「さ、帰ろうか」
「さ、帰ろうか」
放課後になってルームメイトと廊下を歩いていたキトの前に現れたアレンは、にこりと笑ってそう言った。
その様子は狭い廊下で注目を集め、さわさわと囁く声がする。「あれって」や「また来てる」といった内容のそれはアレンに向けられたものだ。男女問わず視線を集めるのは、どこか儚さを漂わせるその美しい容姿でも、上級生であることを示すえんじ色のタイでもなく、その胸元に輝くバッジである。
白銀の輝きを放つそれは、将来国政に携わることを約束されている学生のみがつけることを許されたものだ。それが与えられるのは学園内でも数えるほどの人数しかおらず、そのどれもが名のある名家の子息である。すなわちこの小さな輝きを放つバッジは、大きな尊敬と羨望の視線を集めるエリートの証なのだ。
しかしながら今廊下でアレンに集まる視線はそのほとんどが羨望や好意というよりも、好奇の色を多分に含んでいるものだった。
「は、帰る?」
そしてキトがそう言ってアレンを見上げる目には、何言ってんだこいつという不審と困惑の色がありありと見て取れた。――ちなみにキトの隣にいるルームメイトの目は思い切り面白そうに笑っている。――
「明日は休みだろう? だから、迎えに来たんだよ」
アレンは周囲の視線やキトの自分を見る不審な目などまるで気にしていないようにそう言うと、腰を折り曲げてキトの帽子を被った頭……丁度ネコミミの辺りに口を寄せて
「俺の猫をね」
とささやいた。
キトの心臓が飛び跳ね、かっと顔が熱くなる。恥ずかしいのもそうだが何よりこんな公の場所で、ささやいた程度の声とはいえ、聞かれてしまうかもしれないではないか。隣のルームメイトにだってうまくごまかして伝えているというのに……。キトが赤い顔のままで抗議するようにアレンをきっと睨み付けるが、何がおかしいのかアレンはふふと笑うだけだった。
門を出ると途端に冷たい風が吹き抜け、キトは思わずぶるりと体を震わせた。
「そろそろマフラーやコートが必要な季節になるんだね」
キトの隣でアレンがそう言い、制服の襟を少し内側へ寄せる。夕方の寒さに対しては気休め程度の行動だったが、思わず体が震えるのと同じ原理なのだから仕方がない。体が本能的に寒さから身を守ろうとしているのだ。その行動を見れば悪魔のように思えた幼馴染にも多少の人間味がにじみ出て見えるもので、キトはすっかり気を抜き「この間まで暑いって言ってたのになあ」とのんきに言葉を返して両手をすり合わせる。アレンもまた「本当だね」と穏やかに返した。
「雪が積もるのだってきっと、あっという間だろうね」
それから街を見渡してそう言うアレンに、キトは雪化粧したそれらを思い浮かべて「そうだね」と返す。
寒くなるとこの街には雪が降り積もる。商店の軒先には思い思いのスノーマンが並び、彼らは冬の間の広告塔を担うのだ。夜になるとスノーマンには熱を持たない魔法の光が灯り、両目がゆらゆらと光る。その様子は小さい子供にとっては時に恐ろしく見えて、そういえばアレンに泣きついたことがあったっけ……とキトは昔のことを思い出した。とても小さい、けれどはっきりと記憶のある頃のことだ。
キトがちらりとアレンを見やるとアレンはいつの間にかこちらを見ていて、優しく「キト」と呼びかけた。同時にゆっくりと手を差し出される。その姿はキトの記憶を更に刺激した。
……ああ、たしかあの時もそうだった。怖がる自分にアレンは手を差し出して、手をつなげば怖くないと言った。
「手をつなげば、少しは温かいかな」
もちろん今目の前のアレンが同じ言葉を言うはずはなく、しかし確かに思い出と同じ姿に、キトはきゅうとする胸の痛みを感じながら吸い込まれるようにその手を取った。
「じゃあ行こうか」
次いでアレンがそう言うとキトはふっと我に返り、アレンの言葉を反芻してん?と思う。
そういえばアレンは帰ろうか、迎えに来た、などとは言ったが、どこへとは言わなかった。そして今「じゃあ行こうか」と言った言葉も例外ではなく、どこへとは言わない。
