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第一話 勇者は、愛した魔王を殺した


 神授聖剣《アストラペ》が、愛した女の胸を貫いていた。


「……っ」


 女の唇から、かすかな吐息が漏れる。


 白銀の刃を伝い、鮮血が俺の手へ流れ落ちてくる。


 その血はひどく熱かった。


 世界を滅ぼす魔王の血も、人間と変わらず温かいのだと――そんなことを、俺はとうの昔に知っていた。


「ミレア……」


 震える声で、その名を呼ぶ。


 常闇の女王。


 史上最強の魔王。


 人類が恐怖し、憎悪し、すべての災厄の元凶と呼んだ女。


 アルミレア・ノクティス。


 けれど、俺にとって彼女は、ただのミレアだった。


「そんな顔を……しないでください、トーヤ」


 ミレアは微笑んだ。


 口元から血を流しながら、それでも俺を安心させようと笑っていた。


 彼女の身体を覆っていた黒い魔力が、少しずつ崩れていく。


 魔王城を呑み込み、大陸の空を覆い尽くしていた暗黒。


 人類が放った禁呪を《万象簒奪》で取り込み、自らの内側へ封じ込めた力。


 もし解放されれば、人間も魔族も関係なく、この世界のすべてを喰らい尽くす災厄。


 それを止める方法は、ただ一つ。


 魔王核が完全に侵食される前に、聖剣で破壊すること。


 だから、俺が彼女を殺した。


 世界を救うために。


「何が……《曙光の勇者》だ」


 声が震える。


「世界を救う? 誰一人見捨てない? ふざけるな……っ。俺は、お前一人救えなかったじゃないか」


「充分です」


「何が充分なんだよ!」


 叫んだ俺に、ミレアは少し困ったように眉を下げた。


 彼女の背から伸びていた黒翼は、もう片方が崩れ落ちている。夜色の長い髪も、魔力の消失とともに光を失いつつあった。


 それでも、彼女は美しかった。


 十年前。


 この世界へ召喚されたばかりの俺を、森の中で助けてくれたときと同じように。


『行く場所がないのなら、途中まで一緒に来ますか?』


 あのとき、俺は彼女が魔王だと知らなかった。


 彼女もまた、俺が異世界から呼び出された勇者だとは知らなかった。


 名も知らない世界で初めて差し伸べられた、白い手。


 その手を取ったことから、すべてが始まった。


 次に会ったのは、戦場だった。


 人類軍の先頭に立つ《曙光の勇者》と、魔族軍を率いる《常闇の女王》として。


 互いの正体を知った瞬間、俺たちは敵になった。


 それでも、相手を憎むことだけはできなかった。


 何度も戦った。


 何度も剣を交えた。


 何度も殺せる瞬間があった。


 それでも、俺たちは互いを殺せなかった。


 やがて戦場を抜け出し、誰にも知られない場所で会うようになった。


 人間と魔族が争わずに済む道を、二人で探した。


 戦争が終わったら何をするか、馬鹿みたいに語り合った。


 海の見える小さな家が欲しいと、ミレアは言った。


 俺は畑でも耕すと答えた。


 あなたに農作業は無理だと笑われた。


 なら、お前が教えてくれと返した。


 そんな未来が本当に来ると、信じていた。


 信じていたのに。


「俺は……お前と生きたかった」


「はい」


「海を見に行くって約束した」


「覚えています」


「魔王を辞めたら、俺の故郷の料理を食わせるって……」


「楽しみにしていました」


「だったら、死ぬなよ!」


 聖剣から手を離す。


 けれど《アストラペ》は、彼女の胸へ突き刺さったままだった。


 引き抜けば、内側に封じられている力が解放される。


 押し込めば、彼女の魔王核は完全に砕ける。


 どちらを選んでも、俺の願う未来には届かない。


「頼むから……死なないでくれ」


「それだけは、聞いてあげられません」


 ミレアが腕を伸ばした。


 もう力など残っていないはずなのに、その手は迷うことなく俺の頬へ触れた。


 初めて出会ったときと、同じ手だった。


「トーヤ。私は、あなたに殺されたのではありません」


「……やめろ」


「私があなたを生かすために、こうしたのです」


「やめてくれ」


「ですから、どうか自分を責めないで」


「そんなの無理に決まってるだろ!」


 それは俺を救うための言葉だった。


 同時に、どうあっても俺には守れない願いだった。


「なら、一つだけ約束してください」


「……約束?」


「生きてください」


 どうして。


 そんな残酷なことを言える。


「お前のいない世界で、俺に何をしろっていうんだ」


「何でも。あなたの好きなように」


「俺が好きなのは、お前だ」


「知っています」


「なら――」


「私も、あなたを愛していますから」


 ミレアの指が、俺の目元を拭った。


 そこで初めて、自分が泣いていることに気づいた。


「きっとあなたは、何度倒れても立ち上がってしまいます。自分がどれだけ苦しくても、誰かが助けを求めれば手を伸ばしてしまう。そういう人だから、私はあなたを愛したのです」


