急襲 ―絶対的脅迫―
「チェシャ……あの、ごめん」
「何がだい? 正直これまでアリスちゃんには色々面倒ごと押し付けられてきた自覚はあるけど、今こうして伯爵背負ってるのも重くてしんどいんだ。そこにそういう真意の定まらない謝罪ぶつけられると不快感十割増しになるんだけど、分かってる?」
「定まってる! 私、たくさん迷惑かけてて……本当に、反省してるの。チェシャに、必要ない怪我もさせちゃって……」
「へぇ、じゃあ必要ある怪我ってどんなのかな?」
「そ、そういうことじゃなくて! 私、この世界に来た目的がハッキリしてないのが嫌で……なのに関わったり理解したりしようとすると、チェシャやマーリンさん達に負担がかかって……私は、判断を間違え続けてるんじゃないかって……」
「言っとくけど、俺にも正誤は分からないよ」
伯爵を背負って先を歩いているせいで、アリスにはチェシャ猫の表情はおろか背中さえきちんと見えない。聞こえる声のトーンは、いつもと同じで、皮肉を言う時の声。
「俺には、アリスちゃんに『あの判断は違ってた』って指摘することは出来ない。俺に出来るのは、選択肢を示すことだけだからね。まぁ今回散々な目に合ってるのは肯定しておくよ。キノコの森でのんびり暮らしてた日々を懐かしむくらいにはね。それもこれもアリスちゃんが、俺のオススメ選択肢を全部無視するからだっていうのは、分かってるかなぁ?」
「お、オススメって……チェシャは、その、文句言うクセに無茶しすぎ!」
「仕方ないだろ。アリスちゃんが、俺の存在する理由なんだから」
反論しようとしたアリスの言葉が詰まる。反則だ、ここでその台詞を言うのは。
昔の記憶をほとんど持たないチェシャ猫が、この台詞を言う時ばかりはきちっと主張するのだ。一体どこに根拠があるのか、誰にそんなことを吹き込まれたのか。何にせよ、「チェシャ猫は勇者アリスを導く存在である」「勇者アリスがチェシャ猫の存在する理由である」という2つの命題は、断片的な記憶に刻まれた、チェシャ猫の中の絶対的ルールなのだ。
だからと言って、アリスを守るためにチェシャ猫が自らすすんで怪我をするのは嫌だ。マーチ・ヘアも同じように負傷を気にしない姿勢を貫いていたが、チェシャ猫の姿勢は軍人意識からのものではないだろうし、危なっかしくも感じる。危なっかしい、なんて、アリスが言えたことではないのだろうが。
「…………あのね、」
古城を出たところで、再び話しかけようと口を開いたアリスだったが、その瞬間、動きの一切が封じられてしまった。前を走っていたチェシャ猫も、アリスの足音が止まったことで振り向く。そして……驚愕した。
「やぁ、久しぶりだねぇ……可愛いアリス」
「な……なんで……ここ、に……」
「ああ、その震え、涙声、もう一度聞きたかった。本当に、本っ当に嬉しいよ。たった数日だけど、ボクを焦らすには充分すぎる時間だったからさぁ」
怯えるアリスの背後から回される腕と、喉元にピタリと当てられているダガーナイフ。左手一つでアリスの両手を後ろに捕え、灰色のストールをなびかせる暗殺者――ハンプティ・ダンプティ――は、ニタリと笑った。
「……アリスちゃんを放せ」
伯爵を背負った状態で振り向き、チェシャ猫がハンプティを睨む。が、ハンプティはすかさずダガーナイフでアリスの左腕に傷をつけた。
「あうっ……!」
「文明遅れの獣人が、何か言ったかい? ボクに対して命令口調なのはおかしいよねぇ? だってほら、キミが慎重に喋らないと……アリスの身体、傷だらけになるよ?」
再びアリスの喉元にナイフを当て直すハンプティ。
じわじわと広がる(紙で指先を切った程度の)地味な痛みに耐えながら、アリスは考えた。どうしてここに、ハンプティがいるのか。しかも一人で。オズは、大規模な討伐軍ではなくハンプティのみを向かわせたということなのか。その判断はつまり、暴走状態の吸血鬼の相手も、ハンプティ一人で勤まることを表しているのか。
