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「魔王様は重い病に罹られ余命幾ばくもありません」
その老スライムの搾り出すような声は魔王城の深奥、魔王の間に重苦しく響いた。
魔王の間の中心には仰々しくも豪華な装飾の施された天蓋付きのベッドが置かれている。そして、そのベッドには一体の男がこれまた豪華な装飾の施された布団を掛けられ横になっていた。
青白い顔に尖った耳、裂けた口からは鋭い牙が覗いている。それは見る者を恐怖させるに十分な恐ろしい相貌をしていた。
男は人間ではないのだ。
男は魔王と呼ばれる人間にとっての脅威だった。
魔物を率いては多くの人間を虐殺し、多くの国を蹂躙し、一時期は世界の八割を手中に収め人類を滅亡寸前まで追いやった恐怖そのものと言っていい存在。
しかしベッドに横たわる魔王の姿は、ただただ今にも朽ち果ててしまいそうな弱々しく衰弱しきった病人のそれで、そこからはかつての世界を恐怖に陥れた面影は一切感じ取る事が出来なかった。
「魔王はずっと病を患っていたというのか?」
「その通りでございます」
魔王城へ魔王討伐にやってきた勇者の男、マカロが確認するように訊ねると老スライムが恭しく肯定する。
それを受けてマカロは眉を顰めると共に魔王城に突入してきた仲間に目を向ける。それぞれ魔法使いらしい三角帽子に重戦士らしい筋肉を纏った体をしている。
マカロから目を向けられた魔法使いの少女ナデコと大柄の戦士の男パンコもどう反応していいのか困った様子でマカロを見つめ返していた。
それも当然だろう。
魔王が出現し魔物が暴れまわるこの世界で、人間は血の滲むような努力によって成長〈レベルアップ〉を重ね、少しずつ奪われていた世界を取り戻していき、ついに魔王城を攻略するに足る力を持つ勇者が現れるに至った。
それがマカロである。
勇者マカロ、魔法使いナデコ、重戦士パンコは最強のパーティとして魔王城攻略を世界の国々から依頼され全てに決着をつけるべく、多くの凶悪な罠と強大な力を持つ魔物の群れを潜り抜けてやっと全ての元凶たる魔王が待つ魔王城の深奥たる魔王の間へと辿りついた。
そんな彼らの前に現れたのは、もはやただ死を待つだけの病に冒された魔王だったのだから困惑するなというのは無理がある。
とはいえ、いつまでも放心しているわけにはいかないだろう。
「ナデコ、こいつの言っている事が本当かどうか調べてくれ」
マカロはベッドの脇の台の上に佇む老スライムを一瞥するとナデコに声を掛けた。
「! うん、わかった」
ナデコははっとしてから頷くと詠唱を始める。
とにかく事の真偽を確かめる事が早急にやるべき事に違いなかった。まだ、この老スライムが言っている事でしかないのだ。魔物の言葉を無条件に信じるわけにはいかない。
程なくしてナデコがヒールサーチの魔法を唱えると状態を探る回復魔法の光がベッドに横たわる魔王の体を包み込む。
「どうだ?」
「うん、このスライムの言っている事は本当だと思う。すでに体の大部分が細胞レベルで壊死してる。これはもうどんな回復魔法をかけても治るものじゃない。後、数日で魔王は死ぬ。間違いないよ」
「そうか」
ナデコは最高の魔法使いであると同時に最高の治癒師でもある。
そんな彼女の見立てであれば、まず間違いない。
本当にこの老スライムの言う通り魔王は病で死ぬのだろう。
「それでマカロよ。どうするのだ?」
ヒールサーチの光が収束するのを見守っていたマカロに同じく光の収束を見守っていたパンコが声を掛けた。
「どうするとは?」
「このまま戦って倒すのか?」
「ああ……、そうだな……」
マカロが口元に手を当てる。
もはや魔王は生きているのもやっとの状態でマカロ達がやってきた事にも気づく事はなく昏々と眠り続けていた。このまま剣の一本でも刺せば間違いなく絶命する。
魔王を倒す事が――人類の悲願を達成する事が出来る。
「当たり前でしょ。その為にわたし達苦労して魔王城を攻略して来たんだよ。そりゃちょっと拍子抜けだけど、むしろ楽に倒せてラッキーだったじゃない」
「ふむ、ナデコはなかなかに合理主義者なのだな」
「合理主義者じゃなくて普通なんだけど」
「そうなのか?」
「そうなのかじゃないよ」
どことなく煙に巻くような態度のパンコにナデコがほっぺたを膨らませて睨みつけている。それから「ねぇ、マカロもそう思うでしょ」と同意を求めるようにマカロに視線を移した。
「……」
「マカロ?」
ナデコが怪訝な顔を向けるのにマカロは沈黙を返す。
そこに潜り込ませるように老スライムが声を挟んできた。
「このような事をお願いできる立場ではないのですが、このスライムは魔王様が幼少の頃より面倒を見てまいりました。どうかお願いです。どうかこのスライムに最後まで魔王様の面倒を診させては貰えないでしょうか」
「ちょっと何言ってるの! 雑魚スライムのくせに。この魔王がどれだけの人を殺したか。あんた達魔物がどれだけの人を苦しめてきたか。自分達が今まで何をしてきたかわかってるの? わたし達が魔物のお願いなんて聞くと本当に思ってるの?」