「もう勇者なんてやめる」


「それでも構いません」


「誰かを救ったりもしない」


「はい」


「俺は……最低な人間になるかもしれない」


「それは少し困りますね」


 ミレアが小さく笑った。


「ですが、あなたは最低な人間になろうとして、なりきれない人ですから」


「買い被りだ」


「十年も見てきたのですよ? あなたより、あなたを知っています」


 彼女の身体から、最後の魔力がこぼれ始めた。


 もう、時間がない。


 俺にも分かっていた。


 ここで魔王核を破壊しなければ、ミレアは正気を失う。


 彼女が命懸けで守った人間と魔族を、今度は彼女自身が喰らうことになる。


 そんな結末だけは、受け入れられなかった。


「……次に」


 ミレアが囁く。


「次に生まれることができたなら――敵ではない私を、見つけてください」


「必ず見つける」


「そのときは、勇者でも魔王でもなく」


「ああ」


「ただの、あなたと私として……もう一度」


 声が途切れた。


 俺は《アストラペ》の柄を握った。


 全身が拒絶していた。


 腕が動かない。


 世界を救わなければならない。


 そんなことは分かっている。


 それでも、この女一人を失ってまで残す価値が、この世界に本当にあるのか。


「トーヤ」


 ミレアが、俺の名を呼ぶ。


 最後まで、穏やかな声だった。


「愛しています」


 俺は聖剣を押し込んだ。


 魔王核が砕ける感触が、掌へ伝わった。


「――俺も、愛してる」


 その言葉を聞いて、ミレアは幸せそうに微笑んだ。


 そして、俺の腕の中で息を引き取った。


 世界を覆っていた暗黒が消えていく。


 雲の切れ間から、十年ぶりの陽光が差し込んだ。


 人類は歓喜するだろう。


 魔王が死んだ。


 勇者が勝った。


 世界は救われたのだと。


 けれど俺には、その光がどうしようもなく醜く見えた。


 聖剣《アストラペ》が脈打つ。


 ミレアの胸から吸い上げた膨大な魔力が、刀身を通じてどこかへ流れていく。


 刀身には、見覚えのない赤い紋様が浮かんでいた。


 まるで聖剣そのものが、彼女の死を喜んでいるかのように。


 それを考える余裕はなかった。


 腕の中に残された彼女の身体を、強く抱き締める。


 その瞬間。


 足元に、巨大な召喚陣が浮かび上がった。


 役目を終えた勇者を、元の世界へ送り返す光。


「待て」


 まだ、彼女を埋葬していない。


「待ってくれ!」


 仲間にも、何も伝えていない。


「俺は帰るなんて言ってない!」


 ミレアの身体が、光の粒子となって腕の中から消えていく。


 掴もうとしても、指の間を通り抜ける。


「ミレア!」


 伸ばした手は、何にも届かなかった。


 光が視界を焼き尽くす。


 俺が最後に見たのは、地面に落ちた一滴の血と。


 異様なほど赤く染まった、聖剣《アストラペ》だった。


     ◇


 世界を救った勇者が、その後どうなったのか。


 結論から言えば、最低のクズになった。


     ◇


「燈矢君ってさ」


 三か月後。


 女が、ベッドの上で煙草を吸いながら俺に尋ねた。


「本当は何してる人なの?」


「何って?」


「仕事」


「してない」


「学校は?」


「行ってない」


「ご両親は?」


「健在」


「夢とか目標は?」


「美人に養ってもらうこと」


「うわ、クズ」


「今さら気づいたのか?」


 俺は床に落ちていた黒いシャツを拾い上げた。


 彼女の名前は覚えている。


 たしか、ユキ。


 名字までは聞いていない。


 昨夜、探索者向けの酒場で声をかけられた。何杯か酒を飲み、そのまま彼女の部屋まで来た。


 相手も遊びだと分かっている。


 俺も余計な期待を持たせるようなことは言っていない。


 互いに名前と身体以外、ほとんど何も知らない。


 それでいい。


