第四王子として生まれて
俺はこの国の第四王子として生まれアラン・スティアートという名をもらった。
一つ上の第三王子である兄ジオルドとは双子で生まれた。
俺は生まれて数年はひどく身体が弱くほとんどの時をベッドの上で過ごした。
母も乳母もみんな優しく可愛がられて育った。
ようやく身体も丈夫になり、本格的に剣術や学問を学び始め、兄たちとの遅れを取り戻そうと必死に頑張った。
そして、どの教師にも素晴らしいと褒められ、正直、俺は調子にのっていた。
しかし、ある時にジオルドと共に学問の講義を受けた時に俺は気づいてしまった。
俺が必死に問題を考える横で、ジオルドは涼しい顔であっという間にその問題を解いた。
それは剣術の稽古でも同じだった。俺が必死にかかってもジオルドはまるで赤子でも相手にしているかのように簡単に俺を打ち負かした。
俺はジオルドよりも劣っている。それもかなり……
俺はようやくそのことに気が付いた。
学問の教師も、剣術の教師もジオルドは特別なのだから、負けてもしかたないと俺を慰めてくれたが、俺はそれ以降、ジオルドと共に学ぶことはしなかった。
そして、ジオルドから距離をとった……
そんなある日、俺は聞いてしまった。
「アラン様は何をやってもいま、ひとつだな」
「病弱でずっとベッドでの生活だったのだから仕方ないんじゃないか」
「それにしても双子なのにあそこまでジオルド様と差がつくと可哀相だな」
「確かに、腹の中でいいとこを全部ジオルド様に持っていかれちゃったのかもな」
「はは、いいとこ取られた残りかすってことか」
「おいおい、それは言い過ぎだろう」
笑いながらそんな軽口をたたいていたのは城の召使たちだった。
俺は目の前が真っ暗になるような気がした。
目の前に出て行って無礼を咎める気さえおきなかった……
『ジオルド様にいいとこを全部持っていかれた』その言葉はまるで抜けない棘のように胸に刺さった。
そのような声を一度、気にしだすと……
それはあらゆるところで囁かれている気がした。
剣術の教師も、学問の教師も、召使もみんなが言っている気がした。
俺がどんなに必死に頑張っても……
ジオルドは涼しい顔でどんどん俺の上へと行くのだ。
いつしか、俺はジオルドへの劣等感でいっぱいになっていた。
しかし俺がどんなにジオルドを意識しても、ジオルドは全く俺に興味は示さず、その目には俺は映っていない……
それがまた俺を悔しく、苦しくさせた……
そして俺はどんどんジオルドから距離を置いた……それなのに悔しさや苦しさは増していった。
そんなジオルドが婚約したと聞いたのは八つになる春のことだった。
だいぶ力のある公爵家の令嬢に自ら婚約を申し込んだという話は城中の話題となった。
そしてそれから、何か月かして俺の婚約も決まった。
もちろん、ジオルドの様に自ら申し込んだわけではない。
一人だけ婚約者のいない末の王子に他の貴族たちが躍起になってあてがってきただけだ。
そうして、政略で決められた婚約者メアリ・ハントは幸いなことに、とても愛らしい少女だった。
赤褐色の大きな瞳に長い睫、まるでお人形のような少女。
少し小さな声で一生懸命に挨拶する様子がとても愛らしかった。
俺は末っ子だったので、可愛い妹ができたようで嬉しくなった。
そして、彼女は自分が世話しているという中庭を見せてくれた。
それは本当に美しい中庭だった。
「素晴らしい庭だね」と褒めたら、メアリは微笑んだ。
そんなメアリを見ていたら、先日読んだ本を思い出した「緑の手を持つ女の子」というタイトルの物語だ。
植物を上手に育てることのできる特別な手、緑の手を持つ女の子の話だ。
ああ、メアリは緑の手を持っているんだな。
俺はその話をメアリに伝えようと口を開く。
「先日、緑の手という特別な手をもっていると言っていただいたんです」
「……」
まるで、俺の心を読んだかのようにメアリが先にそう言い、俺は続く言葉を失ってしまった。
「最近、親しくさせていただいているカタリナ様が、先日そのように言ってくださったのです」
頬を上気させ、その時の様子を思い出しているのだろうか虚空を見つめて語るメアリの表情はまるで恋する乙女だ。
完璧においてけぼりをくらった俺はただ「はぁ」とだけ相槌をうった。
しかし、そんな適当な相槌を返す俺とは反対にメアリはカタリナ様について熱く語りだした。
それからもメアリは会うたびにカタリナ様とやらの話を熱く語った。
それどころか、お茶に誘っても「カタリナ様とお約束が」と断られることがほとんどだった。
一体、なんなんだそのカタリナとかいう奴は―
