【前編】相手の思考が読めるようになった結果、冷徹な美貌の魔王から『顔が良すぎる』と真顔で迫られている話
少年の大剣は、すでに半ばから砕け折れていた。
大気が爆ぜる。
振り下ろされた鉄塊の拳が石床へ突き刺さり、広間そのものを揺るがした。
砕けた石片が、暴風めいて吹き荒れる。
四天王が一角――剛腕のバルバドス。万物を砕く破壊の化身。
その巨躯を覆う黒鉄。振るわれる一撃は、文字通りの必殺。
「――、――ッ!」
少年――勇者アルスの口から、声にならない悲鳴が漏れた。
生き延びる術は、ただ一つ。
逃げろ、と。
本能が命じるままに、細い足首が床を蹴る。
直撃はない。
すべては紙一重の回避。
だが、拳圧が不可視の刃となり、視界の端を掠めていく。
遅れて石床が弾け飛んだ。飛び散る破片が頬を割り、鮮血が伝う。
衣服が裂け、肌へ幾筋もの傷が走る。
呼吸を繰り返すたびに、肺が灼けるように熱い。
暴力の奔流に晒されるたび、命が削れていく。
――だが、瞳に宿る闘志だけは、いささかも曇らない。
この強敵を打ち倒す。その執念だけで、崩れ落ちそうな身体を繋ぎ止めていた。
幾度となく猛攻を凌いできた。
極限の集中が、相手の予備動作を捉える。
その右肩が、わずかに沈む。
ここが、この窮地を覆す、唯一の好機。
折れた大剣を握り直し、自ら死線へと踏み込んだ。
「おおおおおッ!!」
迎撃が来る。
空気を裂き、横薙ぎに振り抜かれる巨腕。
その絶望的な間合いの内側へ。
姿勢を極限まで落とし、石床を滑るように潜り込む。
頭上を、凶悪な腕が通過した。
瞬間。
視界が、世界の呼吸と合致する。
右脇――わずかに開いた黒鉄の継ぎ目に。
折れた大剣を、渾身でねじ込んだ。
鈍い衝撃。
黒鉄が軋む。
巨体が大きく揺らぎ、そのまま倒れ伏す。
それでもなお、太い指だけが石床を掻いていた。
「はっ、……っ」
大剣を床に突き立て、アルスもまた膝をついた。激しい耳鳴り。己の血の匂い。
勝利の余韻に浸る暇もなく、視界に見慣れた文字が浮かび上がる。
[ 試練の突破を確認。個体名:アルスの位階が上昇します ]
[ 技能進化:【魔力の浸透】 ➔ 【極限の真融】 ]
[ 技能進化:【戦術の解読】 ➔ 【思考の読解】 ]
――だが、現実は息つく隙すら許さない。
神殿の天井が、音もなく消失した。
破壊ではない。
最初から存在しなかったかのように、空間が削ぎ落とされる。
「――っ」
上空。
漆黒の髪を揺らし、一人の女がゆっくりと降り立った。
まず目を奪われたのは、その貌。
白磁めいた肌。
一切の歪みを許さぬ輪郭。
紫紺の双眸は、ただ冷たく、刃のように鋭い。
美しい――という言葉では、到底追いつかない。
人の身では到達し得ない造形美。
神聖さと『死』を同時に体現したような、その姿。
黒衣が月の光を受け、静かに揺蕩う。
ただそれだけの光景が、異様なほどに現実味を失わせていた。
――世界が、彼女に平伏する。
息を、呑んだ。
静謐な威圧感。
生物としての格の違い。
肺が凍りついたかのように。
呼吸すらも、ままならない。
女が、地に伏せるものを見下ろした。
「何故あなたがここにいるのです、バルバドス」
無機質な声だった。
だが、その一言だけで。
暴威の権化が、目に見えて震え上がる。
「……っ、エルシィ様! 我が主の障害となる勇者を、排除せんと――」
「私は、何故お前がここにいるのかと問うている」
空気が、張り詰めた。
「っ……」
「人間領へ干渉するな、と伝えたはずですが」
淡々とした声音。
怒気すらない。
にもかかわらず、四天王は言葉を失っていた。
――その事実が示すのは。
(――魔王)
人類がそう定義した、『終焉』そのもの。
それが……今、眼前にいる。
魔王の視線が、ゆっくりとこちらへ向けられた。
瞳が、ボロボロの身体を射抜く。
死ぬ、と。
本能が理解していた。
それでも。
――技能:【極限の真融】
このまま終わるのはいやだ。
残された魔力を、無理やりに引きずり出す。
限界寸前の身体が、軋みを上げる。
「……なるほど」
紫紺の双眸が、わずかに細められた。
間髪を入れず、もう一手。
――技能:【思考の読解】
「……真っ直ぐな瞳」
冷淡な声音。
その直後。
視界へ、薄く文字が滲んだ。
『……お顔が、良すぎる』
(…………えっ?)
「あまり愉快な視線ではありませんね」
『その可愛らしいお顔で見つめられると……少し困る』
思考ごと、完全に停止した。
目の前の魔王は、依然として恐ろしい。
なのに。
その文字だけが、場違いだった。
(前編・終)




