憶と感情を抱えた少女が、俺の手を握り返す。
「はい」
その返事は、アルミレアのものでも。
夜凪澪だけのものでもない。
過去と現在、そのすべてを受け入れた彼女自身の声だった。
「ただし、浮気は許しません」
「まだ付き合ってないよな?」
「今後のための警告です」
「美人と会話するくらいは?」
「必要最低限にしてください」
「連絡先の交換は?」
「禁止です」
「食事は?」
「私も同行します」
「随分厳しいパーティーだな」
「解消しますか?」
「まさか」
俺は澪の手を強く握る。
「世界最強まで、責任を持って育てるよ」
「上から目線ですね」
「実際、師匠だからな」
「では、いつかあなたより強くなります」
「楽しみにしてる」
「私が勝ったら、言うことを一つ聞いてください」
「何でも?」
「はい」
「結婚とか?」
「どうして私から申し込む前提なんですか!」
「じゃあ、俺から――」
「今はまだ早いです!」
怒鳴る澪の顔は、真っ赤だった。
けれど、その手は最後まで離れなかった。
無職になって。
偶然ダンジョンへ入り。
Fランクの少女と出会った。
たったそれだけの出来事が、俺の止まっていた時間を動かした。
一か月限定だった約束は、期限のない未来へ変わった。
今度は、決して一人で決めない。
傷つくことも。
戦うことも。
生きることも。
この手を取って、二人で選ぶ。
それが、未来を与えられた勇者にできる、最初の一歩だった。
◇
同日。
日本。
アメリカ。
イギリス。
フランス。
ドイツ。
中国。
ロシア。
インド。
オーストラリア。
南米、アフリカ、中東、北欧。
世界中に点在する、七十二の常設ダンジョン。
その最深部で、誰も聞いたことのない音が響いた。
どくん。
岩壁が脈打つ。
どくん。
地面に亀裂が走る。
どくん。
地下深くに埋まった巨大な魔石が、同時に光を放つ。
赤。
青。
黒。
白。
七十二色の光が地脈を走り、海を越え、世界全体へ巨大な紋様を描いていく。
探索者協会の観測機器は、その異常を捉えなかった。
各国の軍事衛星も。
地下へ張り巡らされた魔力監視網も。
誰一人として、気づいていない。
七十二の迷宮が。
まるで一つの巨大な生物の心臓のように、同時に目覚め始めたことを。
◇
光の届かない円形の部屋。
中央に置かれた円卓を、五つの影が囲んでいた。
壁も、天井も見えない。
漆黒の空間に浮かぶのは、七十二個の光点。
そのすべてが、一定の間隔で明滅している。
「七十二迷宮、全基の脈動を確認」
眼鏡をかけた男が、冷静な声で告げる。
「位相差、零・〇〇三パーセント以内。偶発的な現象である可能性は排除していい」
「つまり、あの種を壊したせいで目覚めたってこと?」
円卓へ長い脚を載せた女が、獰猛に笑う。
「いいじゃない。ようやく退屈が終わりそうだわ」
「何がいいのさ」
部屋の隅で背中を丸めた男が、青ざめた顔を上げる。
「七十二個だよ? 一つでも世界が滅びるかもしれないのに、それが全部だ。もう終わりだよ。今から逃げる場所を探した方がいい。いや、この星から逃げても無駄か……」
「お主は三日に一度、世界を終わらせるのう」
幼い少女の姿をした女が、愉快そうに喉を鳴らす。
床へ届きそうな白髪。
古めかしい衣装。
手にした杖は、本人の身長よりも長い。
「じゃが、今回ばかりは笑ってもおれぬ。七十二の迷宮が同時に脈動したのは、これが二度目じゃ」
「一度目は?」
強気な女が脚を下ろす。
「十五年前。この世界へ、ダンジョンが出現した日じゃよ」
室内から、声が消えた。
「十五年ぶりの同時脈動。そして、直前に観測された《天理機構》の種の消滅」
眼鏡の男が指を動かす。
七十二の光点が消え、一つの戦闘映像へ切り替わった。
血まみれの青年が、何度倒されても立ち上がる。
身体から噴き上がる、黄金の光。
《未登録能力を検出》
《個体名――葛城燈矢》
《勇者因子の覚醒を確認》
《固有権能――暁光不滅》
「ダサい」
円卓の上へ腰かけた少女が、映像を見て鼻を鳴らした。
鮮やかな桃色の髪を指先へ巻きつけ、不機嫌そうに頬を膨らませる。
