10
久瀬は腕を組み、心底嫌そうな顔をする。宙は思わず笑ってしまった。
「でも、コタロウが見つかってたなら、教えてくれたらよかったのに」
「あのときは、まだコタロウだという確証がなかった。……それに、柴犬を探しているという問い合わせも、この一ヶ月なかったそうだからな。たとえ飼い主が見つかっても殺処分される可能性が高かった」
宙は一瞬きょとんとして、また両手を組んだ。
「もしかして、俺がショックを受けるのを心配して……?」
わざと高い声を出すと、「おめでたい頭だな」と一蹴された。けれど、はっきり否定しないあたり、図星なのだろう。
「……ん?」
ふと、首に違和感を覚えて手を遣る。何となく、さっきより首輪の締め付けが緩んだような気がした。
「どうかしたか?」
「すみません、ちょっと……」
宙は一言断ってから、部屋を出た。首に巻いていたタオルを外し、首輪に直接触れる。あんなにびくともしなかった金具が、少し浮いている。
おそるおそるベルトの先を押すと、驚くほどあっけなく金具からベルトが抜けた。そのまま金具を引くと、するりと首輪が外れる。
「は、はず――!」
「外れたか」
「うわあ!?」
振り向くと、真後ろに久瀬が立っていた。バクバクと鳴る心臓を押さえていると、無言で片手を差し出される。
「原さんに返すんですか?」
首輪を渡しながら、首を傾げる。
「返さない」
「えっ?」
久瀬は背負っていたリュックから厚手の透明な袋を取り出すと、受け取った首輪を入れる。宙は戸惑いながら久瀬を見た。
「返さないって……じゃあ、どうするんですか?」
「情報を整理して記録した後、保管室に収容する」
「ちゃんと外れたのに、返してあげられないんですか?」
宙の言葉に、久瀬はため息を吐く。
「いいか、一度異失物に変異したものは、二度と普通の物に戻ることはない。いったん無害化したとしても、何かきっかけがあればまた怪異を起こす。さらに感情が蓄積していけば、より強い等級の異失物になる可能性もある」
淡々と声を落として説明しながら、久瀬は首輪を入れた袋をリュックに仕舞う。宙は俯いて、久瀬のリュックを見つめた。
「でも、その首輪の感情は悪いものじゃなかったのに……」
「今はな」
そう切り捨てる久瀬を少し冷たく感じたが、反論できるだけの言葉を宙は持たない。自分は今回たまたま巻き込まれただけで、異失物のことなど何も知らないのだ。
「首輪の保管のために分駐所へ戻る。悪いが、もう少し付き合ってくれ」
「……はい」
宙は頷いて、久瀬とともに部屋へ戻る。原と職員に別れを告げると、久瀬の車に乗り込み、保健所を後にした。
保健所を出る前、久瀬は分駐所にメールを入れていたらしい。戻ると、秋田と浜松が笑顔で出迎えてくれた。
「いやぁ、思ったより早く解決したな」
「さすがですね、久瀬さん」
浜松と秋田の言葉に、久瀬はちらりと隣の宙を見る。
「俺というより……今回の件に関しては、こいつの見た記憶が役に立ったので」
「ああ、コタロウの記憶を見たんだったか」
浜松が顎を撫でながら、不思議そうに宙を見る。
「俺も拘束型の異失物は何件か当たったことがあるが、記憶を見せるものは初めてだな」
「その件ですが、実は篠原さんに連絡していて――」
久瀬がわずかに声をひそめて話しながら、浜松とデスクへ向かう。その後に続こうとすると、ふいにひょいっと秋田が宙の顔を覗き込んだ。
「首輪、無事に外れてよかったね。具合悪くなったりはしなかった?」
「はい、超元気です!」
「あはは、ならよかった」
笑顔で力こぶを作ってみせた宙に、秋田は笑い、それから少し悪戯っぽい表情で顔を寄せてきた。
「久瀬さんとは大丈夫だった? 怖かったでしょ」
「いえ、まあまあ優しかったですよ」
「『まあまあ』は余計だ」
地獄耳か。
デスクの方から飛んできた声に、宙は首をすくめた。見ると、久瀬は既に浜松との話を終えてパソコンに向かっている。
「嘘ー! 三井くんってメンタル強いんだね」
本気で感心したように秋田が言う。
そんなに驚くことだろうか。確かに久瀬は愛想がないし口調もキツいが、理不尽なことは言われなかったし、焼きそばパンだってくれた。
宙は軽い調子で「まあ、高校でバンドやってたんで」と適当に答えた。
「それは関係なくない?」
「いやいや、舞台の上でミスりまくっても平然と演奏を続けるために、メンタル鍛えなきゃいけないんですよ」
「そこはメンタルじゃなくて、演奏の腕を磨くべきだろ」
浜松が苦笑してツッコミを入れる。宙は笑いながら、ほんの少し名残惜しさを感じていた。
――不思議な体験だった。
あのとき、倉橋に首輪を着けられなければ、きっと一生知ることのなかった世界。散々な目に遭ったが、これで終わりだと思うと、少し寂しい気がした。
だが、自分は異管どころか警察官ですらない一般人だ。明日からは、バイトをしたり友達と遊んだりする、いつも通りの生活に戻るのだろう。
宙は目に焼き付けるように、ゆっくりとフロアを見渡した。――そのとき、
「何だか賑やかだね」
背後のドアが開き、誰かがオフィスに入ってきた。