 深く知れば、情が移る。


 大切に思えば、失ったときに苦しくなる。


 一人を愛することがどれほど愚かなのか、俺は身をもって知っていた。


「もう帰るの?」


「朝飯は用意してくれないだろ?」


「作ったら付き合ってくれる?」


「卵焼きの味による」


「最低」


「さっき聞いた」


 煙草の箱が飛んできたので、片手で受け止める。


 投げ返すと、ユキは呆れたように笑った。


「でも、燈矢君って変だよね」


「よく言われる」


「女慣れしてるくせに、ときどき童貞みたいな顔する」


「どんな顔だよ」


「誰かに触るのを怖がってる顔」


 シャツのボタンを留めていた指が止まる。


 ユキはこちらを見ていない。


 窓の外へ煙を吐きながら、何でもないことのように続けた。


「忘れられない人でもいる?」


「いないよ」


 即答した。


「俺は過去を振り返らない男なんだ」


「ふうん」


「信じてないな?」


「信じてほしかったら、私の名字を言ってみて」


「…………」


「ほら、クズ」


 反論できなかったので、窓から逃げることにした。


 俺は右手の中指にはめた黒い指輪を確認し、窓枠へ足をかける。


「じゃあな、ユキ」


「ちょっと、ここ五階!」


「知ってる」


 そのまま外へ飛び出した。


 背後から悲鳴が聞こえる。


 五階程度なら、俺にとっては階段を下りるより早い。


 地面へ着地する寸前、体内で練り上げた気を足裏から放つ。落下の衝撃を散らし、音もなく路地へ降り立った。


 直後、頭上の窓が勢いよく開く。


「燈矢君!?」


「朝から元気だな」


「警察呼ぶよ!?」


「昨夜の男が窓から帰ったって説明するのか?」


「二度と来ないで、このクズ!」


「卵焼きは?」


 灰皿が降ってきた。


 今度は受け止めずに避ける。


 軽く片手を振り、俺は路地を歩き出した。


 朝の街は、俺の知っているものとは微妙に違っていた。


 空を飛ぶ車があるわけでも、建物が総入れ替えされたわけでもない。


 変わったのは、街の至るところに貼られた注意書きだ。


『ダンジョン災害警戒区域』


『魔物の目撃情報は専用アプリから通報してください』


『無資格者のダンジョン侵入は法律で禁止されています』


 俺が異世界へ召喚されている間、地球では五年が過ぎていた。


 召喚されたときは十五歳。


 異世界で十年を過ごし、二十五歳になったはずだった。


 ところが帰還した俺の身体は、なぜか二十歳まで若返っている。


 戸籍上の年齢とも一致していたため、役所には大して疑われなかった。


 五年間行方不明だった高校生が、二十歳の姿で帰ってきた。


 本来なら大騒ぎになるところだが、今の地球では、それ以上に不可解な現象が日常的に起きている。


 四年前、世界各地に突如として現れた《ダンジョン》。


 内部から出現する魔物。


 人類に発現したスキルと魔力。


 魔物を倒し、ダンジョンを攻略する《探索者》。


 どうやら俺が異世界へ召喚された際、二つの世界を結ぶ経路から、こちらへも魔力が流れ込んだらしい。


 俺が命懸けで剣と魔法を学んでいる間に、地球まで随分と愉快なことになっていた。


「まあ、どうでもいいか」


 世界がどうなろうと、知ったことではない。


 勇者としての仕事は、もう終わった。


 今度こそ、自分の好きなように生きる。


 酒を飲み、女と遊び、適当なところで野垂れ死ぬ。


 ミレアとの約束を守って生きるには、俺は少しばかり疲れすぎていた。


 大通りへ出たところで、けたたましい警報が鳴り響く。


『緊急警報。周辺住民は、直ちに屋内へ避難してください』


 道行く人々のスマートフォンが一斉に同じ音を発した。


『東京都第三区画ダンジョンにて、未確認魔力反応を検知。内部にいる探索者は、直ちに地上へ退避してください』


 逃げ惑う人波とは逆に、装備を身につけた探索者たちが道路の向こうへ走っていく。


