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牙狼は首を傾げた。
ずば抜けた嗅覚を持つ自分に気づかれずに、この距離まで近づくなど不可能のはず。
何よりおかしいのは、現れた女から人間の匂いがまるでしないことだ。
(な、何だ…この匂いは…?)
牙狼は、はたと気づいた。
これは最大級の危険と遭遇したときに感じる「死の匂い」だと。
(馬鹿な…)
そう思う牙狼ではあったが、尾は垂れ下がり、全身から冷や汗が湧き上がる。
「また、悪行に出くわしたか」
女が涼しい声で言った。
「見てしまったからには仕方ない。その女を置いて去れ」
女の栗色の双眸が牙狼を見つめる。
(いや…よく見ろ。ただの女だ。武器も持っていない)
牙狼の自尊心が、むくむくと頭をもたげた。
狂虎に魔力を授かるまでの牙狼は、ただの野盗であった。
自分より弱い者を虐げる悪行を繰り返し、強者からは常に尻尾を巻いて逃げた。
それが牙狼の生き方だった。
だが、今は違う。
もう、あの頃の弱かった牙狼は居ない。