クラエス家にメイドとして仕えて
私の名前はアン・シェリーと言う。
辺境の田舎の男爵家に生まれ、十五歳の年にクラエス公爵家に行儀見習いとして仕えることになった。
そうして私は、クラエス公爵家で一人娘、カタリナ・クラエス様付のメイドとなった。
初めて会ったカタリナ様は、顔はそれなりに可愛らしいのだが、少し吊り上った目が勝気な印象を与える少女だった。
そんなカタリナ様は、典型的な甘やかされて育った貴族のご令嬢であり、だいぶ高慢で我儘な性格であった。
そんな、カタリナ様に仕えて数か月たったある日のこと、お城の庭を散歩中にカタリナ様は転んで、岩に頭を強く打ちつけてしまった。
その事故で、額をざっくり切ってしまったカタリナ様は、それが原因なのか、数日間、高熱を出して寝込んでしまった。
そして、目覚めたカタリナ様は―すっかり人が変わってしまっていた。
あんなに高慢に召使を見下し、我儘三昧であったカタリナ様は、すっかり穏やかになり、召使への気遣いまでしてくれるような、優しく慈悲深いご令嬢へと変わっていた。
お嬢様は頭を打ったのと高熱で人格が変わられたのだ。
穏やかで優しいご令嬢になられた……と召使一同が驚きながらも喜びを感じていたのは、カタリナ様がベッドでじっとしているわずかな間だけだった。
熱が下がり具合も落ち着き、ベッドから起き上れるようになったカタリナ様は…………頭を打つ以前よりもずっと問題児となってしまっていた。
ベッドから起き上がったカタリナ様は、なぜか目を血走らせ図書館に通いつめたり、執事に詰め寄ったりと奇行を繰り返し……ようやくそれが落ち着いたかと思ったら、今度は剣術と魔力の訓練をするのだと鼻息荒く宣言した。
そうして始めた剣術の稽古では、勢いだけはいいが、その動きはめちゃくちゃで相手を切る前に自分の足を切りそうで、周りをひやひやさせた。
そして次は、魔力の訓練だと言い、ほっかむりを被り、鍬で土を掘り返し、由緒あるクラエス家の庭にあろうことか畑を作り始めたのだ。
そうして庭に入り浸るようになると、今度はドレスをまくりあげ木によじ登ったり、庭に流れる小川の魚をほとんど釣り上げ、小川の魚をほぼ絶滅の状態に追い込んだ。
こうして、問題ばかりおこし、その度に奥様にそれはきつく怒られても、カタリナ様の様子が変わることはなかった。
怒られた直後は確かに落ち込んでいるのだが、翌日には、もうケロッとしているのだ。
どうやら、カタリナ様はどんなに怒られても、だいたいのことは翌日には、忘れてしまうというなんとも羨ましい能力を有しているらしかった。
そして現在、十五歳を迎える年になっても残念ながらカタリナ様が変わることはなかった。
さすがにドレスで木に登ることこそしなくなったが……
ある時は、庭に生えていたキノコを『絶対に食べられる』と主張し、食べた結果、お腹をこわし奥様に雷を落とされ……そうかと思うと今度は突然、農業を勉強すると宣言し、農作業の本を読み漁り、庭の畑の拡大作業を始めた。
本当に、八歳のあの時より何も変わらないのだ。
七年間ずっと傍で仕えてきたが、未だにカタリナ様が何を考えているのか予測ができない。
しかし、そんなひどい問題児であるカタリナ様だが……ある一部ではとても人気があるのだ。
例えば、カタリナ様の婚約者である、この国の第三王子ジオルド・スティアート様。
見目麗しく、非常に優秀でもあるジオルド様は、カタリナ様が大のお気に入りだ。
カタリナ様といる時のジオルド様はとても楽しそうで、カタリナ様が愛おしくてたまらないといった表情を浮かべている。
あんな表情を向けられながらも、まったくジオルド様の気持ちに気が付かないのはさすがカタリナ様と言うしかないのだろう。
そんな、鈍すぎるカタリナ様がまさかの婚約解消をジオルド様に迫った時は本当に恐怖だった。
それはジオルド様に婚約を申し込まれたきっかけであるカタリナ様の額の傷が綺麗に消えた頃のことだった。
ある日、八歳の時についたその傷が綺麗に消えたことに気付き、カタリナ様とともに喜びあった。
しかし、まさかそれを機にカタリナ様がジオルド様に婚約解消を言い出すなんて夢にも思わなかった。
そもそもジオルド様にあんなに愛されているのに、カタリナ様がそのことにまったく気が付いていなかったことをこの時に初めて知ることとなったのだ。
「ジオルド様、額の傷がきれいに消えました。なので、もう責任を取っていただく必要はないので、婚約を解消してもらって大丈夫です」