 その先には、巨大なドーム状の建物があった。


 東京第三ダンジョン。


 昨夜ユキから聞かされた話では、初心者用に管理された低難度ダンジョンらしい。


「災害級反応だってよ!」


「嘘だろ、ここは最高でもDランクまでじゃなかったのか!?」


「内部に研修中の新人が残ってる!」


 探索者たちの声が聞こえる。


 足が止まった。


 俺には関係ない。


 中に何人残っていようと、ここには探索者も軍隊もいる。


 俺が勇者である必要はない。


 もう誰かを助ける義務もない。


 歩き出そうとする。


 その瞬間。


 右手の中指にはめていた黒い指輪が震えた。


「……まさか」


 神授聖剣《アストラペ》。


 帰還後、一度も抜いていない聖剣は、力を封じることで指輪の形へ縮んでいる。


 そこから伝わってきたのは、懐かしい魔力だった。


 間違えるはずがない。


 十年間、何度も触れた。


 戦場では衝突し、誰にも知られない夜には互いを抱き締めた。


 俺の魂にまで刻み込まれた、常闇の魔力。


 ミレアのものだった。


「おい、君!」


 制止する声を無視し、俺はダンジョンへ走った。


「立入禁止だ! 止まれ!」


「悪い。あとで反省文なら書く」


「無資格者が入ったら犯罪だぞ!」


「捕まえるなら、戻ってきてからにしてくれ」


 閉まりかけた隔壁の隙間へ身体を滑り込ませる。


 後ろで鋼鉄の扉が閉じた。


 目の前に広がっていたのは、石造りの迷宮だった。


 異世界で見慣れたものとは構造が違う。


 天然の洞窟ではない。何者かが人間を誘い込むため、意図的に通路と階層を作っているように見えた。


 壁の奥で、魔力が脈打っている。


「気持ち悪い場所だな」


 俺は地面を蹴った。


 気を脚部へ集中。


 一歩で数十メートルを駆け抜ける。


 分岐路で立ち止まり、呼吸を整えた。


 魔力は使わない。


 聖剣も抜かない。


 それでも、体内を巡る生命の気と、異世界東方で修めた《仙闘術》がある。


 大気の振動。


 血の匂い。


 離れた場所から響く、魔物の雄叫び。


「こっちか」


 壁を殴り壊した方が早そうだったが、崩落に巻き込まれては中にいる人間が危ない。


 仕方なく通路を進む。


 二つ目の角を曲がったところで、三人の探索者が走ってきた。


 全員が若い。


 先頭の男は上等そうな剣を持ち、後ろには杖を持った女と、弓を背負った男が続いている。


「何だ、お前!?」


「中にまだ誰か残ってるか?」


「知らねえよ! どけ!」


 三人の装備には血がついている。


 だが、誰も大きな怪我をしていない。


 血の匂いも本人たちのものではなかった。


「四人組だったな?」


 男の顔が引きつった。


 俺はその胸倉を掴む。


「一人、置いてきたのか?」


「ち、違う! 夜凪が自分で残ると言ったんだ!」


「それで置いてきた?」


「俺たちが残ったって、全滅するだけだ! それに、あいつが魔物を引き寄せたんだよ!」


「魔物を?」


「あいつと組んでから、異常ばかり起きる! 夜凪さえいなければ、《黒鎧鬼》なんて現れなかった!」


 男の声には、後ろめたさと恐怖が混ざっていた。


 嘘をついているようには見えない。


「夜凪って奴は、どこにいる?」


「この先の大広間だ! でも、もう無理だ。Aランク指定の《黒鎧鬼》だぞ!」


「分かった。ありがとう」


 胸倉を離す。


「待て! 一人で行くつもりか!?」


「安心しろ。俺も逃げるのは得意なんだ」


 嘘だった。


 かつての仲間たちは、俺ほど逃げるのが下手な人間はいないと言っていた。


 そのまま三人とすれ違う。


「死んでも知らねえからな!」


「俺も、お前たちが死んでも知らないよ」


 だから、今は先へ進む。


 遠くから、再び轟音が響いた。


 人間の悲鳴も聞こえる。


 意識するより先に、脚が動いていた。


