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思い出は風に連れられて

その日、カフェにはやさしい風が吹いていた。

雨はやんで、葉の先からぽとり、ぽとりと水滴が落ちる音が静けさを包んでいる。


 


ネムは裏庭から摘んできたばかりのねむの花を、

湯気の立つお湯の中にそっと沈めた。

ほのかに甘く、やわらかな香りが漂ってくる。


 


「今日は、誰か来そうな気がする…」

寧々が言った。


「なんとなく、風が“そう”言ってる感じ」


ネムは微笑んでうなずいた。


「たしかに、そういう匂いだ」


 


そのとき、扉の前で鈴の音が鳴った。


 


現れたのは、白髪まじりの小柄な女性だった。

春の薄衣のような花柄のワンピースを着て、つばの広い帽子をかぶっている。

やわらかな笑みを浮かべながら、少し不安げに店内を見渡した。


 


「いらっしゃいませ」

寧々が声をかけると、女性はにこりと微笑んだ。


「まぁ……いいにおい。あのね……私、ここに来たことあったかしら?」

「……いえ、初めてだと思います。でも、よければ、ゆっくりしていってくださいね」


 


ネムがそっと椅子を引くと、女性は小さくお礼を言って腰を下ろした。


 


「ふふ……夢の中でも迷子になっちゃったみたい」

「そういう方、多いんです。安心してください」


 


ネムがねむの花のお茶をそっと差し出すと、女性は驚いたように見つめた。


「まぁ……この香り……なんだか懐かしい」


 


ゆっくりとカップを口に運び、

一口、二口と飲むうちに、女性の目がふっと細くなった。


 


「……そうだったわ、わたし、昔この香りのする場所にいたの。

緑の下で、風がそよそよ吹いて、鳥が歌っていて……

小さな子がいてね……私に話しかけてくるの。『ねぇ、おばあちゃん、今日は何の話?』って」


 


女性の目が、少し潤んでいた。


「名前が、どうしても思い出せなかったのに……

その声と、小さな手のあたたかさだけは、ずっと心にあったの」


 


寧々は、息をのんでその言葉を聞いていた。

その言い方、語尾のやわらかさ、手の動き――

どこか、自分の祖母と重なるものがあった。


 


「……あの、失礼ですけど……その小さな子って、どんな子でしたか?」


 


「そうね……くりくりした目で、よく笑ってた。

でも泣き虫で、何度も抱きしめたわ。

よく一緒に草を摘んで、話をしたの……。

……ああ、また会いたいわねぇ……。でも、誰だったのかしら。思い出せないのよ。ふふ……不思議ねぇ」


 


ネムが、隣で静かに聞いていた。


その女性の声を、手の動きを、

どこかで知っているような気がしてならなかった。


 


でも、それは“おばあちゃん”ではない。

けれど――同じように、誰かをやさしく包むことのできる人。


 


「きっと、その子も、今もあなたのことを思ってると思います」

寧々がそっと言うと、女性は目を細め、微笑んだ。


 


「そう……だったらいいわね。

……ここ、いいところね。

また来られるかしら? たぶん、すぐに忘れちゃうけど……」


 


寧々は、にっこりと笑った。


「ええ、忘れてしまっても、大丈夫。

きっと、また風が連れてきてくれますよ」


 


女性は頷き、静かに立ち上がった。


光の粒がまた、彼女を包み、やがてふわりと消えていった。


 


しん、と静まり返ったカフェ。

ネムはねむの木の花を手に取り、そっと覗き込む。


 


花びらの奥に映っていたのは――

小さな子どもに絵本を読み聞かせる女性の姿。

施設の窓際で、目を細めて微笑みながら、

ひざの上に子どもたちを乗せて、やさしく語っている。


 


「……ちゃんと、届いてるんだね」


 


寧々はふっと、空を見上げた。


「……声も、記憶も、愛情も。

たとえ思い出せなくても、あの人の中にはちゃんと、残ってる」


 


ネムは頷いた。

そしてゆっくりと尋ねた。


「…誰かに似ていたの?」


「うん、びっくりするくらい…びっくりするくらいおばあちゃんに似ていたの。声も、笑い方も、手の感じも……」


 


風が、ねむの葉をやさしく揺らした。

ひとひらの花びらが、ふたりのあいだに舞い降りる。


 


「記憶は風に乗って、またどこかへ届くのかもしれないね」

ネムの言葉に、寧々は小さくうなずいた。


 


カフェの外では、小鳥たちが新しい歌をうたい始めていた。

どこか懐かしく、でも、まだ聞いたことのない旋律だった。

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