異世界に召喚されて『魔王様の運命の番』ということになっていたのですが、誰も私の都合を聞いてくれないので、とりあえず一度だけ帰らせてもらえませんか
「――よくぞ来てくれた、運命の番よ」
そう言われても、来た覚えはなかった。
気づいたら床に膝をついていて、目の前に、金色の刺繍が入ったローブの男が立っていた。その後ろに、似たような格好の人たちが何十人も並んでいる。全員がこちらを見て、泣きそうな顔をしていた。喜んでいるらしい、ということだけはわかった。
私の手には、まだコンビニの袋がさがっていた。半額のシール。中身はおにぎりと、ひとつだけ買った唐揚げ。たしか駅のホームで電車を待っていて、そのあと座れたな、と思った記憶がある。それだけだ。
「お待ちしておりました。千年に一度の――」
「あの、ここ、どこですか」
私の声は、誰にも届かなかった。男はもう次の言葉を始めていた。
大神官だと、あとで知った。その人は両手を広げて、高らかに続けた。私が「黎明の番姫」であること。この国が千年、この日を待っていたこと。私が魔王と結ばれることで、世界に長い平和が訪れること。
一文ごとに、後ろの人たちから歓声が上がった。私が何か言うたびに、ではない。神官が何か言うたびに、だった。
「さあ、お支度を」
両側から手をとられて、立たされた。コンビニの袋は、いつのまにか誰かが「お預かりします」と持っていってしまった。返してほしかったが、その人はもう、別の誰かと、私の髪型の相談を始めていた。
*
城の一室で、私は何人もの侍女に囲まれていた。
「番姫様、お幸せでしょう」
「夢のようでしょう」
「ずっと、この日を夢見ていらしたでしょうね」
全部「でしょう」だった。質問の形をしているのに、答えを待つ気配がない。私が口を開く前に、別の侍女が「ええ、ええ」と勝手にうなずいていた。
お茶が出された。ひと口飲んで、甘い、と思った。
「番姫様のお好きな、蜂蜜をたっぷり入れました」
私は蜂蜜が得意ではなかった。でも、それを言うより早く、侍女たちは「お好きでよかった」と笑顔になっていた。誰が決めたのだろう、私の好きなものを。
支度の途中、扉のすきまから、こちらをのぞいている娘がいた。私と同じくらいの歳の、きれいな子だった。目が合うと、その子は何か言いたそうにして、でも結局、唇を結んで行ってしまった。
侍女のひとりが声をひそめた。「あの方は、番姫候補の筆頭でしたの。残念でしたわね、あと一歩で」
残念。何が残念なのか、私にはよくわからなかった。その子も、たぶん、わかっていなかったと思う。ただ、ずっとそれが一番ほしいものだと、誰かに言われ続けてきた顔をしていた。
*
魔王に会う前、私は三回も「心のご準備を」と言われた。
恐ろしい方だ、と侍女は言った。けれど運命の番であるあなたには、きっとお優しい、とも言った。どちらなのか聞いても、両方です、と返ってきた。
玉座の間は、思っていたより静かだった。
奥の椅子に、ひとりの男が座っていた。黒い服を着て、退屈そうに頬杖をついていた。私が入っていくと、彼はこちらを見て、それから、とても小さな声で、ため息をついた。聞こえないと思っていたのだろう。でも、部屋が静かすぎて、聞こえた。
大神官が、私たちのあいだに立って、長い口上を始めた。運命が、千年が、世界が、と。
男は、それを途中でさえぎった。
「もういい」
そして、私に向かって、台本のような声で言った。
「来てくれて、うれしく思う」
言い終えてから、彼自身が、いちばん白けた顔をしていた。
私は、なんと答えるべきかわからなかったので、正直に言った。
「すみません、私、明日も仕事なんですけど」
部屋が、静まり返った。
男が、まばたきをした。それから、初めて、頬杖を外した。何か言いかけた彼の腕を、補佐官らしき人がつかんで、「陛下、次の儀式が」と引っぱっていった。彼は連れていかれながら、一度だけ、振り返ってこちらを見た。
私たちはたぶん、この部屋で初めて、お互いをちゃんと見た。それだけで、また別々の場所へ運ばれていった。
*
それから、私の毎日は、誰かが先に決めていた。
朝は決まった時間に起こされ、決まった服を着せられ、決まった言葉で「お幸せそう」と言われた。私の一日は、私が起きる前から、もう書き終わっていた。