「……最低な人間になりきれない、か」


 死んだ女の言葉を思い出す。


「あいつ、本当に俺より俺を知ってたな」


     ◇


 大広間へ飛び込んだ瞬間、巨大な棍棒が振り下ろされた。


 床が砕ける。


 砂埃が舞い上がり、黒い巨体が姿を現した。


 全高三メートルを超える鬼。


 全身が黒い外骨格に覆われ、額から二本の角が伸びている。


 黒鎧鬼。


 こちらの基準ではAランク指定魔物らしいが、異世界なら前線にいくらでもいた。


 その足元に、一人の少女が倒れていた。


 折れた剣。


 破損した軽装鎧。


 長い黒髪が床へ広がっている。


 左脚を負傷しながら、それでも少女は立ち上がろうとしていた。


「まだ……です」


 震える腕で、折れた剣を握る。


「私は、まだ……戦えます」


 逃げる仲間を追うこともできたはずだ。


 だが、大広間の隅には、負傷した二人の新人探索者が倒れている。


 少女は自分より先に、彼らを逃がそうとしていた。


「早く……行ってください」


「でも、夜凪さんは!?」


「私が時間を稼ぎます」


「そんな身体じゃ無理だ!」


「分かっています!」


 少女が叫ぶ。


 黒鎧鬼が棍棒を持ち上げた。


「分かってますよ……それくらい」


 少女の声は震えていた。


 怖くないはずがない。


 自分がここで死ぬと分かっている。


 それでも逃げない。


「ですが、全員で死ぬよりはましです」


 黒鎧鬼の棍棒が振り下ろされる。


 俺は少女の前へ踏み込んだ。


 片手を上げる。


 巨大な棍棒を、掌で受け止めた。


 轟音が響く。


 床が陥没し、大広間全体が揺れた。


 少女が目を見開く。


「……え?」


「よく頑張ったな」


「誰、ですか?」


「通りすがりの無職」


「無職……?」


「趣味は酒と女遊び。将来の夢は美人に養ってもらうこと」


「そんな人が、どうしてダンジョンにいるんですか!?」


「俺も今、それを後悔してる」


 黒鎧鬼が棍棒へ力を込める。


 俺の片腕を押し潰そうとしているらしい。


「危ない!」


「心配してくれるのか?」


「当たり前でしょう!」


「優しいな。惚れそうだ」


「今すぐ潰されてください!」


「どっちなんだよ」


 黒鎧鬼が雄叫びを上げた。


 うるさい。


 少女との会話が聞こえない。


「少し黙ってろ」


 棍棒を横へ受け流す。


 体勢を崩した黒鎧鬼の懐へ入り、右手をその胸板へ添えた。


 拳を振りかぶる必要はない。


 鎧を破壊する必要もない。


 防御の表面を通り抜け、衝撃だけを内側へ叩き込む。


 異世界東方に伝わる仙闘術――透勁。


 軽く押す。


 一拍遅れて、黒鎧鬼の背中が爆発した。


 衝撃が大広間を駆け抜け、その背後にある石壁へ巨大な亀裂を走らせる。


 黒鎧鬼の巨体が、ゆっくりと傾いた。


 地響きを立てて倒れる。


 静寂が訪れた。


「……は?」


 少女が間の抜けた声を漏らす。


「思ったより脆いな」


「いま……何をしたんですか?」


「ちょっと押した」


「押しただけでAランク魔物が爆発するわけないでしょう!」


「体調が悪かったのかもしれない」


「魔物の体調を心配する前に、自分の頭を心配してください!」


「酷いな。命の恩人だぞ?」


「命の恩人なら、もう少しまともな説明をしてください!」


 元気そうで何よりだ。


「悪い。話の前に、そっちの二人を診る」


 大広間の隅へ移動し、倒れている探索者の状態を確認する。


 一人は右腕を折られ、もう一人は脇腹を深く切り裂かれていた。


 俺は負傷者の身体へ指を添え、呼吸を整える。


「何をするんですか?」


「止血だ」


「回復魔術を使えるんですか?」


「魔術は使わない。身体の気の流れを整えるだけだ」


 傷を塞ぐことはできないが、血の流れを制御し、出血を抑える程度なら可能だ。