ナデコが老スライムを攻めるのに、それを受けて止めて老スライムは言葉を続けた。
「お怒りはごもっともでございます。ですが無理を承知でお願いしたいのです。魔王様がお亡くなりになれば我ら魔物も消えるでしょう。このスライムの最初で最後のお願いでございます。勇者様、どうかこのまま魔王様を看取らせてはいただけないでしょうか」
老スライムがマカロを見上げる。
その目には真摯な光が宿っており本当に最後まで魔王の面倒をみたいという一心から言っているのだという事がわかった。
正直な所マカロは面を食らっていた。
まさか邪悪な魔物がこんな事を言い出すとは思ってなかったからだ。
「勝手な事言わないで。マカロ、こんなスライムの言う事聞かなくていいよ。さっさとやっちゃおう」
「……」
「ねぇ、マカロってば」
ナデコの言う通りだった。
こんなスライムの言う事を聞き入れる理由なんてこちらにはない。
弱っているならさっさと殺してしまえばいい。
しかし、同時に本当にそれでいいのかという思いがマカロの中に浮かび上がっていた。
痩せこけ、骨と皮だけになり、今にも命の灯火が吹き消えようとしている魔王を前にしてマカロは自分の中に整理できないものがある事に気がついた。
これは同情なのだろうか。あそこまで絶対的な力を持ち世界を蹂躙しつくした魔王も病に勝てないのだという事を知り可哀想だとでも思っているのだろうか。
だとしたらそれはくだらないものだ。
可哀想な人間など沢山いる。
そしてその全ての元凶は目の前のこの男だ。
因果応報と思うならともかく、可哀想と思うなど馬鹿げている。
「……」
しかし、それはマカロにこのままただ幕を引く事を躊躇わせるものだった。
己の中に渦巻く感情に一区切りつけマカロは一つの結論を出した。
「わかった。お前の願いを受け入れよう」
「本当でございますか!」
「ああ、魔王を倒すのはやめだ」
「ありがとうございます。勇者様。ああ、このご恩をどう返したらよいか」
「別にいいよ、返しようがないだろ。その代わりと言ってはなんだが、魔王がちゃんと死ぬまで俺達も監視させてもらう」
「わかりました。勇者さま方がご滞在する間、魔王城の魔物一同精一杯おもてなしをさせていただきます」
そう言うと、老スライムは深々と礼をした。
「っ!? マカロ、なんでよ!」
ナデコがぎょっとした顔でマカロを見る。マカロはそんなナデコを一瞥すると、
「三百年以上にも渡った戦いが今更二日、三日決着が延びた所で大して変わらないだろ。それにもう人々は魔物の恐怖からは解放されているんだ。ここで俺達が魔王の死ぬまでの数日を待ったとしても新しく被害者が出るような事もないさ」
そう。もはや魔物の支配地域もこの魔王城周辺だけで実質世界は救われているようなもので、それを確固たるものとするべくこの魔王城攻略は行われているのだ。
魔王討伐をどうしても急がなければならない理由は少なくともマカロ側にはない。
そして魔王はこの状態なのだから、殺そうと思えばいつだって殺せる。
ならばそれは〈今〉じゃなくても別に構わないだろう。
「それは……、そうかもしれないけど。でも、みんな勇者が魔王を倒すのを楽しみにしてるんだよ。早く倒して安心させてあげるべきでしょ。ねぇ、パンコも何か言ってあげてよ」
「ふむ、俺はマカロの決断を全面的に支持するぞ」
「なっ!」
パンコが宣言するように言うのに、ナデコが絶句する。
「いくら魔物とはいえ、病気で動けない相手を攻撃するなんて武人の矜持に反するからな」
「武人の矜持って……」
「戦うなら、正々堂々とするべきだ」
「その気持ちもわからなくはないけど……」
そうそうにパンコから同意を得るのは無理だと判断したのかナデコは矛先をマカロに戻した。
「マカロもそうなの? 病気で動けない相手を殺す事に抵抗があるの?」
ナデコがむすっとした顔で見つめてくる。
「どうなの?」
「……」
「もしそうだっていうなら、わたしがやったっていいけど」
そう言うとナデコの周りに魔力が集まり出す。
「ナデコやめろ!」
「っ!?」
マカロの鋭い声にナデコがビクッと肩を震わせたかと思うと集まりだしていた魔力が霧散する。
そしてナデコはウルウルと涙を滲ませた目をマカロに向けた。
「何でなの。わたし何か間違ってる?」
「すまない。今は俺の決定に従ってくれ」
ナデコはしばらく潤ませた目で不満そうに見つめていたが、やがてそのまま静かに口を開いた。
「マカロ、あなたひどい顔してるよ」
そりゃ、お前の方だよ。とマカロは言い返しそうになったが火に油を注ぐ事になるので飲み込む。それからナデコは肺に溜まった空気を換気するように一つ大きな深呼吸をした。
「……わかったわよ。二対一だしね」
そう言うと目尻を払ってナデコは引き下がった。
「すまない」
「いいって」
もう一度ナデコに声を掛けると、マカロは再びベッドに横たわる魔王へと視線を落とす。
「俺達で、魔王の最後を看取ろう」
そして、重苦しい声でそう宣言した。