「何度も殴られて、最後に根性で勝っただけじゃん。戦い方が全然美しくない」
「ならば、お前が彼と戦った場合の勝率を算出しよう」
「百パーセント、あたしが勝つ」
「三・二パーセントだ」
「はあ!?」
少女が円卓を叩く。
「あんたの計算、壊れてるんじゃないの!?」
「僕は零点二パーセントだったよ……」
背中を丸めた男が頭を抱える。
「一万回戦えば、九千九百八十回は殺されるんだ。残り二十回も、きっと生き残ったあとでもっと酷い目に遭う。もう会わない方がいい……」
「お主の場合、戦う前に降参する確率が九十九パーセントじゃろう」
「降参して許してもらえるかな……」
「敵なら無理でしょうね」
強気な女が、映像へ手を伸ばす。
彼女の指先が、黄金の光をまとった燈矢の姿をなぞった。
「でも、悪くない男だわ」
「顔が?」
桃色の髪の少女が尋ねる。
「強さがよ。殺されかけても、守りたい女のために立ち上がる。最高じゃない」
「ただの死にたがりでしょ」
「あら。怖いの?」
「誰が!」
「二人とも、議題から逸れている」
眼鏡の男が映像を停止させた。
「《暁光不滅》は、我々が把握している七十一種の勇者権能、そのいずれにも該当しない」
「七十一……?」
背中を丸めた男が顔を上げる。
「まさか、最後の一つが……」
「断定はできない」
男が別の映像を表示する。
黒い大鎌。
万象を喰らう闇。
その隣で、黄金の聖剣を振るう青年。
「だが、魔王因子を持つ個体と共鳴し、《天理機構》の種を破壊した。既存の勇者では不可能な現象だ」
「つまり」
強気な女が笑う。
「彼が、《真の勇者》?」
「認めない」
桃色の髪の少女が即答する。
「あんな女好きの無職が、あたしたちより上なわけないでしょ。絶対、何かの間違い」
「無職であることと、勇者因子の純度に相関関係はない」
「真面目に答えないでよ!」
「事実を述べているだけだ」
「こいつ、本当に嫌い!」
「しかし、どうするのじゃ?」
白髪の幼女が、杖で床を叩く。
「七十二迷宮が目覚めた以上、残された時間は多くないぞ」
「排除するべきだ」
背中を丸めた男が、震える声で告げる。
「怖いよ。未知の勇者なんて、絶対ろくなことにならない。今は人類を守っていても、いつ敵になるか分からない。隣には魔王までいる。二人が手を組んで僕たちを殺しに来たら……」
「それ、本気で言ってる?」
強気な女の声から笑みが消えた。
「彼は、死にかけながら人間を守った。排除されるべきなのは、何もしていない臆病者の方じゃない?」
「そうやって油断して、全滅するんだ……」
「あたしも排除に賛成」
桃色の髪の少女が手を挙げる。
「本物かどうか、あたしが直接確かめる。弱かったら、その場で殺す」
「お前を単独で向かわせる案は却下する」
「どうして!?」
「初対面の相手へ攻撃し、反撃で死亡する可能性が高い」
「誰が死ぬって!?」
「静かにせぬか」
白髪の幼女が杖を振る。
空間そのものが震え、全員の声が止まった。
「相手は未知の勇者。しかも、《常闇の女王》の魂を持つ娘がそばにおる。敵に回すか、味方に迎えるか。その選択を誤れば、七十二迷宮が開く前に我らが終わるぞ」
眼鏡の男が一同を見渡す。
「では、決を採る」
円卓の中央へ、葛城燈矢の姿が映し出される。
病院の屋上。
車椅子へ座り、黒髪の少女と手を繋いでいる。
「確認だけど」
強気な女が立ち上がる。
「勧誘するなら、私が行ってもいいのよね?」
「反対。絶対、あの男を口説くつもりでしょ」
「悪い?」
「組織内恋愛は面倒だからやめてよ!」
「僕も反対だ……。きっと魔王の少女が嫉妬して、僕たちの本拠地ごと消し飛ばす……」
「お主ら、少しは真面目に話せ」
眼鏡の男が、深く息を吐いた。
そして、改めて告げる。
「葛城燈矢を、我々の仲間へ迎え入れるべきか」
七十二の光が、一斉に強く脈打つ。
「諸君は――どう思う?」
第一部 完
第一部完結までお読みいただき、ありがとうございました!
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