【後編】相手の思考が読めるようになった結果、冷徹な美貌の魔王から『顔が良すぎる』と真顔で迫られている話
思考ごと、完全に停止した。
目の前の魔王は、依然として恐ろしい。
なのに。
「……真っ直ぐな瞳」
冷淡な声音。
魔王は微動だにしない。
ただ温度のない瞳でこちらを見下ろしているだけだ。
身体が、見えない何かに縫い止められたように動かない。
身動ぎ一つ、許されない。
それなのに。
視界へ滲む文字だけが、妙に場違いだった。
『……お顔が、良すぎる』
アルスは、思わず瞬きをした。
まるで意味が分からない。
――思考の、読解。
まさか――
これは、魔王が考えていること……?
そんな、わけが――
「あまり愉快な視線ではありませんね」
『その可愛らしいお顔で見つめられると……少し困る』
(…………そうなのかも……)
それでも。
眼前の存在が脅威であることに変わりはない。
人類が畏怖する魔族の頂点。
四天王を打ち倒した熱すら、一瞬で冷え切るほどの威圧。
じっとアルスを捉える紫紺の双眸は。
今はどこか、観察するような色を帯びている。
「報告にあった勇者ですか」
喉が、ごくりと鳴る。
いまだに魔王は恐ろしい。
恐ろしい、のだが。
『……もっと、こう、歴戦の勇士を想定していた』
「……」
『……なに、この……小さい……』
『……可愛らしい』
思考を読んでいるはずなのに。
どうしてか、落ち着かないのはこちらの方だった。
「エ、エルシィ様……!」
沈黙を破るように、バルバドスが声を絞り出した。
地に伏したまま、血を吐くように言葉を繋ぐ。
「その者は、人類の希望たる勇者! ここで討たねば、いずれ――」
「『黙りなさい』」
声と文字が、ぴたりと重なり――巨体が消えた。
直後の、衝撃音。
凄まじい余波を撒き散らしながら、黒い影が彼方へ吹き飛んでいく。
壁を三枚ぶち抜いて、遠方の山肌へ突き刺さった。
数秒遅れで。
ズゥン……と、鈍い地響きが届く。
神殿全体が、大きく軋んだ。
――魔王の片足が、床へ戻る。
「っひ……っ」
喉の奥から、掠れた息が漏れる。
緩みかけていた空気が、一瞬で凍る。
魔王だけが、ただ――静かにそこに立っている。
その意識が、再びアルスへ向けられた。
『……怯えさせてしまった』
一歩、近づいてくる。
反射的に、肩が跳ねた。
床を滑るように揺れる黒衣。
空気が、さらに細く尖っていく。
やがて、アルスの前で膝をついた。
衣の裾が、さらりと床へ広がる。
白い指先が、ゆっくりとこちらへ伸びた。
(な、にを――)
息が詰まる。
その指先が――頬の傷へそっと触れる。
石片で裂けた浅い傷。
そこから伝う血を、静かに拭い取る。
壊れ物にでも触れるかのように。
その手つきだけが、やけに慎重だった。
「――っ」
そのまま顎へ指が掛かる。
抗う間もなく、視線が持ち上がった。
『……庇護欲を煽られる』
――近い。
吐息すら触れそうな距離。
心臓が、いやなくらいに騒がしい。
呼吸すらも、支配されそうだった。
逃げられない。
ほんの気まぐれで、この命など終わる。
だというのに。
――きれい、と。
思って、しまった。
「生かしておくのも、一興でしょう」
『見ていて、飽きない』
顎へ添えられていた指先が、ゆっくりと離れた。
名残を惜しむように、頬をそっと撫でながら。
「――っ」
びくり、と肩が揺れる。
どこか楽しげな気配が満ちた。
こちらを見つめたまま、魔王が掌を返す。
そこへ滲む、淡い闇。
――気付けば、黒銀の輪がそこに在った。
戸惑う間もなく、左手を取られる。
まるで、最初からそこに在るべきだったかのように。
小さな指輪が、するりと指に収まる。
「いずれ、その傷も癒えるでしょう」
『これで、見失わない――』
じわりと、指先から微かな熱が流れてきた。
波が引くように、頬の痛みが少しずつ薄れていく。
確かに、慈悲深い加護。
しかし、視界には――
『――世界のどこに、いようとも』
無慈悲な文字が、焼き付いていた。
魔王がゆるやかに立ち上がる。
黒衣が、ふわりと翻った。
空間が、闇へと染まる。
その輪郭が、溶けるように薄れていく。
「また会いましょう。小さき勇者」
透明な声の余韻だけを残し。
魔王の気配は、完全に消え去った。
「――は、っ」
全身から力が抜けた。
重い静寂が戻る。
遅れて、詰めていた息が漏れた。
助かった。
なぜだか、生き延びたのだ。
(こわかった……はず、なのに)
なのに。
胸の奥が、どうしようもなく落ち着かない。
頬に残る、冷たい指先の感触が、どうしても離れてくれない。
無意識に、左手へ視線が落ちる。
黒銀の指輪が、あつらえたかのように収まっていた。
仄青い光が、微かに脈打つ。
頬の傷は、もう痛まない。
静まり返った神殿で。
指先の熱だけが、
いつまでも消えてくれなかった。
(後編・完)




