ギリギリの(無茶苦茶な)逃亡
エメラルドシティへの往路は、魔力探知機に対するコーティングが万全だったため、三人は普通に汽車を利用した。しかし魔力保持者だとバレた上に、アリスがクラウ・ソラスを使ってしまった今、同じルートで帰還できるワケがない。
が、魔法で自分の背中用ギプスを生成しながら、ジャックは言った。
「あんまり悠長なこと言ってらんねぇみたいだぜ……あの怪物、鋼の檻を力だけで破りやがった」
「えっ!?」
「それはそれは、人智を超えた怪力っぷりだねぇ」
「ヤツの速さはシャレになんねぇ、早いトコこの地区から……」
ジャックの言葉を掌で遮るチェシャ猫。遠くの空を見つめる彼の耳は、かすかな音をキャッチしているようだった。
「まずい……走れ!」
「も、もしかして……」
「ああ、そうだよ。もうそこまで来てる。アリスちゃん、何か狙われる心当たりとか…」
「そんなのあったらとっくに言ってる!」
「どうだかね。勇者のクセに人一倍鈍いアリスちゃんなら、こんな状況になった些細な理由を見落とす可能性は十二分に……」
「チェシャ! 前!」
ドォォンッ、
アリスを抱えて走っていたチェシャ猫も、その後に続いていたジャックも、足を止めざるを得なかった。通せんぼするかのように現れた怪物の、おぞましい姿。更に、着地の際にへこんだ地面が怪物のパワーと質量の甚大さを物語っている。
「うそ……」
「あーあ、追いつかれたか……」
口調こそ変わらないものの、チェシャ猫の声色は状況の危険度を表していた。3メートルの巨体が、象のような重い一歩をのしのしと繰り返し、近付く。その瞳は、真直ぐアリスを映していた。
「次ハ、ナイ……俺ト、来イ」
青黒い瞳に怯えるアリス。その身体をいっそう強く抱き、チェシャ猫は小声で言った。
「掴まってて」
返答がされるより早く、チェシャ猫は右手側に一歩跳ぶ。
「くっ……」
「チェシャっ!?」
その一歩がコンマ数秒遅ければ、アリスとチェシャ猫は吹っ飛ばされていただろう。怪物は、ノーモーションで前方に突進していたのだった。左腕から血を流しながら、チェシャ猫は叫ぶ。
「お弟子サマ!」
「囲い込まん! 三重鉄檻!!」
突進が決まらず体勢を崩していた怪物を、今度は三重の檻が封じる。
「邪魔ダ! 邪魔ダ!! 邪魔ダ!!!」
ガンガンと容赦なく鉄格子に叩き込まれる怪物の拳。鉄が軋み、歪み、今にも崩壊しそうに見える。震えながらチェシャ猫の服を握ることしかできないアリスだったが、ふと、ドサッという音が耳に入り、振り向く。
「ジャックさん……!」
「マズい。立て続けにバカみたいな魔力使ったせいで、かなり消耗してきてるんだ」
「そんな……」
アリスをおろしたチェシャ猫は、うつ伏せ状態のジャックに呼びかける。
「生きてるかい? 走れそう?」
「チェシャ、猫……頼む……」
「置いて帰れって言うのは聞けないよ。アリスちゃんと君の師匠に大量のお小言もらうのは御免だ」
「運転、してくれ……」
「何を?」
ジャックの右手の中からライトグリーンの光が溢れる。手の内で生成されていたのは、一つのカギだった。
「コレで、アレ……拝借できっから……」
視線の先には、道端に駐車していたワゴン車が一台。全てを察したチェシャ猫は、ジャックに肩を貸しながらアリスに向けて叫んだ。
「あの車に乗るんだ!」
「う、うんっ!」
運転席と後部座席のドアを開けるアリス。チェシャ猫はジャックを後ろに乗せ、自分は運転席へ。
「免許あるの!?」
「あるワケないだろ。森番には必要ないんだから」
「じゃあどうやって……」
「さっき散々見学したしね、直感で行くよ」
いよいよ法に触れてしまうと心の中で懺悔しながら、アリスはジャックを座らせる。ブオンとエンジンがかかり、チェシャ猫は車を急発進させた。
「きゃあっ!」
「ついでに言うと、オズの部下も近付いて来てる。ちょっと魔力込みで暴れすぎたみたいだね」
「そんな、もし、怪物と挟み撃ちとかされたらっ……!」
「だからねアリスちゃん、今から俺たちは非正規ルートを突っ走るんだけど……どう? 覚悟決まった?」
「えっ! い、今からって、」
戸惑うアリスは無視して、チェシャ猫は昨日と同じく手榴弾のピンを歯で引っこ抜いた。そしてそれを、窓から前方に向かって投げる。
「3、2、1……伏せろ!!」
ドカァァァンッ!
爆風に逆らって、車ごと爆炎に突っ込んだのは、目を瞑ったアリスにも分かった。直後に、謎の浮遊感。後部座席からお尻が浮く。薄目を開けても、窓の外は灰色。隣に見えるのは同じく浮いて天井に頭をぶつけそうになっているジャック。咄嗟にその腕を掴んで、ジャックの頭を天井から離す。そして……
「いたっ!」
ワゴン車のタイヤが地に付いたらしく、アリスとジャックのお尻も後部座席に強く打ち付けられた。痛みを気にしながら窓の外を見て、ハッとする。どこまでも続く真っ暗なトンネルの中にいるようで。
割れずに残った片方のライトだけが、車の進む道を照らす。
「アリスちゃん、お弟子サマの様子は?」
「あ、えっと……意識はない、けど……息はしてる」
「そっか。ならまずは一安心ってトコかな。いくらオズでも、地下の下水道に魔力探知機は設置していないみたいだからねぇ」
大体の方角は頭の中に入っているらしい。このまましばらく進んで地下森林に帰るよ、とチェシャ猫は大きな欠伸をしつつ言った。