序章・歌鳥の民
歌鳥の民に生まれたのに、ハフリは歌えぬ娘だった。
長い前髪が、指先に退けられることはついぞない。髪の奥ではいつだって、深い緑の双眸が、自信なさげに揺れている。
さらと風にそよぐ、淡い金色の三つ編み。麻の貫頭衣から伸びる手足は白く、細い。衣服の襟首に施された刺繍の極彩色だけが、鮮烈に存在を主張していた。
細い髪が紗をかける、ぼんやりとした狭い視界。広がる蒼穹と草原の色を直視することなきままに、ハフリはひとり、立ち尽くしている。
背中に触れる森の気配を意識せぬようにつとめ。
前髪の向こうの地平線を、見つめている。
◇
森からはみでた樹のもとで、膝を抱えたハフリは、草のあおい匂いとともにそうっと息を吸いこんだ。
鳥は われらに調べを与え
風は われらが歌を運ぶ……
小さな口からこぼれた詞は、歌というよりささやきで、抑揚も、音の高低もなきに等しい。か細い声は、誰にも届かず消えていく。まるで、聴かれることを忌むかのように。
いのちあるものすべてに幸あれ あまねくものに癒しあれ……
これは祈りと祝福の歌。けれどハフリが紡ぐのは、臆病で陰鬱な、ただの声だった。
われらの声、まさ……しく……
喘ぐように息を継ぐ。けれど、くちびるのわななきには抗えず、ハフリは声を打ち切った。喉の奥がひりついている。ほんの数節をなぞっただけなのに、胸の内側まで冷えていた。
深く重い息を吐き、膝を伸ばす。傍らに置いていた革張りの古書を、ハフリは腿の上に落ち着けた。黄ばんだ羊皮紙が、表紙の隙間からのぞいている。
指が表紙に触れた瞬間、風がぶわりと吹き遊ぶ。
祈り歌わん やすらぎを
祝い讃えよ いのちの燈……
風にのって届いたのは、ハフリの声とはまったく異なる、正真正銘の歌声だった。森から響く丁寧で美しい旋律が、迷うことなくこちらへと向かってくる。
草を踏み分ける軽快な足音。
ハフリはとっさに本を胸にかき抱き、曲げた膝に顔をうずめた。
「また、こんなところにいる」
降ってきた声から逃げきれず、ハフリは顔をあげた。
見知った少女が立っている。艶めく蜜色の髪と、きらめく若葉色の瞳がまぶしくて、ハフリは思わず目をそらした。
「今日もいばら道を通ったのね」
おもむろにハフリの手を取った少女——キリは、ハフリの指先や手のひらに刻まれた、幾筋もの紅い線に眉を顰めた。ハフリは手を引こうとしたが、キリは「じっとしてて」と許さない。
止める間もなく、かたちの良いくちびるが歌を紡ぐ。
風と生きるは 歌う鳥 天の恵みと地を繋がん……
やさしい旋律に誘れ顕現したあわい光が、肌に舞い降りしみていく。ちりちりとした感覚とともに、傷が薄れ、消えて。
瞬く間に元通りになった手を眺め、ハフリは顔を歪めた。
「はい、おわり」
ほっとしたように笑って、キリはハフリの手を離した。
「けがしたらすぐに言ってね。自分で治せれば、それがいちばんだけど」
キリの言葉に、胸の奥が軋んだ。消えた傷跡を、そっと握り込む。
——ハフリとキリは、歌鳥の民。
金の髪と翠の瞳を持つ、歌でいのちを癒す者。
癒しの力は、定められた音程と詞を正しくなぞった歌に宿る。準備や難しい手順はいらない。覚えた旋律を、ただ紡ぐだけだ。
ただ、それだけ。 皆はそう言う。
けれど、それだけのことがハフリにはひどく難しい。
ハフリは音知らずだ。どれほど懸命に喉を震わせたところで、生まれるのは失笑ものの音ばかり。正しい音を探そうとすればするほど、喉は強張り、普段の声すら小さくかすれていく。
誰にも合わせる顔がなく、森に居場所が見つからない。いばらの道を通ってきたのは、人の集まる場所を避けたからだ。
隠すように抱え直した本を見やって、キリが心底不思議そうに口を開いた。
「その本、いつも持ってるね。何が書いてあるの?」
ハフリは答えず、本を抱く腕に力を込める。
本に記されているのは外のこと。 森にはない草や薬、傷を癒すすべ、見たこともない道具のことだった。けれど、そんなことを口にしたところで、キリにはきっとわからない。
キリは小さく息をつく。それから森の外へ目をやり、気遣わしげに眉を下げた。
「毎日森の外に出て……寿命が縮まったらどうするの」
——歌鳥の民は、森の外では生きられない。
遠い昔から、そう言われてきた。 嘘か真かを確かめた者はいない。確かめようとする者も、いなかった。森は暖かく実り豊かで、外の世界に求めるものなどないからだ。
森の外、草原の彼方には、歌鳥の民とは容姿も暮らしもまったく異なる鳥の民がいるという。けれど外のことを知るすべはなきに等しく、外の人間がこの森を訪れることも滅多にない。
森に居場所がないハフリは、森と草原の間にいるしかない。
「ねえ、ハフリ。一緒にいようよ。こんなところにいなくてもいいじゃない。歌だって、わたしが一緒に練習するから」
キリに悪意はない。優しさから差し伸べられた手だと、わかっている。
それでも胸は痛むのだ。
ことあるごとに目に留まるのは、キリの頭に巻かれた細い布——幾何学模様の刺繍が施された額飾りと、そこに飾られた鮮やかな瑠璃色の羽根。額飾りと羽根は、一人前の歌鳥の民と認められた者のみに与えられる装身具だ。
無論、ハフリにはない。
キリは、こんな痛みを知らない。