いや、今はその理由を想像している場合ではない。自分が囚われていては、チェシャ猫が自由に動けない。どうにかして拘束から逃れなければ。真っ先に浮かんだのはクラウ・ソラスだったが、機能したところで短時間な上、ハンプティにも持続時間のことはバレている。
「無駄だよ、アリス。ボクから逃れて皆で一緒に逃げる方法を考えてるんだろう? 悪いねぇ、今回はボク、単独じゃないんだ。何せ吸血鬼捕縛っていうミッションを課せられてたからさぁ、下準備も必要だったんだよ。アリスも会っただろ? ボクの部下」
「部下……?」
アリスが聞き返した、その時だった。ヒュオッと風を切る音をキャッチしたチェシャ猫が、反射的に真横にホップする。
ドシュッ
「優秀だね、避けれるんだ」
「……嫌な予感してたんだよ、城内で君を見た時から」
「な、何で……何してるの?」
チェシャ猫が避けたことで地面に突き刺さっていた長い柄の斧を、引き抜いてヒュンヒュンと振り回してから、ビュッと土を払うその少女。アリスの見る限り、三つ編みの彼女――吸血鬼に囚われた被害者の一人だったカーレン――は、興味深そうな視線をチェシャ猫に向ける。
「変なの。私、どう見ても無害な村娘になってたのに」
「無害な村娘が、怖い怖い吸血鬼が目の前でやっつけられたの見たクセに、喜ぶ様子もなしで『帰れないと思う』なんて、悲観的にも程があると思ったんだよ」
「ふぅん、やっぱり変なの。見聞きする全部、疑ってるみたい」
カーレンはほぼ無表情で、再びチェシャ猫に斧を振るい始めた。ドシュッ、ドシュッ、と地面や木の幹に重たい一撃が叩き込まれていく。
その光景を前にしてもなお、アリスには信じられなかった。古城で出会ったカーレンは、家族を失って悲しみに暮れていたかよわい少女だったのに。だが今は、そんなギャップに戸惑っている場合じゃない。
「やめてっ……カーレンやめて!」
「あっははは! アレはボクの指示しか聞かないよ、アリス。そもそも、覚醒した吸血鬼の腕力や知能、吸血量や周期を調べるためにボクが送り込んだんだ」
「それじゃあ、カーレンの言ってた『迎え』って……」
「ボクのことさ。だからね、キミが連れて来られたって通信で知った時は、喜びで思わず無線機を割っちゃいそうだったよ! オズ様へのお土産が、二つになったからねぇ」
ハンプティの口ぶりからして、カーレン以外の四人は一般女性のようだ。しかし、だからと言ってアリス側が有利になることなど無いと、分かってしまった。現に、チェシャ猫は伯爵を背負った状態でカーレンの斧を避け続けている。ただし避けるのが精一杯で、カーレンの動きを止めたり、反撃したりは出来そうにない。
いつ斧がチェシャ猫を切り裂いてしまうか分からない。そんな不安に襲われるアリスの背後から、ハンプティの悪意に満ちた声がした。
「あぁ、そうだ。手っ取り早く済ませよう。カーレン、ストップ」
「どうしたの? 頭」
「そこの獣人、チェシャ猫だっけ? これ以上抵抗してボク達の手を煩わせるなら……アリスの傷を増やす」
「うっ、」
言った傍からハンプティは、アリスの左腕にもう一箇所切り傷をつけた。痛みに小さな声を漏らすアリスを見て、チェシャ猫は動きを止めざるを得ない。
「物分かりが良くて助かるよ。じゃあそのまま吸血鬼を降ろすんだ」
「ダメ……チェシャ……」
「さぁ、早くしてくれないかい?」
ハンプティはダガーナイフの側面をアリスの頬にピタリと当てる。彼を鋭く睨みながら、ゆっくり屈み始めるチェシャ猫。
「……伯爵を渡したら、アリスちゃんは」
「余計な発言は禁止。じゃないと、キミの命に関わるよ? カーレン、やれ」
指示を出されてから1秒あるかないかの出来事だった。直立不動でいたカーレンが、思い切りチェシャ猫の腹部を蹴り上げたのだ。
「がふっ……!」
「チェシャ!!」
前に飛び出そうとするアリスだったが、ハンプティは拘束する力を強めた。




