白いユリ(5)
アフメドはマグカップが空になっていることに気がついて、サラのマグカップにコーヒーを注いだ後、自分のマグカップにも注いだ。コーヒーの湯気は不思議な線を描きながら宙へと浮かび、隠れるように消えていった。
「そうやって猫と私の生活がはじまったの」
「それで『天使』も君と猫の世話をしたの?」
「当たり前じゃない」
サラの顔に嘘はなかったし、ユリのように潔白だった。不思議そうにしているアフメドを見ながら言った。
「尻尾が長くて綺麗だった、あとは・・・そのユリみたいに白い猫だった」
その白い猫の話は決して混ざらない水と油、もしくは夏の晴れの日の通り雨のように、その日の中で決して馴染まない、浮いた出来事だった。サラは、二杯目のコーヒーにほとんど口をつけることなく、机の上には冷めたコーヒーが置かれたままだった。
朝、なぜかいつもより早く目が覚めた、窓のそばにサラの幽霊はいなかった。病院に来ると、アフメドを待っていたかのようにエムレ医師が机に駆けてきた。来週ある患者が来ること、その患者に関するファイルが郵便で送られてくること、なぜかその患者の手術が優先して行われることを聞いた時、アフメドはすぐにそれが誰なのか分かった。
夕方、カイロの病院からアフメドに電話があった。その医師とはアメリカで一緒に学び、働いた仲だった。マルコにアフメドを推薦したのも恐らく彼だろう。マルコの娘についてひとしきり説明すると、思い出話に花を咲かせることもなく、電話を切った。
エムレ医師にも現状どのような手術になりそうなのか伝えておいた。まだ定かではないものの、難しい手術になることを考えていた。アフメドにとっては一つの手術以上に大きな意味が含まれていた。マルコがメモを読むかどうかはこの手術の結果次第だった。
胸部大動脈瘤の手術の可能性が高かった。大動脈を人工血管と交換する大掛かりな手術だった。マルコの娘はマルファン症候群で、大動脈瘤とも関係があるかもしれない。仕事を終えてさっさと帰宅すればよかったものの、なぜか帰る気分にはなれず、カセットプレイヤーのある部屋に向かった。
珍しく部屋の中から物音が聞こえ、誰かいるなら家に帰ろうと思った矢先、ドアが開き、エムレ医師が部屋から出てきた。「ここにいるんじゃないかと思ったんですが、見つからなくて。どこにいたんですか?」他の医師に用があり、席を外していた。タイミングが悪く、すれ違ったのだろう。そのことをエムレ医師に説明した。
「ところで、あの古いカセットプレイヤーはあなたのですか?」
「ああ、古いが音は悪くない。聴いてみるか?」
エムレ医師は頷いた。アフメドと再び部屋の中に入ると、ソファーに腰掛けた。アフメドはいつものように再生ボタンを押した。「確かにいい音しますね」エムレ医師は満足そうな表情を見せた。
「でも、この部屋は埃っぽいですよ。掃除させましょうか?」
「このままで構わない、掃除をしたら誰かが使い出しそうだし。ソファーに座れば埃が舞うが、その埃でさえ、この音に何か影響を与えているかもしれない」
「そうかもしれませんね」
エムレ医師も本当にそう思ったのではなく、冗談のつもりで言ったのだろう、笑っていた。アフメドも埃が音に影響を与えていると本気で思っているわけではなかった。




