摘まれる希望 ―隠伏―
あちらはもう、アリスの精神状態が乱れ始めているのを察知しているはずだ。分かっているが、どうしても抑えきれない。廊下の向こうの彼――単独にも関わらずアリスにとっては軍隊以上の脅威である暗殺者ハンプティ・ダンプティ――に対する恐怖は、隠しきれない。
「ああそうだ、愛しの獣人は元気かい? あの小屋にもいなかったようだけど」
「だ、誰のせいで……!」
「さぁ? 誰のせいかなぁ? キミがボクに捕まってたから? それとも、キミにカーレンを止める力がなかったから?」
ハンプティの返しに反論できない。自分でも、肩が震えているのが分かり、その恐怖がハンプティだけでなく、後ろに庇っている彼女にも伝わってしまっていると感じていた。
「その様子なら、個人としてのボクが何を求めてここまで来たか、分かってるよね」
アリスに出来る唯一の抵抗は、彼の問いかけに答えないこと。黙って後退を続け、入口への到達を願う。あとどのくらいあるのか、ハンプティから目を離すわけにもいかず、入口までの距離が確認できない。後ろの彼女が教えてくれればいいが、声を出さない彼女にその支援は期待できない。
「ボクはね、全部欲しいんだよ。アリス……キミが抱く負の感情さ。憎悪による強い反発も、恨みのこもった視線も、恐怖で震える声も、制御がきかない涙も、全部ぜーんぶ愛してるよ」
「わ、私はっ……大っ嫌い!!」
叫んですぐにバッと振り返る。もう少し、あと7~8メートルほどで入口だ。取れる動きは限られている。大丈夫だ、覚悟は決まった。彼女の手を引いて、走りだす。
「逃げよう!」
「ボクから逃げられないこと、身に染みてるクセに」
次の瞬間、ハンプティは緩やかな歩みを軽やかな助走に一変させ、とんっと地を蹴った。入口目指して走るアリスと編み物少女の前に、ジャンプ一つでいとも簡単に回り込んで着地する。
「はい、キミ達の負け。退路断たれちゃったねぇ、アリス」
足を止めたアリスは、やはり何も答えない。ただ覚悟を決めた表情で、ハンプティを見つめるのみ。
「そっかぁ、そっちの無口な女、キミの新しいお荷物なんだよね。ボクとの楽しい追いかけっこには必要ないから、ここで処分しとこうか」
腿に装着されているケースに手をかけるハンプティの仕草に反応して、アリスは咄嗟にクラウ・ソラスを握った。一緒にいる彼女には怪我をさせたくない。けれど自分にはナイフの軌道など読めない。とにかく今は、ハンプティの動きを止めなくては……。
「……ああ、またこの『布』か」
アリスの願いから生成されたのは、いつかと同じ『布』だった。ハンプティを巻き寿司のように拘束し、身動き一つ取れなくさせる魔法具。
「行こう!」
だが、拘束されているとは言えハンプティの傍を通るのは気が引けたため、アリスは彼女の手を引いて城の奥へと足を進めた。
「城のどっかに、隠れられるところはある!?」
問いかけられた彼女はこくんと頷き、階段を指差した。
「分かった」
クラウ・ソラスの『布』が解けるまで数分。その間に彼女だけでも、安全な場所に隠れてもらわなければ。
案内されたのは、他の部屋よりも少し扉の大きい、誰かの寝室だった。その横に扉があり、(見た感じ)着替えるためだけに設けられた部屋に繋がっていた。扉を元の通りに閉め、着替え部屋の中で二番目に大きなクローゼットを開ける。丈の長いドレスがいくつもかかっており、身を隠しやすそうだ。
「じゃあ、貴女はここに……」
言いかけるアリスの手を、今度は彼女がしっかりと握って引いた。まるで、一緒に隠れていてほしいと言わんばかりに。自分が一緒に隠れていたら見つかってしまうかも知れないのに……そう思いながらも、アリスに迷っている時間は与えられていなかった。引かれた手から伝わってくる震え。たとえそこが安全であっても、たった一人で残される状況が彼女にとっては恐ろしいことなのだろうか。
