怒りに隠れていたもの
ガタン――。
扉の鈴が鳴る前に、足音が聞こえた。
重く、少し引きずるような足取り。
そして、ドアが荒っぽく開く。
「……なんだここは」
入ってきたのは、背中の曲がった年配の男性だった。
眉間には深い皺、目は鋭く、肩がこわばったようになっている。
誰かと話すのは久しぶりなのか、声が少しだけかすれていた。
「“ねむの木の眠りカフェ”だと?ふざけた名前だなぁ」
「おや、ふざけてなんかいませんよ」ネムが静かに言った。
「怒りながらでもいいので、どうぞおかけください」
おじいさんは忌々しそうに舌打ちをすると椅子に腰を下ろした。
けれど、その動作の中にも、どこか疲れや悲しみが滲んでいた。
寧々が笑顔で湯飲みを差し出す。
ねむの花を浮かべた、淡く甘い香りのお茶。
「お口に合わなかったら、飲まなくてもいいですよ」
「……馬鹿にしてんのか」
そう言いながらも、彼は少しだけ湯飲みに目を落とした。
そして、ごくりと、一口。
「……なんだ、これ」
驚いたように目を見開いたが、すぐにまた表情を固くする。
「……そんなにうまいってわけじゃねえが…飲めなくはない…」
おじいさんは背もたれにもたれ、深いため息をついた。
静寂が流れ、雨粒の音のような葉擦れが耳をくすぐる。
「怒ってばかりいるって言われるんだ。
誰も寄り付かなくなって、今じゃ家でも“触れちゃいけない爆弾”扱いだよ。
……だけどな、俺だって怒りたくて怒ってるわけじゃねぇんだ」
寧々とネムは、黙って聞いていた。
否定も、慰めも、何も言わない。ただ、聞いていた。
「昔は、色んなことができた。
腕のいい職人だったし、どこへ行っても“頑固だけど頼れるやつ”って言われてた。
でもよ……最近じゃ、箸だって落とすし、手先も震える。
自転車すらまともに乗れねぇ。孫が近づいてくると、へましちまうんじゃねえかってビビっちまって…情けなくて……言葉が出ねぇ」
彼の目が揺れていた。
「怒りってぇか…ほんとは、怖さもあるんだ。
何もできなくなって、忘れて、消えてくような気がして、
それが怖くて、どうしても誰かに当たっちまう」
ネムが静かに言った。
「……怒るって、すごく力がいるんです」
「……ん?」
「でも、悲しみは……そのもっと奥で、ずっと重たいまま存在してるんだと思います。
悲みの重さで立っていられないから、怒りで立ってる。そんな気がしました」
おじいさんは黙っていた。
「俺……怒ってるときの自分の声が嫌いだ。
こんなに、がなり声ばかりの人間じゃなかったはずなのにな。
……だけど、誰もそのこと、わかっちゃくれねぇ…俺がそうしてるんだから当たり前で自業自得なんだけどよ…」
湯飲みの中のお茶が、少し冷めていた。
寧々がそっと立ち上がり、新しいお茶を差し出す。
「この花、ねむの花って言います。
精神を落ち着かせるって言われてるんです。
香りを吸い込むと、胸のあたりがちょっと楽になります」
「……花なんて、久しく見てなかったな」
おじいさんが、ほんの少しだけ笑った。
「ここにいる間は、怒らなくていいですよ」
ネムが言った。
「怒っても、泣いても、何も言わなくても、
誰もあなたを“腫れ物”なんて思いませんから」
しばらくして、男は立ち上がった。
さっきより、背筋が少しだけまっすぐに見えた。
「……また、来られるかね。ここに」
寧々はにっこりと微笑んだ。
「ええ、きっと。心が風に向かって動き出したときに、またここに」
男が扉を開けると、風がそっと吹き抜けた。
葉のすき間から光が差し込み、その背中を静かに送り出す。
ーーーふたたび静けさが戻る。
ネムはねむの木の花を手に取り、そっと覗き込んだ。
そこには、ひとり暮らしの部屋の窓辺に座るおじいさんの姿が映っていた。
古い急須で、丁寧にお湯を注ぎ、花びらの浮いた小さな湯飲みを前に、
ゆっくりと深呼吸する。
その顔に浮かんだ表情は、どこか不器用だけれど、確かに――やさしかった。
寧々はネムの隣で、そっとつぶやいた。
「怒りって、声にならなかった“助けて”だったのかもね」
ネムは頷いた。
「……届いたのかな、あの“助けて”」
「届いたよ。たぶん、ちゃんと」
ねむの木の枝が、風に揺れ、さわさわと音を立てていた。
まるで、あのおじいさんの頑固な心が、やっと少しだけ笑ったみたいに。




