美しい香水の瓶(3)
その瓶はあまりにもその空間に溶け込めていなかった。
一度も開けられていない、もしくは触れられたことすらないようだった。たった一枚の写真から分かることは少なく、ただアルファベットからからそれはブランド名であり、どうやら香水らしかった。
アルファベットを頼りに行き着いた場所はウムトとは無縁の世界だった。店内に入ると香りに包み込まれた。ガラスの棚に、テーブルに色とりどりの瓶が並べられていた。ギリシアの哲学者らしき白い胸像がその棚やテーブルに置かれていた。
そこにアフメド医師を知っている人は居なかったが、調香師が働くアトリエのことを一人の店員が教えてくれた。住所をメモしてそこに足を運ぶと、ブシュラという調香師がいた。初めて目にする調香師のアトリエもまた今まで触れてこなかった世界だった。研究室のような部屋に小さな瓶が規則正しく棚いっぱいに並べられていた。初めて見る光景だった。
ウムトは挨拶をしてから訪れた経緯を話した。ブシュラはアフメド医師と知り合いだった。ウムトが写真の中に映り込んだ瓶を頼りにここに辿り着いたことを話すと、一瞬、ブシュラの顔が引き攣った。ウムトはアフメド医師に電話して欲しいことをそれとなく伝えた。
ブシュラには年相応の落ち着きがあり、優しそうな人だというのが第一印象だった。あらゆる動作の中に隠しきれない上品さが、それこそ香りのように漂っていた。白衣の脱ぎ方一つとっても、気品があった。
「ところで、アフメド医師にその香水を渡プレゼントしたんですか?」
難しい質問ではなかったのに、すぐに答えは返ってこなかった。ウムトはなぜ答えるのに間を設けたのか分からなかった。
「そうです」とだけ答えてから、さっきまで嫌がっていたのに「アフメドに電話しましょうか」と自らブシュラが言った。それはブシュラにとって特別な香水で、ウムトが想像もできないようなことがその香りに込められていた。
思い出したくない、でも忘れてはいけない出来事と強く結びついていた。その残酷な瞬間、世界を包み込むようにその香りは信じられないくらい美しかった。それから数日、ブシュラは体が枯れてしまうくらい涙を流した。
ウムトに話せるようなことではなかった。彼だけでなく、アシスタントのヌルにすらそのことについて話したことはなく、そもそも誰かに話すつもりはなかった。
アフメドに電話することにしたのも、ウムトに対する親切というよりは話題を変えるためだった。電話の先からアフメドの声が聞こえた。久しぶりに聞く声に何の変わりはなかった。