(綱渡りの)脅迫返し
「おっと。ダメだよアリス、無闇に動いたら切っちゃうじゃないか」
「うるさいっ……放して、放してよっ!!」
自分がハンプティに捕まっているせいで、チェシャ猫が無抵抗を強いられるなんて……とても耐えられる状況ではなかった。自分の両手を拘束するハンプティの手を振りほどこうと暴れてみるが、全く効果はない。それどころか、加虐心をくすぐられて「いいねぇ」と笑うハンプティ。
「もう二、三発やっていいよ」
「分かった」
「ダメ! やめてっ!!」
アリスの叫びも虚しく、カーレンは指示通りにチェシャ猫の腹部を三回蹴り上げた。直接見ることができなくて、固く目を閉じるアリス。恐ろしい音がやんだ後、そっと目を開けると、口から血を吐いてうつ伏せに倒れるチェシャ猫と、その背から落ちて倒れた伯爵の姿が映った。
無力な自分が悲しくて、不甲斐なくて、憎らしくて、瞬く間に視界が滲んでいく。ダメだ、泣いたらダメだ。ハンプティを喜ばせるだけで、何の解決にもならない。どうしたら助けられるのか、自分に出来ることは何かないのかと、パニックになりながら頭を回転させるアリスに、ハンプティが言う。
「あれ? 首筋にもう血が付いてる。可哀想に、吸血鬼に噛まれちゃったんだね。けど……キミみたいな娘の血は、とーっても美味しく感じるんだろうねぇ?」
「痛っ……」
ハンプティの持つナイフの先端が、つうっとアリスの首筋をなぞる。伯爵につけられた噛み痕に触れた瞬間、激痛が走った。
「ボクも舐めてみようかなぁ……アリスの血」
「やっ、」
僅かにナイフが首の皮膚に食い込み、血が細く流れ落ちていくのが分かった。左腕と同じ、じんじんとした痛みを伴い、生温かい感触が走る。
「わぁ、とてもキレイな赤だね」
「や、めろ……」
「チェシャ喋っちゃダメっ……!」
「カーレン、五回」
「ん」
「やめて!!」
アリスの懇願は届かず、カーレンはただ、ハンプティの指示した回数だけチェシャ猫を蹴り飛ばした。チェシャ猫は悲鳴すらあげず、ボロボロになっていく。おぞましさ溢れる光景にアリスの全身が震え、それはハンプティにもしっかりと伝わっていた。
「激しく泣き叫ぶキミもステキだけど、絶望に震える顔もキレイだね」
ハンプティの悪趣味な囁きなど、アリスの耳にはほとんど入ってこなかった。
チェシャ猫が死んでしまう……。いつも文句を言いながら、何度も助けてくれているのに……自分には、どうして同じように返すことが出来ないのだろう。ハンプティをやっつける腕力も無い。一発逆転できる魔力もない。そんな無力な勇者を、「使命だから」というそれだけの理由で、支えてきてくれたのに。
「…………いい加減にして」
「ん? どうしたのアリス、何か言った?」
チェシャ猫の言葉を思い出す。
―「君は、俺がこの世界に存在する理由でもあるから」
真意は分からないけれど、チェシャ猫が勇者を大切にしてきたことは、紛れもない事実。そして、いつも一緒に選択肢を見つけ、考えてくれたチェシャ猫が、アリスに希望をくれる存在であるのも事実。
だから失いたくない。失っちゃいけない。これ以上攻撃させちゃダメだ。止めなくちゃ、何としても。カーレンが話を聞いてくれないなら、ハンプティに指示を出させるしかない。ただし懇願や泣き落としは効かない。ハンプティに通じるのは、ハンプティが好きなのは……あくまで強気な反発と拒絶。
「放してって……言ってるでしょ!!!」
以前捕えられた時と同じように、アリスはハンプティの足を思い切り踏みつけようと足を上げ、下ろした。しかし彼も手練れなだけあって、同じ手は二度通用しない。アリスの動きを察知し、踏まれないよう僅かに足をずらす。
「おっと残念、そう簡単に…………!?」
アリスの踵をかわした直後、ハンプティが感じたのは、ダガーナイフを持つ自分の手に重なったアリスの手と、あり得ない力の向きだった。咄嗟に逆方向へ押し戻し、均衡を保つ。
「おかしいなぁ? アリス、自殺志願者だっけ?」
