奥方達の昼下がり2
「早かったわね」
「さすが、サイラス様ですね」
その笑いのままに、皆で階下へと降りるとサイラスが一目散にリリアナの元へ走り寄り、大げさなほどに硬くリリアナを抱き締めた。リリアナがぽかぽかとサイラスの胸の辺りを叩いている。恥ずかしいからやめてくれ、と言っているようだ。
サイラスはひとしきり妻を抱擁した後、オリヴィアにも軽い抱擁を行った。
「久しぶりだね、オリヴィア。フレッドから毎日話を聞いているから久しぶりという感じがしないけど」
「お久しぶりです、サイラス様。お早いお迎えでしたのね」
「そりゃあもう。愛しの妻を一刻も早く腕に抱かなければと思ったからね。それにフレッド自慢の奥方様にもお目にかかれるとあれば急がないわけがない」
「サイラス!」
彼特有の挨拶を苦笑交じりに聞き流せば、リリアナが頰を染めて怒っていた。その隣ではフレッドが、こちらは本気で冷やりとするような視線をサイラスに投げつけている。サイラスが呆れたようにフレッドを見て言った。
「君、相変わらずだな……。俺がオリヴィアに触れた位でそんなに睨むなよ」
「僕は心が狭いんだ。特に君に対してはね」
「俺にはリリアナという最愛の妻がいるんだぞ」
「それでも、だ。早く離れろ」
ぐい、とフレッドがオリヴィアの腕を引いたので、オリヴィアは慌ててたたらを踏んだ。いつの間にかフレッドのもう片方の手がオリヴィアの腰に回っている。不意にその腕がきつくオリヴィアを抱き込むように力を強めたので、オリヴィアは心臓の鼓動が加速するのを自覚した。頬が熱い。
オリヴィアは慌ててその場を取りなそうとしたが、サイラスはあっさり引き下がった。
「あの、フレッド」
「まあ、今日はすぐに戻らないと父上が直ぐにも帰って来そうでまずい。リリアナ、おいで。帰ろう」
「サイラス、あまりフレッド様を怒らせては駄目よ」
「いや、ついあいつの初恋をいじってやりたくなって」
「サイラス」
低い声はフレッドとリリアナの両方から発せられた。サイラスがやれやれとばかりに肩を竦める。フレッドが益々声を低めた。地を這うような声だ。
「帰れ」
「言われなくても帰るって! オリヴィア、またウチにも来てくれよ」
「ええ、サイラス様達も次は是非晩餐にいらして下さいね」
「オリヴィア、またお茶もしましょうね! あ、そうそう、ちゃんとフレッド様にさっきのことを訊くのよー!」
「え、ええ」
サイラスとリリアナが寄り添って出て行く。それを見送ると先ほどまでの賑やかさが嘘のように穏やかな午後が戻って来た。使用人達も下がり、玄関ホールにはオリヴィア達二人だけになる。
だが最後にリリアナに言われた一言のせいで、オリヴィアは暫くフレッドをまともに見ることが出来ないでいた。
そんなオリヴィアに気付いているのだろう、フレッドが目を細めて訊ねた。
「何だい、僕に訊ねることって?」
「あ、いえ……あの、」
「うん?」
「その……」
言い淀んだオリヴィアの顔をフレッドが覗き込んでくる。オリヴィアはますます言いづらくなったが、どうやらフレッドはオリヴィアが口を開くまでそのままで待つ気のようだ。
オリヴィアは意を決して続けた。
「フレッドは……、可愛い女性の方がお好きですか?」
「へ?」
唐突な質問の中身が予想外だったからだろう、フレッドが何度も怪訝そうに瞬いた。
「あ、いえ、あの……、リリアナに、もっと着飾ればと言われたので……」
「うん? きみは充分可愛いと思うけれど?」
フレッドがなんだそんなことかと言うように眦を下げる。その目が柔らかく自分を見詰めるので頬の赤味が増したのではないかとオリヴィアは高くなる鼓動と共に思った。そんな風にさらりと言われるとどう返して良いかわからなくなる。