 応急処置を終えたところで、遠くから複数の足音が聞こえてきた。


「救助隊が来る。二人とも、もう大丈夫だ」


「聞こえるんですか?」


「耳はいい方なんだ」


「耳がいいという距離ではないと思いますけど……」


 少女は納得していない様子だったが、負傷者の呼吸が安定したことを確認すると、ようやく肩の力を抜いた。


「それで、君は立てるか?」


「これくらいなら……」


 俺は手を差し出す。


 少女は警戒するように、その手を見つめた。


「触っただけで、私も爆発しませんよね?」


「俺を何だと思ってるんだ」


「無職で、酒と女遊びが趣味の不審者」


「自分で言ったことだけど、傷つくな」


 少女はためらいながら、俺の手を取った。


 その瞬間。


 世界から、音が消えた。


 白く細い指。


 触れた掌から伝わってくる、微かな魔力。


 弱々しく、今にも消えそうなほど小さい。


 それでも、間違えるはずがなかった。


 常闇の魔力。


 何度も剣を交えた。


 何度も抱き締めた。


 最後には、この手で殺した。


 俺が世界の何よりも愛した女の魔力だった。


「……ミレア?」


 少女の肩が震える。


 顔を上げた。


 長い黒髪の隙間から、夜空を閉じ込めたような濃紫の瞳が俺を見る。


 十年前、森で出会った少女と同じ顔。


 魔王城で命を落とした女と同じ瞳。


 けれど、その目に俺の記憶はなかった。


「誰ですか、それ」


「本当に……お前なのか?」


「さっきから何を――」


 気づいたときには、少女の身体を抱き締めていた。


 細い。


 温かい。


 腕の中に、確かな命がある。


 あの日、光の粒子となって消えていった身体とは違う。


 心臓が動いている。


 呼吸をしている。


 生きている。


「ようやく……見つけた」


「あの」


「今度こそ」


「あの、ちょっと」


「今度こそ、俺が君を守る」


「人の話を聞いてください」


 少女の冷たい声が耳元で響く。


 次の瞬間、腹部へ鋭い拳が突き刺さった。


「ぐっ!?」


 黒鎧鬼の棍棒を受け止めた俺が、思わず少女を解放する。


 少女は胸元を押さえながら後退した。白い頬が真っ赤に染まっている。


「いきなり何をするんですか、この変態!」


「いや、感極まって……」


「初対面の女へ抱きつく人間の言い訳としては、最低ですね!」


「誤解だ。俺と君は初対面じゃない」


「では、いつ会ったんです?」


「十年くらい前」


「私は十七歳です! 七歳の女児とどこで知り合ったんですか!?」


「そう言われると、ものすごく犯罪者っぽいな」


「自覚がなかったんですか!?」


 十七歳。


 その言葉が、遅れて胸へ引っかかった。


 ミレアが死んだのは、俺にとって三か月前のことだ。


 それなのに、目の前の少女は十七年間、この地球で生きている。


 普通に考えれば、転生したはずがない。


 だが、俺は異世界で十年を過ごし、五年後の地球へ帰ってきた。


 世界を越える際、時間まで同じ方向へ流れる保証など、どこにもなかった。


 何より、この魔力を間違えるはずがない。


「それ以上近づいたら、本気で刺します」


 少女が折れた剣をこちらへ向ける。


「その剣、折れてるけど」


「残った部分で刺します」


「待ってくれ。せめて名前を聞かせてほしい」


「先ほど、私のパーティーメンバーから聞いたのでは?」


「あれを仲間とは呼ばない方がいい。君を残して逃げた」


「……見たんですね」


 怒るかと思った。


 けれど少女は、ほんの少し目を伏せただけだった。


 最初から、あの連中に期待していなかったのだろう。


「夜凪澪です」


 やがて少女は答えた。


「夜凪、澪……」


「あなたは?」


「葛城燈矢」


「葛城さん」


「燈矢でいい」


「お断りします」


「即答か」