カタリナ様がそれはご機嫌でニコニコとそう告げると、ジオルド様は少し目を見開き驚いた様子を見せたが……
その後、すぐに笑顔になった。
しかし、その目はまったく少しも笑っていなかった。
「そうですか。では、見せてください」
カタリナ様に近寄ったジオルド様は、少し乱暴な手つきでカタリナ様の前髪をあげて額をだした。
そこには綺麗に傷の消えた額があるはずだったのだが……
「いえ、まだ傷が残っていますよ」
ジオルド様は綺麗になったはずのカタリナ様の額を見つめながらそう言った。
「え!?でも何度も鏡で確認したし……アンにだって見てもらったのに…」
ちょっと、カタリナ様、こちらに振らないでください……
「それは見間違いですね。確かにまだ残っていますよ。ねえ、あなたもそう思いませんか?」
ジオルド様がそれは美しい笑顔で、まったく笑っていない目を私に向けてきた。
恐怖のあまり、私はただ首を大きく縦に振って同意した。
結局、こうして消えたはずの額の傷はジオルド様の意向により消えていないということになり、「絶対に婚約は解消しないからね」とジオルド様に目がまったく笑っていない笑顔で言い切られこの話は終わった。
正直、寿命が何年か縮んでしまったような恐ろしい事件であった。
そしてカタリナ様の義理の弟であるキース・クラエス様。
初めてお会いした頃は痩せていて暗い様子の少年だったキース様は、今では沢山の女性が憧れる美少年となられた。
そして、どんな女性にもとても親切で優しいキース様はとにかくモテる。
しかも、成長するにつれ、凄まじい色気を放つようになられた。
正直、召使の間でも、キース様の色気にやられてしまっているものも少なくない。
そんなキース様もカタリナ様に夢中な一人だ。
カタリナ様の行くところには常に付き添われ、陰に日向にカタリナ様のフォローをされている。
そして、そのカタリナ様に向ける視線は熱く、それが姉弟の感情ではないのは明確だ。
しかし、もちろん鈍すぎるカタリナ様はそんなキース様の視線に気づかない。
そればかりか、カタリナ様にはキース様のあふれ出る色気すらわからないらしい。
本当にさすがである。
「色気とか言われたって……肝心な人に効かないんじゃそんなの意味ないじゃないか」
以前、キース様が一人暗い顔で愚痴っているのを偶然、聞いてしまった。
とても憐れなお姿だった。
そんなキース様だが奥様を味方につけ「カタリナ(姉さん)に王子様のお妃は勤まりません」派を結成し、カタリナ様とジオルド様の婚約を解消すべく奮闘しているが、残念ながら今の所、ジオルド様に阻まれ続けている。
そして国の第四王子で、ジオルド様の双子の弟であるアラン・スティアート様もまたカタリナ様に夢中な一人だ。
音楽の神の申し子と言われるほど、素晴らしい才能を持つアラン様は巷では、その演奏を聴きたい者が多すぎて凄まじい倍率だという演奏会に毎回、カタリナ様を招待されている。
そして、カタリナ様を見つめるその瞳にはそれは溢れんばかりの好意が浮かんでいる。
しかし、アラン様が一つだけ残念なのは、あれだけの好意あふれる瞳でカタリナ様を見つめていながら、七年たった今でも、その自分の気持ちに無自覚らしいことだ。
明らかにカタリナ様を好いているのにまったく自覚がない様子は、呆れを通りこして憐れにすら思えてきてしまう程だ。
だが、それはアラン様が鈍いだけの問題ではないこともわかっている。
アラン様にその気持ちを気づかせ、これ以上ライバルを増やしたくないジオルド様、キース様たちがあえて気づかないように仕向けているのだ。
特に、中でもすごいのはアラン様の婚約者であるメアリ・ハント様である。
そしてこれが、アラン様をカタリナ様に捕られたくないという理由ならば、よくわかるのだが……実際は逆だ。
メアリ様もまたカタリナ様に夢中な一人なのである。
アラン様の婚約者であるメアリ・ハント様は、出会った当初はどこかオドオドして、引っ込み思案なご令嬢だったのだが、この七年で社交界でもその素晴らしさを称えられている、ご令嬢の中のご令嬢へと変貌した。
そんなメアリ様は、本当にカタリナ様が大好きだ。
どれだけ好きかと言うと……ジオルド様との婚約を解消させ、カタリナ様を遠い地に連れ去り一人で独占しようとする程に好いているようだ。
メアリ様の計画が発動し始めたのは数年前である。