不思議なことが、ひとつ起きた。
ある朝、侍女に「今日は何を召し上がりたいですか」と、めずらしく聞かれて、私は、答えに詰まった。
自分が何を食べたいのか、思い出せなかった。ずっと「あなたの好きなもの」を出され続けているうちに、本当に好きだったものが、どれだったか、わからなくなっていた。
結局その日は、おにぎりが食べたいです、と言った。
城じゅうが大さわぎになった。「番姫様が、異界の聖なる食を所望された」と。出てきたのは、宝石みたいに飾りつけられた、おにぎりだった。違う、と思ったけれど、もう、訂正する元気もなかった。
*
その夜、眠れなくて、廊下に出た。
月明かりの差す回廊の、いちばん端に、先客がいた。あの男だった。手すりにもたれて、外を見ていた。隣に立っても、彼は驚かなかった。
「眠れないのか」
「はい」
「俺もだ」
しばらく、ふたりとも何も言わなかった。下の庭で、見張りの兵が歩く音だけがした。
「ひとつ、聞いてもいいか」と、彼が言った。
私はうなずいた。この世界に来て、誰かに「聞いてもいいか」と前置きされたのは、初めてだった。
「お前は、ここに、来たかったのか」
月のせいか、彼の声は、昼間のような台本の声ではなかった。
私は、答えるのに、少し時間がかかった。
「……来た覚えが、ないんです」
彼が、笑った。声を立てて笑ったのは、たぶん彼も、久しぶりだったのだと思う。
笑いがおさまってから、今度は、私が聞いた。
「魔王様は、魔王になりたかったんですか」
彼は、すぐには答えなかった。
「俺の名前を、最後に呼んだのが誰だったか、思い出せない」とだけ、言った。
みんなが「魔王様」と呼ぶ。「陛下」と呼ぶ。「運命の相手」と呼ぶ。だから彼も、自分の名前を、どこかに置き忘れていた。私が「黎明の番姫」と呼ばれて、おにぎりの味を忘れたのと、たぶん、同じことだった。
「お前を、帰すこともできる」と、彼は言った。
私が聞き返すより先に、彼は続けた。「召喚の術は、逆にも使える。元いた場所に戻れる。明日の、お前の仕事にも、間に合うだろう」
冗談みたいな言い方だったけれど、目は、冗談ではなかった。千年待った国も、世界の平和も、運命も、彼はその一言で、横にどけた。
そして、私の返事を待った。急かしもせず、ただ、待っていた。
こんなことをする人は、この世界にも、たぶん向こうの世界にも、いなかった。
*
次の日、玉座の間に、もう一度、魔法陣が描かれた。
大神官は、青い顔をしていた。番姫を帰すなど、千年の予言に反する、と何度もくり返した。侍女たちは泣いていた。昨日まで「お幸せでしょう」と言っていた人たちが、今日は「行かないで」と言った。
魔法陣の光の向こうに、見慣れた部屋が見えた。
ひとり暮らしの、狭い部屋。テーブルの上に、コンビニの袋が、昨日のまま置いてあった。半額の唐揚げ。ひと口も食べていない。
帰れる。歩いて二、三歩で、私は元の私に戻れる。誰も私を「番姫」と呼ばない、誰も私の好物を勝手に決めない、あの場所に。
私は、光のほうへ、一歩、踏み出した。
大神官が、息をのんだ。侍女たちが顔を上げた。
それから私は、足を止めて、振り返った。男のほうを見た。彼は何も言わなかった。引き止めもしなかった。ただ、まっすぐにこちらを見ていた。昨日の夜と、同じ目で。
私は、彼のところまで歩いた。今度は、誰にも手をとられず、自分の足で。
「ひとつ、聞いてもいいですか」と、私は言った。彼の言葉を、借りた。
彼が、うなずいた。
「あなたの、名前は」
彼は少しのあいだ黙ってから、ずいぶん久しぶりに口に出すみたいに、自分の名前を言った。
「……ユーリ」
私も、名乗った。「番姫」ではないほうの、ただの名前を。
「美月です」
城じゅうが、どうしていいかわからない顔をしていた。予言にも、台本にも、このやりとりは書かれていなかった。
*
後日談を、少しだけ。
私は、あの部屋には帰らなかった。
好きな時間に起きて、たまに、わざと寝坊する。お茶に蜂蜜は入れない。誰かが「お幸せでしょう」と言いかけると、ユーリが先に、本人に聞け、と言う。
おにぎりは、自分でにぎることにした。宝石みたいな飾りはいらない。海苔が少し破れるくらいが、ちょうどいい。
千年の予言が、あのあとどうなったのかは、知らない。
それは、私の話ではないから。




