戦いの目的 ―崇拝―
どうしよう、どうしよう、この心臓の音が聞こえてしまったら。つい昨日自覚させられた気持ちが、抑え込もうと決めた気持ちが、あらゆる思考の邪魔をする。
「俺が一緒に考えないと、君は、君自身の優先順位ばっかりどんどん下げてくだろ?」
全身の熱が上がっていく中で、アリスはその言葉を咀嚼した。チェシャ猫はまだ、アリスを強く抱きしめ続ける。
「目的を忘れちゃダメだ、アリスちゃん。君は、君の世界に帰るための条件を探してる。フランケンはそのヒントを持ってるに過ぎない。それを守るために全力使っちゃったら、そっから先ジリ貧になるオチ確定だよ」
そっと髪を撫でられる感触が、こんなに懐かしくて、恋しいなんて。心の奥をくすぐられているようで、たまらずアリスはチェシャ猫の胸元に額を寄せる。
「俺は、君がそうならないために居るんだ。分かった?」
いつもの意地悪な言い方じゃない、優しい聞き方。ズルい、本当にズルい。ずっと張りつめていた緊張がぷつっと切れて、ぬるい涙に変わってく。
「うん…………ありがとう、チェシャ」
彼の服をぎゅうっと握りながら、アリスは続けて言葉を零す。
「けど、何だか、嘘みたい……ホントに、もう、ダメかと……。記録魔法でも、治せないって……ジャックさんが……」
「まったく、アリスちゃんはどこまで頭が弱いんだい? 魔法での治癒方法、もう一つ知ってるだろ?」
「え? ……あっ」
ハッとひらめき、顔を上げるアリスに、チェシャ猫は(お決まりと言っていい)相手を小馬鹿にする視線を返した。そう、ジャックは複数系統の魔力が使える特異体質。彼が重傷のチェシャ猫に施したのは、記録魔法による「復元」ではなく、支配魔法による「高速自然治癒」だった。かつて、アヴァロンの女王モルガンが、アーサー王やロビン・フッドに使う様子を、アリスも見ていた。
同じく、ジャックは今回チェシャ猫の細胞に「早く再生しろ」と命令したのである。ただし、当然その魔法による治癒で全回復するには時間を要する。チェシャ猫がこれまで動けなかったのは、そのためだった。
「そっか……良かった。チェシャが元気になって……本当に、本当に良かったっ……」
涙を止められないまま、安堵の笑みを見せるアリス。ふと、その頬にチェシャ猫の手がそっと添えられる。気付けば彼は、小馬鹿にするような視線ではなく真剣な眼差しをアリスに向けていて。
「チェシャ?」
アリスの呼びかけには答えず、ただジッと見つめるチェシャ猫。意識してしまった途端、アリスの心臓は恐怖とは別の強い脈打ちをし始める。
「ど、どうしたの……?」
心臓に悪いシチュエーションをどうにかしたくて、声を振り絞って問いかける。対するチェシャ猫が発したのは、小さな呟き。
「……俺だって、君のこと……」
ゆっくりと縮まる距離に、脈打ちは速くなる一方。……ダメだ、この気持ちは、膨らませちゃいけない気持ちだ。アリスの脳内で警鐘が鳴るが、跳ね除けることはできない。真正面にあるチェシャ猫の真剣な表情。目を瞑ってしまおうかと思った、その時。
ゴオオオオオオ……!
