何度でも笑えるようになる
その日、空は柔らかな曇り空だった。
葉の隙間から射し込む光も、どこかおとなしくて、優しい。
ねむの木のカフェは、静かな午前を迎えていた。
「今日は、どんな人が来るかな」
寧々がねむの花を摘みながらぽつりと言うと、
ネムは木の枝を見上げて、ふわりと微笑んだ。
「ちょっと、風がざわついてるね。きっと、誰かが迷ってる」
ーーチリン。
控えめな鈴の音。
扉を開けたのは、三十代前半くらいの女性だった。
肩までの髪は乱れていて、目の下にはうっすらクマがある。
カフェの中を見回して、少し戸惑うように立ち尽くした。
「いらっしゃいませ」
寧々の声に、彼女は小さく会釈をした。
「……すみません、迷い込んだみたいで……でも、なんだか懐かしい匂いがして……」
「ゆっくりしていってください。お茶をお持ちしますね」
ネムがやさしく椅子を引くと、
女性は遠慮がちに座り、ふうっと息を吐いた。
出されたのは、ねむの花とミントをブレンドした、優しいけれどすっきりとしたお茶。
「……いい匂い。ああ……なんだか、体の奥の方がほどけていく感じ…」
寧々とネムは隣に座り、女性が話し出すのを待った。
「……子どもがいるんです。まだ5歳。可愛い女の子。
でも最近、私…すぐ怒鳴っちゃって……本当は怒りたくなんてないのに」
女性は唇を噛み、目を伏せる。
「私の親みたいに絶対になりたくなかったんです。
私は……子どもの頃、何をしても怒鳴られて。
言い訳なんて聞いてもらえなかったし、
勝手に大事なものを捨てられることもしょっちゅう…傷ついても泣いても無視されて…何か言うと“誰のおかげで生活できていると思ってるの?えらそうに”って言われて、何も言えなくなって……だから…だから私は“絶対いい母親になる”って、決めてたのに……」
声がかすれる。肩が震えている。
「“いい母親”でいなきゃ。
子どものために、がんばらなきゃ。
でも、気づいたら、子どもの笑顔よりも、
“理想の母親像”ばっかり見てるような気がして…
こんなに愛しい存在なのに怒りが湧いて、たまらず叫んだあと、私は部屋で一人で泣いて…
もう、どうしたらいいのか分からなくて…」
ネムが、お茶を少し差し出しながら言った。
「ずっとひとりで戦ってきたんだね」
女性は、ぽろりと涙をこぼした。
寧々が、静かに語りかける。
「ねえ…あなたのお子さんが一番嬉しいこと、なんだと思いますか?」
女性は、目を伏せたまま答えなかった。
「たぶん、“お母さんが笑ってること”なんじゃないかな。
子どもって、親の感情にすごく敏感だから。
“自分のせいでお母さんが笑えてない”って思ったらすごく、すごく悲しくて、無力感を感じちゃうかもしれない」
女性の肩がまた震えた。
「…あの子に、似たような事を言われたこと、あるんです…“ママ、笑ってるときの顔が一番好き”って…」
ネムが、そっとねむの木の花を一輪、手渡した。
「ねむの花には、心をゆるめてくれる力があるんだ。
この花のように、肩の力を少し抜いて――
“お母さん”である前に、“あなた自身”として、
ちゃんと笑える時間を持っていいんだよ」
「……でも、子どもを育てるって、そんなに甘いことじゃ……」
「それでも、大丈夫。
“幸せそうなあなた”の姿は、
きっと子どもの心に一番やさしく残るから」
しばらくして、女性はカップを見つめながら、小さく笑った。
「……また来たいな。ここに。
ここは多分夢なのよね……目が覚めても、なんとなくこの気持ち、覚えていたい」
寧々がそっと微笑んだ。
「きっと、また来られますよ。
あなたが“自分を大切にしよう”って思えたそのときに」
女性が立ち去ったあと、ネムと寧々はねむの花を覗き込んだ。
そこには、子どもと手をつないで歩く彼女の姿が映っていた。
彼女はまだぎこちないけれど、微笑みながら歩いている。
子どもはうれしそうに、母の顔を見上げていた。
「……ほんとは、みんな知ってるのかもね」
寧々がつぶやいた。
「どうすれば、幸せになれるか。でも、うまく思い出せないだけで」
ネムは静かに頷いた。
「そして、笑ってほしいだけなんだね。大切な人には」
ねむの木の葉が風に揺れ、
カフェの空間をやさしく撫でていった。
その風の中には、母と子、二つの笑顔が重なっていた。