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異世界に召喚されて『魔王様の運命の番』ということになっていたのですが、誰も私の都合を聞いてくれないので、とりあえず一度だけ帰らせてもらえませんか

作者: 河合ゆうじ
掲載日:2026/05/29

「――よくぞ来てくれた、運命の番よ」


 そう言われても、来た覚えはなかった。


 気づいたら床に膝をついていて、目の前に、金色の刺繍が入ったローブの男が立っていた。その後ろに、似たような格好の人たちが何十人も並んでいる。全員がこちらを見て、泣きそうな顔をしていた。喜んでいるらしい、ということだけはわかった。


 私の手には、まだコンビニの袋がさがっていた。半額のシール。中身はおにぎりと、ひとつだけ買った唐揚げ。たしか駅のホームで電車を待っていて、そのあと座れたな、と思った記憶がある。それだけだ。


「お待ちしておりました。千年に一度の――」


「あの、ここ、どこですか」


 私の声は、誰にも届かなかった。男はもう次の言葉を始めていた。


 大神官だと、あとで知った。その人は両手を広げて、高らかに続けた。私が「黎明の番姫(れいめいのつがいひめ)」であること。この国が千年、この日を待っていたこと。私が魔王と結ばれることで、世界に長い平和が訪れること。


 一文ごとに、後ろの人たちから歓声が上がった。私が何か言うたびに、ではない。神官が何か言うたびに、だった。


「さあ、お支度を」


 両側から手をとられて、立たされた。コンビニの袋は、いつのまにか誰かが「お預かりします」と持っていってしまった。返してほしかったが、その人はもう、別の誰かと、私の髪型の相談を始めていた。


 *


 城の一室で、私は何人もの侍女に囲まれていた。


「番姫様、お幸せでしょう」

「夢のようでしょう」

「ずっと、この日を夢見ていらしたでしょうね」


 全部「でしょう」だった。質問の形をしているのに、答えを待つ気配がない。私が口を開く前に、別の侍女が「ええ、ええ」と勝手にうなずいていた。


 お茶が出された。ひと口飲んで、甘い、と思った。


「番姫様のお好きな、蜂蜜をたっぷり入れました」


 私は蜂蜜が得意ではなかった。でも、それを言うより早く、侍女たちは「お好きでよかった」と笑顔になっていた。誰が決めたのだろう、私の好きなものを。


 支度の途中、扉のすきまから、こちらをのぞいている娘がいた。私と同じくらいの歳の、きれいな子だった。目が合うと、その子は何か言いたそうにして、でも結局、唇を結んで行ってしまった。


 侍女のひとりが声をひそめた。「あの方は、番姫候補の筆頭でしたの。残念でしたわね、あと一歩で」


 残念。何が残念なのか、私にはよくわからなかった。その子も、たぶん、わかっていなかったと思う。ただ、ずっとそれが一番ほしいものだと、誰かに言われ続けてきた顔をしていた。


 *


 魔王に会う前、私は三回も「心のご準備を」と言われた。


 恐ろしい方だ、と侍女は言った。けれど運命の番であるあなたには、きっとお優しい、とも言った。どちらなのか聞いても、両方です、と返ってきた。


 玉座の間は、思っていたより静かだった。


 奥の椅子に、ひとりの男が座っていた。黒い服を着て、退屈そうに頬杖をついていた。私が入っていくと、彼はこちらを見て、それから、とても小さな声で、ため息をついた。聞こえないと思っていたのだろう。でも、部屋が静かすぎて、聞こえた。


 大神官が、私たちのあいだに立って、長い口上を始めた。運命が、千年が、世界が、と。


 男は、それを途中でさえぎった。


「もういい」


 そして、私に向かって、台本のような声で言った。


「来てくれて、うれしく思う」


 言い終えてから、彼自身が、いちばん白けた顔をしていた。


 私は、なんと答えるべきかわからなかったので、正直に言った。


「すみません、私、明日も仕事なんですけど」


 部屋が、静まり返った。


 男が、まばたきをした。それから、初めて、頬杖を外した。何か言いかけた彼の腕を、補佐官らしき人がつかんで、「陛下、次の儀式が」と引っぱっていった。彼は連れていかれながら、一度だけ、振り返ってこちらを見た。