「え、そういえば、どこ行くの?」
キトが慌てた様子でそう聞くとアレンはただ笑ったままで
「着いて来たらわかるよ」
と言う。
その笑顔に聞いても無駄だなということを理解したキトは何も言わず、ただ自分のそれと同じくらい冷たいアレンの手をぎゅっと握り返した。キトの前では笑みを絶やさないこの幼馴染は、いつだって大切なことを言わないのだ。
歩いている途中で察しはついていた。
アレンに手を引かれて歩いたのは、どこもかしこもキトが歩き慣れた道だ。こっちだと手を引かれる前に行く方向の察しはついた。そしてその方向は明らかにキトの実家に向かっていて、しかしアレンがそこに向かうはずは無い、だとしたら。その察しが確信に変わったのは、アレンの足がキトの実家がある通りを過ぎた瞬間だった。
キトの実家から一つ向こうの通りに、その家は存在する。
通りに並ぶ家の中でもひときわ大きいわけではなく、成功者の証が掲げられているわけでも無い。しかしそこは確かに成功者の家で、キトが幼いころに通ったアレンの家だった。
その扉を前にして、キトは自分が緊張していることを自覚していた。幼いころに通っていたときは緊張のきの字も知らなかったが、さすがに今回は状況が違うためか。自ら赴くのではなくアレンに手を引かれて連れてこられたというのもそうだし、あるいはお互い学生になってから訪れるのは初めてだからかもしれない。……もしくは、己の恋心をきちんと自覚してからは初めてだからなのか。
緊張で足が止まるキトの手を優しく引いたのは、アレンの手だった。軽く握られにこりと笑いかけられると、キトの足はゆっくりと動き出し、アレンに続いて扉の中へと入ってく。そうして踏み入れた玄関で二人を迎えたのは、給仕服に身を包んだ初老の女性だった。
「お帰りなさいませ」
恭しく頭を下げそう言った彼女にアレンが「ただいま」と声をかける。そしてキトは、思わず笑みを浮かべた。
「マラヤさん!」
「お久しぶりでございます、キト様」
そう言ってマラヤがにこりを笑みを浮かべるとその口元には以前には目立たなかったしわが目立って見えて、久しぶりという言葉が重みを増す。
アレンの家で家政婦を務めるマラヤとの再会はキトが学園の中等部に入学して以来なので、およそ六年ぶりである。そりゃあ口元のしわも目立つようになるはずだし、「あんなに小さかったキト様がこんなにもお美しくなられて」と久しぶりに会う親戚のおばさんのようなことを言うようにもなるはずだ……とキトは思わず己のネコミミのことも忘れて感慨にひたっていた。
アレンは再会を喜ぶ二人を少しの間見守っていたが、やがて会話がひと段落したころを見計らって口を開いた。
「マラヤ、温かい飲み物を用意してくれるかな」
アレンの言葉にマラヤが「承知しました」と言い、次いでキトに一礼をして立ち去っていく。それからアレンはその背中を見送るキトの手を優しく掬い上げた。
「キト、こっち」
そうして穏やかに微笑むアレンに、キトは手を引かれるままに歩き出すのだった。
アレンに連れて行かれた先は、やはりキトにとって懐かしい場所だった。
部屋に入るなりアレンはキトの手を離すとカバンをその辺に放り出し、暖炉の方へ向かう。キトはアレンのその行動に思わず「あっ」と声を上げた。それは驚いたようでは無く、カバンを雑に扱うアレンを非難するような言い方だ。
事実アレンがその声に振り向くと、キトはアレンが放り投げたカバンを手に持って眉を怒らせていた。――残念ながらぴんと立っているであろうネコミミは帽子に隠れて見えない――
「もう、カバン放り投げる癖まだ治ってないの?」
その表情のままでキトがそう言い、次いでカバンに視線を移すと「あー角のとこすごい傷ついてる」とアレンに聞こえるように言う。恐らく普段は寮の部屋でフローリングの床に放り投げているのだろうと察せば、キトはそれも非難がましく口にした。