遠くから急激に接近し、頭上を過ぎて行った轟音。反射的にその音が向かった先を見る。雲がいくつか浮かぶ空の真ん中に、太く白い一筋の煙と、それを引く灰色の物体。
「何だアレ……鳥、じゃなさそうだけど」
「もしかして、戦闘機……?」
「見たことあるのかい?」
「本物見たのは初めて。だけど……多分、オズなら作れると思う。簡単に言うと、空飛ぶ鉄の塊で、人が乗れるの。車や汽車より速く移動できる」
「なるほどね。ついに大臣サマが自分で、フランケンを仕留めに来たってトコかな」
拳を握って、アリスはチェシャ猫を見上げた。
「……私、行かなくちゃ」
「そう言うと思ったよ」
仕方ないなぁ、と呆れ笑いを見せ、チェシャ猫は再びアリスを抱えた。
「行こう。捕まってて」
「うんっ」
***
時は少し戻り、ジャックが(無数のロボットを含む)カーレンの奇襲部隊と交戦していた頃。伯爵はパイパーの軍隊が仲間割れにより半減していく様を眺めていた。
一般兵たちは本来の標的であるフランケンが戦場を離脱していることにも気付かず、闇雲に「これから吸血鬼になるかも知れない者達」を殺そうと躍起になっている。だがそんな中、たった一人冷静なまま、伯爵を睨みつけている人物がいた。指揮官のパイパーである。
「ここまで我が軍の侮辱をしたんだ、それなりの覚悟はしているな」
「侮辱とは心外だよ。これほどの脆さを有する軍隊を派遣してきた君達の顔の皮の厚さに、私はむしろ驚いているんだが」
「抜かせ。化け物の分際で」
パイパーの義手から、対吸血鬼の光線が放たれる。吸血鬼の力をコントロールするためにオズが開発したという話をそのまま信じるのであれば、ヒットした途端に伯爵の精神はパイパーの支配下に置かれることになる。するりと躱し続ける伯爵は、どこか達観視していた。
三百年以上前にこの世を去った親友・ヴァンが、生涯を賭した研究。その最終目標はついに達成されることはなかったが、研究によってヴァンは、吸血鬼の力を抑制させる薬を開発した。並大抵の生物学者では理解できないであろうその研究過程を、オズはほぼ一晩で理解したのだ。独裁を敷く彼のことを好きにはなれないが、能力の高さは認めざるをえない。
「いい加減に……こうべを垂れろ!!」
地中深くで渦巻いていたマグマが噴き出したかのように、パイパーの怒号が響く。感情的になっているように見えて、その実、繰り出される攻撃は極めて理論的なまま。伯爵の動きを可能な限り先読みし、時折記録魔法で生み出した爆発物を使って退路をしぼる。
「君の軍はともかく、君自身は指揮官としてそれなりの才能を有しているようだね。それなのに何故、私を支配下に置きたがる?」
「何を今更! それがオズ様の望みだからだ!!」
「なるほど……と、言いたいところだが、生憎私には男性に付き従う気持ちは量りがたいな」
「貴様は、オズ様の偉大さを全く理解していない!!」
「否定はしないさ。だが、君の信じるオズという男は、独裁状態を作っていいほど偉大と言っていいのだろうか」
「うるさい!! オズ様はご自身のことのみを考えているのではない! 提供できる技術は全て民衆に共有し、その生活の細部にまで普及させている!!」
パイパーの放った複数の光線を俊敏な動きで回避し、伯爵はその背後をとった。
「私は血の味でその者の強さが分かる。君は、どのくらい美味だろうね」
「血などくれてやる……が、もろとも死ね」
軍に囲まれているものの、兵士の精神をかき乱させた伯爵は圧倒的優位であった。たった一つ、誤算があったとすれば、パイパーのオズへの心酔ぶりと、その覚悟の程度を見抜けなかったことだろう。
パイパーは振り向きざまに懐から何かを取り出し、伯爵に押さえつける。それは、ピンの抜かれた手榴弾だった。これには咄嗟の対応が追い付かず……
ドガァン!
パイパーの立つ場所から煙があがり、互いに撃ち合っていた兵士たちも、我に返ってそちらを向いた。黒い煙に紛れてよろよろと飛び立つ一つの影。続いて確認できたのは、右手を失いながらも両の足でしっかりと地を踏みしめ叫ぶ、指揮官・パイパーの姿だった。