「初対面で抱きついてくる人間を、名前で呼ぶほど親しくありません」


「それじゃあ、これから親しくなろう」


「嫌です」


「強くなりたくないか?」


 少女の表情が変わった。


 俺は確信する。


 身体も名前も違う。


 記憶もない。


 それでも、この少女はミレアだ。


 圧倒的な力を持ちながら、いつも誰かを守ろうとしていた女。


 今度は力を失っても、やはり他人を逃がすために自分を犠牲にした。


「君の力は、Fランクなんかじゃない」


「……慰めなら必要ありません」


「慰めじゃない。君は、誰よりも強くなれる」


「根拠は?」


「俺が知ってる」


「だから、どうしてあなたが私のことを知っているんですか」


 それには答えられない。


 俺はミレアを殺した。


 その事実を知れば、澪は二度と俺の手を取らないかもしれない。


 それでも、今度こそ守りたかった。


 たとえ彼女から拒絶されても。


 たとえ俺が救われることなどなくても。


「俺が君を、世界で一番強い探索者にする」


 少女――夜凪澪は、しばらく黙って俺を見つめた。


 やがて、大きなため息をつく。


「信用できません」


「だろうな」


「女性関係もだらしなさそうです」


「見る目がある」


「働いてもいない」


「今日から探索者になる予定だ」


「無資格でダンジョンへ入ってきたんですか!?」


「緊急事態だったから仕方ない」


「犯罪者じゃないですか!」


「助けたんだから、情状酌量の余地はあるだろ」


「その理屈で許されるなら警察は必要ありません」


 正論だった。


「やはり信用できません」


「そこを何とか」


「嫌です」


「昼飯を奢る」


「そんなもので私が――」


「焼肉」


 澪の言葉が止まった。


 視線が、わずかに泳ぐ。


「……高い店ですか?」


「もちろん」


「食べ放題ではなく?」


「好きなものを好きなだけ頼め」


「それで私を釣れると思っているんですか?」


「思ってる」


「最低ですね」


 澪は再びため息をついた。


「一度だけです」


「何が?」


「話くらいなら、聞いてあげてもいいと言っています」


「焼肉目当てで?」


「あなたを警戒して監視するためです」


「なるほど」


「何ですか、その顔は」


「いや、かわいいなと思って」


 折れた剣が飛んできた。


 首を傾けて避ける。


「やっぱり、焼肉は中止にします!」


「悪かった! もう言わない!」


「二度と私の容姿について発言しないでください!」


「善処する!」


「約束してください!」


「それは難しい!」


「このクズ!」


 その呼び方に、俺は思わず笑ってしまった。


「葛城だからクズか。うまいな」


「感心している場合ですか?」


「それでいい」


「何がです?」


「これから俺のことは、クズって呼んでくれ」


「……気持ち悪い人ですね」


「ああ。よく言われる」


 澪が、呆れたように眉をひそめる。


 その表情すら、たまらなく懐かしかった。


 一度は、この手で終わらせた命。


 世界を救うために諦めた、たった一人の女。


 その少女が今、俺の目の前で生きている。


 俺のことを何も覚えていないまま。


 それでいい。


 今度は、勇者と魔王ではない。


 ただの葛城燈矢と、夜凪澪として始めればいい。


 俺はもう、勇者ではない。


 正義も、使命も、世界の命運も知ったことではない。


 それでも。


 もし再び世界が、この少女の命を要求するのなら。


 今度こそ、俺は間違えない。


 世界も救う。


 澪も救う。


 その両方を成し遂げるまで、何度だって立ち上がる。


 たとえ世界のすべてが、彼女の敵になったとしても。


 今度は俺が――彼女のために、世界の敵になろう。

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