幸せになって
この話は『34部の魔法は解けて』と関わっているので、そちらに目を通してから読んで頂けると幸いです。前半はラファエルの母親の話になります。
私の家はあまり裕福ではなかった。
だけど、両親はたくさん愛情を注いでくれ、私の将来のためにと無理をして行儀作法の学校にも入れてくれた。
だが、無理が祟って両親は私が在学中に、流行病で帰らぬ人となってしまった。
大好きな両親を失いひとりぼっちになってしまった私は悲しみにくれたが……両親がしてくれたことを無駄にはすまいと必至に頑張り、無事に学校を卒業した。
そして、丁度、空きが出たディーク侯爵家に使用人としてあがれることになった。
下っ端の雑用係メイドだが、侯爵家で働いたという経歴があればこの先も職には困らない。
私の将来は安泰だ。
これも両親が学校に出してくれたお陰だ。頑張って働こう。
そう意気込んで働き始めたのだけど……。
どういう巡り合わせなのか、下っ端だった私が、侯爵家の旦那様の目にとまってしまい、夜のお相手をさせられることになってしまった。
やがて、私は子どもを身ごもった。
決して自分から望んだ妊娠ではなかった。
それでも一人ぼっちになってしまった私にまた家族ができるのだと思うと嬉しく思えた。
だから、妊娠に気付いたらしい侯爵夫人に、強い憎悪を向けられた時……私は我が子を守るためにお屋敷をひっそりと抜け出した。
お屋敷から遠く離れた場所に移り住み、私は色々な準備を始めた。
私にはもう頼れる身内はいなかったけど、侯爵家からもらっていた賃金はほとんど使わず貯めてあったので、しばらくは働かなくても大丈夫だ。
でも子どもを一人で産むことはできないので、手伝いをお願いしなければならない。
そうして子どもを産む準備を始めると、しておかなければいけないことは山のようにあり、あっという間に時は過ぎていった。
幸運なことに借りた住まいの隣に住む気のいいお婆さんが、お小遣い程度の金額でお産後の手伝いなどをかってでてくれた。
準備が整い、いくばくかして、その時はやってきた。
長く苦しい痛みの果てに、ようやくこの手に抱いた我が子はそれはそれは愛おしくて、自然と涙が溢れてきた。
一人ぼっちになってしまった私に再びできた大事な大事な家族、この子のためならばなんでもできる。そんな風に思った。
赤い髪に灰色の瞳の可愛らしい息子には、ラファエルと名を付けた。
そして私が両親に貰ったたくさんの愛情をこの子にも与えていこうと決めた。
ラファエルが少し大きくなると、私は彼を隣のお婆さんに預けて、働きに出た。
侯爵家で貯めたお金も少なくなってきていたし、ラファエルと二人で暮らしていくためにもしっかりと稼がなくてはいけなかったからだ。
侯爵家にはもちろん知らせず、周りにも父親のことは決して話さなかった。
あの侯爵夫人から向けられた憎悪に満ちた瞳を思い出せば、関わらない方がよいと心から思えたのだ。
母一人子一人の暮らしは決して裕福ではなく、厳しいことも多かった。
それでもラファエルは本当にいい子に育ってくれた。
お茶の好きな私のために、小さな手で必死にお茶を入れてくれる優しい息子。
こんな息子を持てて私はなんて幸せなのだろう。
ラファエルを見るたびにいつもそう思えた。
このまま、つつましく暖かい日々を過ごし、いつかこの優しい息子が連れてくる可愛らしいお嫁さんを見られたら――なんて想像して、私は本当に幸せだったのだ。
それなのに―――。
口を布に覆われ、冷たい床に押さえつけられた息子。
「やめて!!」
と私は必死に叫んだが、男に床へ押さえつけられた。
なぜ、なぜこんなことになってしまったのか……。
「その子供の身体はあまり雑に扱わないでちょうだい。その身体は私の大切なシリウスのモノになるのだから」
そう言って、十年前と同じ憎悪に満ちた瞳を向けてきたのはディーク侯爵夫人だった。
この状況の意味がまったくわからない。
突然、連れてこられ殴られ、痛めつけられ、訳がわからないことばかりだ。
でも、大事な息子に何か良くないことをされそうなことだけはわかった。