そう思うと恨めしく、そう思う自分が情けない。
「……キリには、わからないよ」
届かない声を吐き出して、
「放っておいていいんだよ。わたしのことなんか」
ゆらりと立ちあがる。一歩二歩と進んで、伸ばされた手を振り払い、追いかける声から逃げ出した。
——歌によって癒す者。森のなかでしか生きられぬ者。
自由に空を翔る鳥は、歌えなくてもいいだろう。されどハフリは籠の鳥。歌えなければ意味がない。
歌えなくては森にいられず、外界に飛び出す勇気もない。だから、森外れの樹にすがっている。
視線を地面に落としたまま、手足が傷つくのも厭わず、いばら道に踏み込む。戻るしかない現実が、歩を進めるたび重くのしかかる。逃げる場所などどこにもない。ハフリもキリも結局は、同じ森のなかにいる。
いばらの棘が頬をかすめ、痛みに足が止まった。
行き場のないやるせなさが引いたかと思うと、情けなさに覆い隠される。涙がせりあがり、ぽろぽろとこぼれた。息が荒くなり、肩が上下する。
唸るような声を漏らして、地面に膝をつく。土に爪を立てても、何も変わらない。非力で、何もできない自分を思い知るばかりだ。
「もう、やだ」
たまらず吐き出した言葉は、何に対してなのか。わからない。わかりたくない。このままいばらに囲まれて、眠って、どこにも戻らずに済めばいいのに——そう願った、そのとき。
どこからか「ぴぃ」と高い音が響いた。続けて、「ぴゅう」と音がする。引き攣った、苦しげな音だった。
少し離れた場所で、地を這ういばらに絡め取られ、何かがもがいている。蒼穹を切り取ったような青色の鳥。風真似鳥だ。
涙をぬぐって歩み寄り、小鳥にかぶさるいばらへ手を伸ばす。いばらを退けようとした拍子に棘が翼をかすめ、小鳥が甲高い鳴き声を上げた。
ごめん、と声にならないままくちびるが動く。
そっと動かしたつもりでも、小鳥は苦しげにさえずる。けれど、やめるわけにはいかない。いばらはハフリの手をも傷つけ、指先には痺れるような痛みが走った。汗が頬を伝っても、ぬぐう余裕はなかった。
慎重にいばらを退かし続けたのち、ようやく解放された小鳥は、細い足から紅い血を滴らせていた。身体はぐったりと力なく、こちらに向けるまなざしの光は弱い。
このままでは、しんでしまう。
脳裏にキリの旋律が響く。 歌えさえすれば、たちまちに治せるはずなのに。 ハフリには、それができない。
(どうすればいいの)
なすすべなくうつむき——地面に置いていた革張りの本に目を留め、息を飲んだ。
この本は、父が遺してくれたもの。見知らぬ誰かが書き記した、歌がなくとも傷や病を癒すためのすべ。森にはない道具の名も多かった。けれど、草や布と、手だけでできることも記されていた。
思い出せ。この本には、なんと書いてあった?
ハフリは歌を紡げない。けれど、文字なら読める。父が教えてくれた。何度も何度も、本の上で指を動かしながら、ひとつひとつの文字をハフリに与えてくれた。
傷口から血が流れているときは、まず止める。
しけつ。音がひらめく。そうだ、止血だ。
ハフリは自らの服の端を細く裂き、小鳥の足に結び付ける。指は震えていたが、結び目だけはほどけぬように固くした。
本を脇に挟み、両手で小鳥をすくいあげ、かばうように胸に抱いた。手のひらに伝わるあたたかさが、いつ消えてもおかしくないのだと思うと、怖くてたまらない。
急がなければ。
くちびるを引き結び、ハフリは立ち上がる。いばらを避け、枝に袖を取られながらも走り出した。
向かうのは、森の端にある小さな天幕。円錐のかたちをした、ハフリがひとりで暮らす家だ。母の顔は知らない。文字の読み方も、薬になる草も、傷の手当ても、すべて父から教わった。
『本をよく読みなさい。きっとおまえの力になるから』
口癖のようにそう言っていた父の髪は銀で、ハフリに向けるまなざしは鈍色だった。父は、歌鳥の民ではなかった。
(だからわたしは歌えないの?)
必死に走っているはずなのに、そんな思考が脳裏を過る。
ハフリは暗い考えを振り払うように首を横に振り、天幕を目指した。
◇
天幕の隅に置かれた卓のうえで、空色の小鳥が風音をさえずっている。
ハフリは敷布に腰を下ろし、丈夫な葉を縫いあわせ、小袋を仕立てていた。一針一針すすめながら、ここ数日のことを思い返す。
小鳥の足から流れていた血は、天幕に連れ帰ったころには止まっていた。弱りきっていた身体も、試行錯誤の看病ののち、少しずつ持ち直した。
けれど両翼は胴に貼りついたようにこわばって、離れる様子が見られない。当初は自分の手当てが悪かったせいではと気に病んだが、どうやらそうではない。
この小鳥は、飛ぶことができないのだ。
風真似鳥はこの森で子育てをし、子が飛べるようになると一斉に森を旅立っていく。それは、ひと月ほど前のこと。飛び立てなかったと考えると、一羽でいたことに説明がつく。
ハフリが助けた小鳥は、ひとりぽっちの小鳥だった。
「できた」
蔓で編んだ首掛け紐を繋げた小袋に、卓上からすくいあげた小鳥をそっとおさめる。 ひょっこり顔を覗かせた小鳥は心地よさげに目を細めた。
「風」
与えた名前を呼び、羽毛に頬を寄せる。
目を伏せて、足早な心音とやわらかいぬくもりを感じながら、「一緒にいよう」とハフリはささめいた。