その様子をアレンはなぜだか少し嬉しそうに見ていて、ふふと笑った後に「ごめん」と言った。アレンの相変わらずの態度にキトはそれ以上非難を続けることはせず、呆れたように息をつくと壁際の小さな棚の方へ歩き出す。アレンが放り投げたカバンをキトが拾って置き直すのは、いつもそこだった。
ついでに自分のカバンもそこへ置いてアレンの方を見ると、アレンは暖炉の前で膝をついている。
「何してんの?」
「暖炉に火を入れるんだよ。キトはソファでくつろいでいていいよ」
キトがアレンの背中に呼びかけると、アレンは振り返らずにそう言った。まあ今更遠慮する必要もないか……と判断したキトはそのままソファへ向かい、ぼふんと腰掛けた。キトの体が程よくソファに沈み、柔らかく押し返される。
改めてぐるりと見回した部屋は、キトの記憶に残るそれとほとんど変わりのないものだった。
草花の柄をあしらった壁紙に、床には深緑の絨毯が敷き詰められている。壁際に置かれた小さな棚は、かつてそこから遊び道具を取り出していた記憶のあるものだった。
目の前の猫足のテーブルに遊び道具やぬいぐるみを散らかして、あまり遊びを知らないらしいアレンとこの部屋ですることと言ったら大抵はキトの提案したおままごことばかりだ。たまにマラヤがぬいぐるみを持って犬や猫を演じてくれたが、ほとんどの時間はアレンとキトの二人きりだった。そしていつも、キトが奥さん役、アレンが旦那様役で……と、記憶がそこにたどり着いた途端に得体のしれない恥ずかしさがこみあげ、キトは「ああ」と声を上げてソファに倒れ込む。
そんなキトに、暖炉に火を入れ終えたらしいアレンが近づきゆるりとその頭を撫でた。その手が帽子の下のネコミミに当たり、くすぐったさにキトが体を起こすとアレンは空いたスペースに腰を下ろす。そうして再びキトの頭に手を添えるとニットの帽子をすぽんと取った。
「窮屈だっただろ? 痛くは無かった?」
そうして露わになったネコミミを、労わるようにアレンの手が優しく撫でる。
正直押さえつけられて窮屈だったし、少しの痛みもあった。しかしネコミミを晒してしまうよりは何倍もマシだと思えばどうしてその通り訴えられるというのか。キトはアレンの問いに「別に」とだけ言って返した。そんなキトの態度にアレンはやはり笑うだけで、何を考えているやらわかったものではない。
「あーあ……放課後に買い物行く約束してたのに」
それが癪に障るのであてつけがましくキトがそう言ってやれば、アレンはわずかに目を丸くさせた。
「誰と?」
「コニーと」
「ああ……キトのルームメイトか」
キトがそう答えるとアレンはほっとしたように息をついて、再びその口元に笑みを浮かべた。しかしそのわずかな感情の起伏をキトが感じ取ることはできず、恨めしげにアレンを見上げるばかりである。
「それじゃあキト、明日は俺と出かけようか、キトの行きたいところならどこでも連れて行くよ」
その言葉にキトが驚いたような顔をしたと同時に、感情の隠せないネコミミがぴんと立つ。アレンと二人で出かけるなんてそれはまるで……とキトは思わず胸をときめかせ……。
「今時は猫の散歩も珍しくないそうだからね」
直後の言葉にがんと頭を打たれて、ぽかんと口を開けた。
笑っているから冗談のつもりで言ったことぐらいはわかる。わかるのだが、やはり乙女心をもてあそんだ罪というものは重いのだ。キトはふーっとネコミミの毛を逆立てるとアレンに向って思い切り「バカ!」と言葉を投げつけてやるのだった。
それからふっとアレンの言葉を反芻し、おや?と思う。
「え、明日?」
キトが驚いたようにそう言うと、アレンはキトの頭に手を乗せてネコミミを撫でつけるようにゆるりと動かした。ネコミミに直接触れられるのとは違う、快感に似た感覚がキトをじわりと襲う。
「今夜は泊って、明日一日、俺に付き合ってくれないかな」
まるでお願いするように言うが、ネコミミを撫でながら言うそれは脅しと同等のものである。
「……そうしないと、これ治してくれないんでしょ」
キトが恨めしげにそう言えば、アレンは医務室でそう言ったのと同じ表情で「ありがとう」と言った。