彼女に促されるがまま、自分もクローゼットに入って、ドアを閉める。緊迫感溢れる暗闇の中、大丈夫だと言ってあげたいが、この状況に恐ろしさを感じているのはアリスも同様だった。呼吸音が響かないように口元に手をあてて、極力小さく深呼吸を繰り返す。
見つかりませんように。せめて、誰かが合流してくれるまで。だけど伯爵とフランケンは軍隊を相手にしているし、ジャックは一人でカーレンとロボットの軍勢に対峙している。数だけ見れば百人が百人、アリス側の全滅を予想するだろう。そう考えれば、ここにいるのはハンプティだけ。むしろ2対1で有利なんじゃないか……。
アリスの抱いた細やかな希望は、その数分後、粉々に砕かれることとなる。
「みーつけたぁ、アリスってかくれんぼも弱いんだね。せっかくハンデあげたのに」
希望を絶望に変えるという点で、ハンプティの右に出る者はいないと痛感した。
クローゼットを閉める時には細心の注意を払った。よって、服がはみ出して見つかったワケではない。そもそもこの城はそんなに狭くない。他に隠れられる場所は多いはずなのに、これほどの短時間で特定されてしまうなんて。もしや警察犬レベルの嗅覚でも持っているのか。驚愕を顕わにするアリスを前に、ハンプティは勝ち誇った顔で「ふふっ」と笑った。
「ボクが一流の暗殺者で隠密なんだってこと、まだちゃんと分かってなかったみたいだねぇ。キミ達みたいな素人の足跡なんて、簡単に辿れるのさ。空気の流れ、絨毯のホコリ、扉の開閉形跡……この城の全てがボクにこの場所を教えてくれてるんだよ」
つらつらと語ったハンプティは、震えるアリス達に尋ねる。
「で、どうするんだい? ボクの圧倒的な能力の前に降参するか、それとも……もう少し続けようか? 勝ち目のないお遊び」
「…………なんて……」
「ん?」
正直、勝ち目なんてどこにもないことは最初から予想できていた。けれど少なくとも、アリスが全てを放り投げるなんてことは、あってはいけない。なぜなら自分は、この世界の勇者なのだから。
「諦めるなんて、絶対しない!!」
アリスが叫ぶのと同時に、クラウ・ソラスが再び美しい輝きを発する。現れた『布』はクローゼットを塞ぐように立っていたハンプティの全身に巻きつき、彼の動きを制限する。が、ハンプティはそれも想定の範囲内であるかのように、余裕な態度を崩さない。
「二度目のハンデだね。せいぜい有効活用してごらん」
「こっち! 走るよ!」
彼女の手を引いて、アリスはクローゼットから飛び出した。絶対に、諦めてはいけない。アリスが「伝説の勇者」として扱われている間は、決して屈しない。屈するわけにはいかない。武力も知力も魔力もない、そんな自分に求められている勇者としての要素は、ただ一つ……勇気を置いて、他にないのだから。
けれどこの逃避手段に限界があることも、アリスは重々承知していた。ハンプティを拘束して距離を取ったところで、すぐ追いつかれてしまう。それを繰り返したとしても、こちらの体力が先に尽きる。
とりあえず城の外に出よう。壁の外に停めてある車に乗れれば、体力的な問題は解消される。問題は、捕まらずにそこまで辿り着けるかどうかだが。
「今度は庭園で隠れられるところを…………きゃっ、」
「おっと!」
階段を駆け下りて曲がろうとした瞬間、アリスは向こうからやって来た誰かにぶつかって後ろに転びそうになる。が、傾くアリスの体はぶつかったその人に支えられ、転倒を免れた。
「無事だったか、嬢ちゃん!」
「追われているのか?」
「あっ……ジャックさん! それに……フランケン!?」
予期せぬ再会に、アリスの声は裏返ってしまった。