ある時からメアリ様は『王子の妃などという大役は私には勤まりませんわ』とカタリナ様によく言われるようになった。
なんでもできる完璧なメアリ様のこんな弱音を聞けば、令嬢力皆無のカタリナ様が不安にならないはずがない。
それを聞いて『じゃあ、私なんてもっと無理だわ。どうしたらいいのかしら』とカタリナ様が不安な様子を見せると『では、二人で一緒に婚約破棄してどこか遠い土地へ逃げましょう』とその手を取り優しく微笑むのだ。
初めこそ、冗談だと思っていたのだが……
メアリ様がその逃げる先を具体的に提示し始めたあたりから……これは本気だと気が付いた。
メアリ様は本気で、婚約を解消させ、カタリナ様を遠い地へ連れ去るつもりなのだ……
しかし、もちろん鈍すぎるカタリナ様がそんなメアリ様の本気に気が付くはずもなく……
未だに「メアリは本当に優しい子だわ」とヘラヘラしている。
こうして、義理の弟に、双子の王子、その婚約者のご令嬢までも夢中にさせているカタリナ様だが……
その人気はとどまることを知らない。
国の宰相の息子であられるニコル・アスカルト様、彼もカタリナ様に夢中な一人だ。
黒髪瞳のよくできた人形のように綺麗なニコル様は、昨年、社交界にデビューされると、途端に愛好会ができたというすごい方だ。
しかも、その愛好会には女性だけでなく、男性の参加者も多いらしい。
美しさだけならジオルド様、アラン様、キース様もそれはお美しいのだが、ニコル様にはまた不思議と人を魅了する雰囲気があるのだ。
カタリナ様曰く『魔性の伯爵』なのだそうだ。
そんなニコル様は、基本的にはほとんど無表情で、自分からお話をすることもあまりなく、愛好会の中でもニコル様の表情が変わったところを見たことがある者などほとんどいないとも言われているのだが……
そんなニコル様もカタリナ様の前では、それは幸せそうな笑顔を見せる。
それは本当にとろける様な笑顔で、見てしまった者は思わず腰砕けになってしまう……
その笑顔で召使仲間が何人、使えなくなったことか……
しかし、やはり鈍すぎるカタリナ様がそんな自分の前だけで違うニコル様の様子に気づくことはなく……
『メアリやキースたちが魔性の虜になってしまわないように守らなくては!』と一人息巻いている。
キース様の色気も感じ取ることのできないカタリナ様にはニコル様の微笑みの魅力も効かないようだった。
そしてそんなニコル様の妹であるソフィア・アスカルト様も、カタリナ様が大好きである。
カタリナ様がこよなく愛するロマンス小説仲間であるソフィア様は、おすすめの本を持参して実に楽しそうにクラエス家にやってくる。
そんなソフィア様は早々に兄であるニコル様の気持ちに気付き、ひたすら兄の素晴らしさをカタリナ様に語ってニコル様をアピールされているのだが……
もちろん鈍すぎるカタリナ様はまったく気が付かず、『ソフィアは本当にお兄ちゃん子なのね』と勝手に納得している。
このように、問題だらけのカタリナお嬢様は、なぜだかえらく人気者だ。
キース様曰く『無自覚の人タラシ』らしい。
そんなカタリナ様の人タラシは貴族のご友人の方々だけにはとどまらない。
気難しくてほとんど人と交流をしない庭師頭のトムもカタリナ様の前だけでは、楽しそうにしているし、他人にも自分にも厳しく、皆が遠巻きにしているメイド頭もカタリナ様の前だけでは普段、見たこともないような穏やかな表情を見せている。
いくつになっても、問題ばかり起こす規格外のご令嬢カタリナ様の一体何がこんなに人を惹きつけるのか……
皆、彼女の何にそんなに惹かれるのか……
そう言う私も本当は……わかっているのだ。
★★★★★★★★★★★
私、アン・シェリーは、シェリー男爵と男爵家召使いであった母の間に生まれ、男爵家の離れにある小さな屋敷で育った。
シェリー男爵の気まぐれで、数回だけお手付きとなり私を身ごもった母はいつも私に言った。
『男爵様の言うとおりにして、気に入られるように振る舞うのよ。決して反抗などしてはいけません』
物心つく前からずっと繰り返された言葉。
私はそれに従い、男爵に言われるように母の望むように行動し、決して反することなど言わず、気に入られるように振る舞って生きてきた。
その甲斐があってなのか、本宅にこそ呼ばれることはなかったが、男爵にとくに邪険にされることもなく、不自由なく暮らしていくことができていた。