最初からアリスの狙いはココにあったのだ、とハンプティは悟る。踵を避けるために体勢を変えた一瞬の力の緩みを突いて、左手だけ拘束から逃れること。だがそこから先は理解不能だった。何故アリスが、自由になった左手で、ダガーナイフを自分の首筋に押し当てているのか。
現状、アリスがナイフで自分の首を切ろうと力を入れ、ハンプティが反対方向に力を入れて食い止めるという、ちぐはぐな形になっている。
「悪いけどコレは本物なんだ。ボクが力を抜いたら、キミの首筋からパァッと血が溢れて、死んじゃうよ?」
斜め後ろから忠告するハンプティを睨むように見上げ、アリスは、挑発的に口角を上げた。
「持って帰りたいなら、吸血鬼だけ持って帰ればいい。でも私は……私の声は、あなたなんかにあげないっ!」
アリスの左手が力を増す。同時に、首の方もナイフに近付け始めた。ハンプティも合わせて逆向きの力を加える。予想外の行動を取りだしたアリスに、質問をぶつけずにはいられなかった。
「クレイジーだとは思ってたけど、ここまでとはね! あの獣人を守りたいんじゃないのかい?」
「そうよ……だから、これ以上チェシャに危害を加えるなら……私は自分の喉を真っ二つにして、喋れなくなってやる。……意味わかるでしょ? ハンプティ」
再び自分の首を切ろうと力を込めるアリス。その行動を阻止しながらも、ハンプティは数秒考え、そして……大きく笑った。
「頭?」
「吸血鬼担いで先に戻れ、カーレン。ボクはもう少し、ココで遊んでくよ」
「分かった」
指示されてすぐに、カーレンは伯爵を背負って場を離れていった。理想の展開に一歩近づいたことで、アリスの力は緩む。が、ハンプティはニタリと笑ってアリスに囁いた。
「ダメだよ、まだ緩めちゃ。ボクを誰だと思ってるんだい? キミの拘束を解いてアイツの息の根を止めるまで、二秒あれば充分さ」
「仮にそうでも、私はチェシャを数分守れる」
アリスの覚悟は、揺るがないものだった。それゆえ、ハンプティの興奮を増長させた。
チェシャ猫を数分守るというのは、クラウ・ソラスを使うということだろう。そして数分あれば、アリスが自らの命を絶つのに充分である。
つまり、チェシャ猫を殺そうとすれば確実に、ハンプティは大好きな嗜好品――アリスの声――を永久に失うことになる。もちろん、オズに頼めば、アリスの遺体からその声帯のコピーを作ることも容易だろう。しかし、完璧な再現が約束されているワケでもない。それに、創られた声帯では、あらかじめ決められた言葉しか発してくれない。それでは愉しさも半減になってしまう。
「……ねぇアリス、もう一度呼んでよ、ボクのこと」
なおも首を切ろうとするアリスに、ハンプティは囁く。
「さっきさぁ、初めてボクの名前呼んでくれただろ? 強がりな、震えた声で」
「……タダじゃ呼ばない」
好みの声を持っている上に、これほどの反抗心と抵抗力。加虐心を煽る素晴らしい素質を持っているのに、彼女は今、自らの命を絶とうとしている。惜しいと思ってしまった。もっと味わいたいと欲してしまった。
「どうしたら、呼んでくれるんだい?」
状況を見ればどこを取っても有利なはずなのに、自分が彼女に要求を聞いているなんて。もしやこれは、敗北なのだろうか。目的である吸血鬼は回収した。邪魔な勇者の戦力も削いだ。しかし現在ハンプティの要望は通らず、アリスの要求を待っている。
「私と一緒に、この場を離れて。仲間がいるなら、チェシャに近付けないで」
「ココにはカーレンしか連れてきてないよ。吸血鬼捕縛にはそれで充分だったからねぇ。……そんな目で睨まなくたって、大丈夫。キミの声に誓って断言するよ」
アリスの疑念を解くため、ハンプティはついにアリスの右手も解放した。思わぬ行動にアリスは前につんのめったが、ナイフを握る手だけは放さなかった。
「それで? ボクはキミと一緒にココを離れて、どこに行けばいいのかな」
「じゃあ、連れてって」
ハンプティの手ごと握ったナイフを首筋に当てながら、アリスは力強く告げた。
「私を、オズに会わせて」