 私たちはたぶん、この部屋で初めて、お互いをちゃんと見た。それだけで、また別々の場所へ運ばれていった。


 *


 それから、私の毎日は、誰かが先に決めていた。


 朝は決まった時間に起こされ、決まった服を着せられ、決まった言葉で「お幸せそう」と言われた。私の一日は、私が起きる前から、もう書き終わっていた。


 不思議なことが、ひとつ起きた。


 ある朝、侍女に「今日は何を召し上がりたいですか」と、めずらしく聞かれて、私は、答えに詰まった。


 自分が何を食べたいのか、思い出せなかった。ずっと「あなたの好きなもの」を出され続けているうちに、本当に好きだったものが、どれだったか、わからなくなっていた。


 結局その日は、おにぎりが食べたいです、と言った。


 城じゅうが大さわぎになった。「番姫様が、異界の聖なる食を所望された」と。出てきたのは、宝石みたいに飾りつけられた、おにぎりだった。違う、と思ったけれど、もう、訂正する元気もなかった。


 *


 その夜、眠れなくて、廊下に出た。


 月明かりの差す回廊の、いちばん端に、先客がいた。あの男だった。手すりにもたれて、外を見ていた。隣に立っても、彼は驚かなかった。


「眠れないのか」

「はい」

「俺もだ」


 しばらく、ふたりとも何も言わなかった。下の庭で、見張りの兵が歩く音だけがした。


「ひとつ、聞いてもいいか」と、彼が言った。


 私はうなずいた。この世界に来て、誰かに「聞いてもいいか」と前置きされたのは、初めてだった。


「お前は、ここに、来たかったのか」


 月のせいか、彼の声は、昼間のような台本の声ではなかった。


 私は、答えるのに、少し時間がかかった。


「……来た覚えが、ないんです」


 彼が、笑った。声を立てて笑ったのは、たぶん彼も、久しぶりだったのだと思う。


 笑いがおさまってから、今度は、私が聞いた。


「魔王様は、魔王になりたかったんですか」


 彼は、すぐには答えなかった。


「俺の名前を、最後に呼んだのが誰だったか、思い出せない」とだけ、言った。


 みんなが「魔王様」と呼ぶ。「陛下」と呼ぶ。「運命の相手」と呼ぶ。だから彼も、自分の名前を、どこかに置き忘れていた。私が「黎明の番姫」と呼ばれて、おにぎりの味を忘れたのと、たぶん、同じことだった。


「お前を、帰すこともできる」と、彼は言った。


 私が聞き返すより先に、彼は続けた。「召喚の術は、逆にも使える。元いた場所に戻れる。明日の、お前の仕事にも、間に合うだろう」


 冗談みたいな言い方だったけれど、目は、冗談ではなかった。千年待った国も、世界の平和も、運命も、彼はその一言で、横にどけた。


 そして、私の返事を待った。急かしもせず、ただ、待っていた。


 こんなことをする人は、この世界にも、たぶん向こうの世界にも、いなかった。


 *


 次の日、玉座の間に、もう一度、魔法陣が描かれた。


 大神官は、青い顔をしていた。番姫を帰すなど、千年の予言に反する、と何度もくり返した。侍女たちは泣いていた。昨日まで「お幸せでしょう」と言っていた人たちが、今日は「行かないで」と言った。


 魔法陣の光の向こうに、見慣れた部屋が見えた。


 ひとり暮らしの、狭い部屋。テーブルの上に、コンビニの袋が、昨日のまま置いてあった。半額の唐揚げ。ひと口も食べていない。


 帰れる。歩いて二、三歩で、私は元の私に戻れる。誰も私を「番姫」と呼ばない、誰も私の好物を勝手に決めない、あの場所に。


 私は、光のほうへ、一歩、踏み出した。


 大神官が、息をのんだ。侍女たちが顔を上げた。


 それから私は、足を止めて、振り返った。男のほうを見た。彼は何も言わなかった。引き止めもしなかった。ただ、まっすぐにこちらを見ていた。昨日の夜と、同じ目で。


 私は、彼のところまで歩いた。今度は、誰にも手をとられず、自分の足で。


「ひとつ、聞いてもいいですか」と、私は言った。彼の言葉を、借りた。


 彼が、うなずいた。


「あなたの、名前は」


 彼は少しのあいだ黙ってから、ずいぶん久しぶりに口に出すみたいに、自分の名前を言った。


「……ユーリ」


 私も、名乗った。「番姫」ではないほうの、ただの名前を。


「美月です」


 城じゅうが、どうしていいかわからない顔をしていた。予言にも、台本にも、このやりとりは書かれていなかった。


 *


 後日談を、少しだけ。


 私は、あの部屋には帰らなかった。


 好きな時間に起きて、たまに、わざと寝坊する。お茶に蜂蜜は入れない。誰かが「お幸せでしょう」と言いかけると、ユーリが先に、本人に聞け、と言う。


 おにぎりは、自分でにぎることにした。宝石みたいな飾りはいらない。海苔が少し破れるくらいが、ちょうどいい。


 千年の予言が、あのあとどうなったのかは、知らない。


 それは、私の話ではないから。

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