しかし……そんな日々も突然、終わりを迎えることとなった。
私が十五歳を迎える年のことだった。
突然、離れの一室から火が上がり、あっという間に離れは火に包まれてしまったのだ。
私はなんとか逃げることができたが背中に大きな火傷を負い、母は亡くなってしまった。
あっという間のできごとに茫然とする私を、生まれて初めて男爵が本宅に呼び寄せて言った。
「背中にひどい傷ができたそうだな。それではもう政略結婚の道具として使えん。お前はもういらん。屋敷から出ていけ」
まるで「今日は晴れですね」と同じくらい自然にかけられた言葉に私は何も返せずただ立ち尽くした。
今まで、必死に男爵に気に入られるようにと生きてきた。
邪険にされないことを受け入れられているなどと自惚れていた。
でも、それは間違いだった。
邪険にされなかったのは、ただ私に興味がなかったから……
私は男爵にとって只の道具だったのだ……そして……
もういらない存在になってしまった……
こうして、住み慣れた離れも存在の意義も失ってしまった私は、メイドを募集していた遠縁であるクラエス公爵家へと行儀見習いとして行くこととなった。
そうして、私はクラエス家で、一人娘カタリナ様付のメイドとなった。
カタリナ様は甘やかされて育ったためか、だいぶ我儘で、召使にも高慢な態度をとっており、カタリナ様付メイドはなかなか長く続かないのだということだったが……
私はそんな訳にはいかなかった。
だって、嫌なら家に帰ればよい他の行儀見習いの女の子たちと違い、私にはもう帰る家はないのだ。
ここを追い出されてしまっては、もう行くあてなどないのだ。
私は、今までずっと男爵や母にしてきたように言われるまま逆らわず、気に入られるように振る舞った。
カタリナ様が欲しがる言葉を、欲しがるものを、決して反論などせず、主に合わせ、主の望むモノとなれるように……
そうして仕えていればカタリナ様も機嫌をよくし、日々は問題なく過ぎていった。
元々、そうやって生きてきたのだ。ただ仕える主が変わっただけだ。
私はここで新たな道具になればいいのだ。
しかし……岩に頭をぶつけ寝込んでからカタリナ様は変わってしまった。
高慢さはなくなり、我儘も言わなくなった。
前のように賞賛の言葉を望むこともなくなった。
木に登り、畑を耕すあまりに規格外のご令嬢。
どうやったら気に入られるのか、どうやって合わせればいいのかまったくわからなくなってしまった。
今まで、ずっと人に合わせ、その人が望むように生きてきた私は、自分の意志で生きることを知らなかった。
そうして、どう接していけばいいのかわからず戸惑っていた私だったが……
気がつけば自分の意志で自分の言葉で話すことを覚えていた。
以前のように沢山の賞賛の言葉を口にするわけでもなく、すべてを肯定するわけでもない私をカタリナ様が邪険にすることなどなく……それどころか慕ってくれた。
初めて誕生日プレゼントというものをもらった。
『肩叩き券』あまり綺麗でない文字でそう書かれた紙の束も、なんの生き物かわからない手作りの木彫りの人形もカタリナ様から毎年届けられるそれらは、すべて大切に保管している。
破天荒なカタリナ様に振り回わされる日々は、とても大変ではあったけれど……あの離れで過ごした十五年間とは比べものにならないほど新鮮で楽しくて幸せな日々だった。
このまま、ずっとここでカタリナ様の傍にいたい。
いつの間にかそんな風に思うようになってきていた頃だった。
クラエス家に来てからの数年、まったく連絡などとっていなかったシェリー男爵から手紙が届いたのだ。
それは『お前の婚礼が決まったので屋敷に戻ってこい』という手紙だった。
身体から血の気が引いた。
婚礼がきまった……背中の火傷のせいでもう政略結婚の道具としては使えないと捨てられたのに……
以前の私ならば、この手紙を受けたならばすぐに屋敷に戻っただろう。
ただの道具である私が男爵に……主に逆らうことなどあってはならないのだから……
でも……もう私は以前の私ではなかった。
私はここにいたかった。
だから、手紙を無視してやり過ごそうとした……
それなのに数週間後、シェリー男爵本人がクラエス公爵家を訪ねてきた。
呼び出された部屋の中では、数年前とほとんど変わらないシェリー男爵が座っていた。
「お前のような傷物でも引き取っても構わないという奇特な相手を見つけてやったのだ。しかもなかなか戻ってこないからわざわざ、こうして迎えにきてやったのだ」