「……侯爵夫人、私を憎くお思いならば、どのようにしていただいても構いません……ですから、どうかどうか息子だけは……」
必死に訴えるが、侯爵夫人の様子は変わらなかった。
「なんと図々しい女なのかしら。私から夫を奪い、子供まで授かった女が、まだ望みを言うなどと」
侯爵夫人はそのように言ったが、全く事実ではないことだった。
「……私は侯爵様の気まぐれで一時のお相手を申し遣わされただけにすぎません。ですから、もう侯爵様に近づくつもりもございません。私はただ子供と共に静かに暮らしていきたいだけなのです」
現に侯爵はもう私のことなど覚えてもいないだろう。息子の存在だって知らないはずなのだ。だから、私たちに構わないで欲しい。
私が望んでいるのは息子と二人、静かに暮らしていくことだけなのに。
「…………お前だけ……お前たち親子だけが幸せに生きるなんて絶対に許さない!! ……始めなさい!」
私の声は侯爵夫人には届かなかった。
真っ黒な服を着込んだ黒い男が、私の前に立ち聞いたことのない言葉を呟き始めた。
そして、私は身体に強い衝撃を覚えた。
ああ、もう私は駄目なんだ。そうわかった。
身体にはなんの感覚もない。
ラファエルが私の方へやってくるのがぼんやりと見えた。
この手が思うように動かせるならば、その頬に触れて涙をぬぐってあげたいのに……。
泣かないでラファエル。
優しくて自慢の息子――。
あなたを産むことが出来て、あなたと過ごすことができて、私は本当に幸せだった。
だから、どうか、あなたも――。
「……どうか…生きて、生き残って、幸せになって……愛しているわ……」
★★★★★
目を開けるとそこにはようやく見慣れてきた天井が映り、ここが借り受けている魔法省の寮の一室であることを思い出した。
僕、ラファエル・ウォルトが、魔法省に勤め始めて数週間が過ぎた。
あの日、カタリナに本当の名を呼ばれ、黒い男が僕の中から消えてから、かあさんの夢をよく見るようになった。
それは、以前の禍々しいものではなく……幼い日に抱きしめられたこと、頭を撫でられたこと、かあさんのために入れたお茶を褒められたことなど幸せなものがほとんどだった。
それに、あの最期のかあさんの姿も……今、改めて思い出せば、とても優しい目を向けてくれていた。
憎しみや悲しみが消えた訳ではない。
それでも過去に囚われずに生きていこうと思えたのは、間違いなく彼女のお陰だった。
これからはかあさんの最期の言葉どおり、幸せになるために生きていく。
ここまで様々な罪を犯してきた自分には簡単にいかないことかもしれないが……。
そのためには今、できることを一つ一つしていこう。
僕はベッドから起き上がり、身支度を整えると、魔法省の配属された部署へと向かった。
いつも早めに来ているので、他の職員の姿はまだなく、静まった部屋で一人、仕事の準備をしていると、ドアがノックされた。
こんな風に入ってくる職員はこの部署にはいないようだったのに誰だろうと思いながらも、
「どうぞ」
と返事をすると、
「失礼する」
そう言って入ってきたのは、黒髪に黒い瞳の美青年、ニコル・アスカルトだった。
「え、なんでここに?」
驚いて敬語も忘れ、素で聞いてしまった。
「魔法省で用事があったので、ついでに寄った」
ニコルはいつもの無表情でそう言うと、大きめな袋をぐいっと差し出してきた。
「これは生徒会メンバーから、お前へ差し入れだそうだ。昨日、あずかった」
「え、ありがとう」
差し出されるままに、受け取った袋はずっしり重く、そこには菓子や茶葉、野菜などが入っていた。
そして袋の上にちょこんと置かれた紙に『お仕事、頑張ってください』と書かれていた。
その上手いとは言えない文字には見覚えがあった。彼女は生徒会室でよくノートを広げていたから。
「……ありがとう」
もらった袋を胸に抱き、もう一度、そう呟くと、無表情な友はただこくりと頷いた。
腕に抱いた袋の重みに、僕はもうとっくに幸せになっているのかもしれないと思えた。