「いえ、その、レースとかフリルとか……そういう飾りの似合う可愛い方の方がお好きなのでは、と……」
いつの間にか可愛さの種類が、装いのそれからその人自身の持つ容姿や雰囲気にすり替わってしまっている。オリヴィア自身そのことに気付いていなかった。
自分がこれまで異性に対して随分と頑なな態度を取っていた自覚はある。もしかしたらフレッドにも可愛げがない妻だと思われているのではないか。不安がついその質問に現れてしまっていた。
「うーん、僕はどちらでもいいと思うけど?」
「あ、ごめんなさい。こんな質問」
焦って声が上擦った。くだらない質問をしてしまった、と思わずオリヴィアは唇を噛んだ。フレッドがまたオリヴィアの顔を覗き込んだ。その目を見上げることが出来ない。と、フレッドがオリヴィアの両肩に手を置いた。
額に柔らかな唇の感触が降りる。
オリヴィアは不意のキスに頬を染めた。
「おいで」
フレッドがオリヴィアの肩を抱いて促す。その歩みに引き寄せられるように、オリヴィアはフレッドについてサロンへと引き返した。
フレッドと共にサロンに入り、ソファに並んで腰を下ろした。その間もフレッドの手はずっとオリヴィアの肩を抱いていた。先程までリリアナとお茶を楽しんでいた場所は、いつの間にかエマがティーセットを下げてくれていた。
「きみは可愛いよ」
「あ……ありがとうございます」
フレッドが先程と同じ台詞を繰り返す。それで彼が先程の話の続きをしようとしているのをオリヴィアは知った。顔を上げられず心持ち目を伏せた。返事がたどたどしくなる。
「今も……耳まで真っ赤だしね」
「フレッド様!」
肩を抱いていた手がするりと耳を撫でたので、オリヴィアは思わず声を上げた。フレッドが耳朶をきゅっと摘まんだ。
「呼び方」
「あ……、ごめんなさい」
慌てて謝るとフレッドが苦笑した。
「そういう所も可愛いからいいけどね」
「う……」
何だかからかわれているような気分になる。オリヴィアはフレッドを軽く睨み付けた。彼が再び苦笑する小さな声が二人の間にふわりと浮いた。
「何も着飾らないきみも好きだし、何でもないドレスでもきみが着ると息を呑むほど綺麗だと思う。オリヴィアは何をしたって可愛い」
歯の浮くような台詞はますますオリヴィアの頬を染め上げていく。嬉しいのに、何だか居たたまれない。
「それでもきみが僕のために着飾ろうとしてくれるなら……そうだな」
フレッドがそこで一旦考えるような素振りを見せた。珍しく逡巡している様子に、オリヴィアは首を傾げた。
「きみを着飾らせるための物は、僕に贈らせて欲しい」
「え?」
「いつも殆ど宝石を身につけないだろう? 指輪も飾りのないシンプルなものにしてくれって言ったから、ずっと好きじゃないのかと気になってた。でも僕は、僕の贈った宝石で美しく輝くきみを見てみたい。勿論きみが嫌ならやめておくけど」
「いえ、嫌なわけでは」
「そう? じゃあ贈らせて。愛する妻を更に美しくするのは僕がいい」
「あ……はい。ありがとうございます……」
フレッドが頬をふにゃりと緩める。その笑顔を見て、オリヴィアはこれからはもう少し華やかな装いにも挑戦してみようと思った。他ならぬこの愛しい夫のために。
フレッドが頭を傾ける。近付いてくる空色の瞳に吸い込まれるようにしてオリヴィアは瞼を閉じた。
後日、公爵邸に届けられた目も眩むような見事な宝石の数々に感激を通り越して怖じ気づいたオリヴィアが、フレッドの胸をぽかぽか叩きながら「やり過ぎです……!」と抗議することになるのだが、それはまた別の話。