感謝しろと頬を歪ませた男が告げた私の結婚相手は、社交界で悪い噂が絶えず、両手で数えられない程の愛人を囲っている親よりも年上の子爵だった。
この婚姻で、シェリー男爵はおそらく多額の婚礼金を貰えるのであろうが……私はきっと幸せにはなれないだろう。
そもそも、ただの道具が幸せになりたいなどと考えることこそが間違っているのだろうか。
身体中の血が失われたのではないかと思う程に一気に身体が冷たくなっていく。
「なにをグズグズしている。クラエス公爵様にはすでにお話ししてある、早く支度をしろ!屋敷に戻るぞ」
無言で立ち尽くす私に男が苛立ったように告げた。
ああ、私の幸せな日々はここで終わりなのか……
また私はただの道具になるのだ……
もっとここに……カタリナ様の傍にいたかった……
そう思った時だった。
「失礼します」
掛け声と共に、ノックもそこそこに部屋に乱入してきたのは、我がお嬢様、カタリナ様だった。
「アンのお父様ですね」
「……あ、ああ」
そう言ってカタリナ様はシェリー男爵に鋭い目を向けた。
突然、乱入してきた少女に、シェリー男爵がたじろきながら答える。
「お願いがあります!どうか今回のアンの結婚話を考え直してください!」
カタリナ様はそう言うと私の腕をぐっと掴んだ。
「私にはアンが必要なんです!傍にいて貰いたいのです!だから、連れて行かれては困ります!」
そう叫んだカタリナ様は、目をむいて驚いている男爵にさらにたたみ掛けてしゃべりだした。
そんな二人の様子を私はまるで別の世界の出来事のように眺めていた。
カタリナ様に掴まれている腕が熱い。
そして、そこから伝わる熱が冷え切った身体を暖めていく。
私はずっと主に合わせて生きるだけのただの道具だった。
でも、このクラエス公爵家で……カタリナ様の傍で暮らすうちに、私は初めて自分の意志で話し動くことを覚えた。
私はいつの間にか只の道具ではなくなっていた。
道具ではなくなった、ただのアン・シェリー……
それでも、必要だと……傍にいて欲しいと言ってくれた。
気づけば、あんなに冷え切っていた身体はすっかり暖かくなっていた。
特に目頭が熱くて溜まらない。
私はあふれ出そうになる涙をこらえた。
結局、その日はカタリナ様の行動で結婚話はあやふや状態となったが……
その後、私のこのひどい結婚話を知ったクラエス公爵が、男爵家に話をつけて下さりこの話は破談となった。
クラエス公爵には感謝してもしきれない。
しかも、私の身の上を案じたクラエス公爵は『よかったら、ちゃんとした結婚相手を見繕おう』とまで言ってくださったのだが……
私はこのまま、カタリナ様にお仕えすることを選んだ。
そうして私は今もこうしてこのクラエス家でカタリナ様付のメイドとして働いている。
いくつになっても、問題ばかり起こす規格外のご令嬢カタリナ様の一体何がこんなに人を引き付けるのか……
皆、彼女の何にそんなに惹かれるのか……
そう言う私も本当は……わかっているのだ……誰よりも……
ただ使われるだけの道具だった私をアン・シェリーという人間にしてくれた。
あの日、もらった言葉と掴まれた腕の温もりを決して忘れることはないだろう。
来年から入学される魔法学園にはもちろん付いて行く。
カタリナ様は『一人でも大丈夫』だなどと言っているが……自分でできると一人で着替えたドレスはぐちゃぐちゃで、放って置けば髪をとかすこともしないようなご令嬢が一人で大丈夫な訳がなかった。
『もちろん付いて行きます』と言った私にカタリナ様はしょんぼりした顔で言った。
「でも、アンは婚期のこともあるし何時までも付いてきてもらうわけにも……」
どうやら、私の婚期の心配をしてくれていたようだと気づき、少し笑ってしまった。
正直に言えば、結婚に憧れなどないのだ。私の望みはただ一つだ。
「私がいなくなったら誰がお嬢様のお世話をするんですか。もちろん学園へも一緒参ります」
私がそう言うとカタリナ様はそれは嬉しそうに笑ってくれた。
この先、カタリナ様が予定通り王子のお妃様になりお城へ行くことになろうとも、例えメアリ様と遠い土地に行くことになろうとも、私はどこへでもずっと一緒についていくつもりだ。
だって、私の居場所は……私が幸せである場所は……カタリナ様の傍なのですから―
私の望みはただ一つ、カタリナ様、貴方の傍で生きることなのです。