とだいぶ不満を募らせていたが、すぐにその正体はわかった。
カタリナ・クラエス。クラエス家の一人娘であり、なんとジオルドの婚約者であるという。
ジオルドは涼しい顔で何もかも俺から取っていく。
今度はそのジオルドの婚約者であるカタリナまでもが、俺からメアリを奪おうとしているのか……
また目の前が暗くなる気がした。
そして、気が付いた時には馬車に乗り、クラエス公爵家へ向かっていた。
客間に遅れてやってきた少女がカタリナ・クラエスと名乗った。
水色の瞳に茶色の髪の少女。年は同じだと聞いている。
顔は不細工ではないが、水色の瞳はきゅっと吊り上がっていてきつい印象のする少女だ。
ジオルドの婚約者であり、メアリが常々、絶賛しているためどんな美少女かと思っていたが……肩透かしを食わされた感じだ。
そんなカタリナに俺は早速、メアリのことを話した。
「メアリ・ハントは私の婚約者になった。知っているか」
「はい。存じていますが」
しれっーと答えるカタリナに俺はいら立ちを覚える。
「わかっているなら、みだりに誘惑をするな!!」
「……誘惑ってなんですか!?」
カタリナはその水色の目を見開いた。まったく身に覚えがないといった態度だ。
俺はさらにいら立ち思わず叫んだ。
「しらばっくれる気か!俺が誘ってもいつも『今日はカタリナ様とお約束が』と断られ、一緒にいてもほとんどお前の話ばかりだ!それもこれもメアリが純粋なのをいいことに、お前が誘惑しているに違いない!」
「ちょっと、言いがかりだわ!」
カタリナは只でさえ、吊り上った目をさらに吊り上げた。
「何が、言いがかりだ!事実だろう!そんな顔して、純粋なメアリをたぶらかして!」
「メアリがたまたまうちにくる約束している時に誘うあなたが悪いんでしょ!だいたい、本当に魅力ある人から誘われれば女の子はついていくわよ!あなたに魅力がないのよ!それに、私の話ばっかりなのはあなたの話がつまんないからでしょ!」
「……魅力がない……つまらない……」
俺は思わず言葉を失った。
確かに、今までさんざん、ジオルドにいいとこを全部とられた王子などと陰口をたたかれてきたが……
こんなに面と向かって馬鹿にされたのは初めての出来事だった。
あまりのことに、笑いまでこみあげてくる。
「……ふっふっふっ。ここまで面と向かって馬鹿にされたのは初めてだ」
「……え~と。その今のは……つい……」
「いい覚悟だな、カタリナ・クラエス。その暴言を俺への挑戦として受ける」
そして俺はカタリナに向かい高らかに宣言した。
「俺と勝負しろ」
一体、なぜこうなったのだろう。木の前に立ち、俺は思う。
確か、俺は先ほどカタリナ・クラエスに勝負を挑んだはずだ。
男同士ならば剣を交えての勝負を申し込むが相手は女子である。
そのため、カタリナに勝負の方法を選ばせた。
なので、俺の予想ではチェスなどのボードゲームになると思ったのだが……
「じゃあ、木登りでお願いします」
カタリナは、それは耳慣れない単語を口にした。
木登り?なんだそれは?
単語としては知っていたし、どんな行為かもわかるが……
ここまで、八年間生きてきて、そのようなことは一度もしたことがない。
そもそも、平民の子供ならまだしも、貴族の子供が木を登っている所など見たこともない。
しかし『もしかして木登りはできませんか』などと問われれば、男としてのプライドで思わず『そんなわけないだろう!受けて立つ』と答えてしまった。
そして現在、こうして庭で同じくらいの高さの木を前にカタリナと並んで立っているわけだ。
ちなみに勝負のルールは先にてっぺんに上った方が勝ちというシンプルなものだ。
確かに優劣はつけやすいかもしれない。
しかし、これまでの人生で木を登ろうと思ったことがなかったために、そもそも登り方がわからない。
だが、一度受けた以上、ここでやらないわけにはいかない。
俺は覚悟を決め、服の袖をまくった。
「では、アラン様。準備はよろしいですか?」
「…あぁ、いつでもかまわん」
「では、召使さんに初めの合図をかけていただきますね」
「お、おう」
そして、召使たちが見守る中、勝負は始まった。
そして、すぐに終了した。
結果は惨敗だった。
そもそも登り方など知らない俺は最初の枝になんとか登ったが、そこから先どうやっていいのか、わからずに戸惑った。
そして、カタリナはそんな俺をしり目にまるで猿の子の様にスルスルと木に登り、あっという間にてっぺんに辿りついていた。
なぜ、公爵家の令嬢であるカタリナがこんなに木登りがうまいのか……
そもそもなぜ由緒正しき公爵家に生まれた令嬢が木に登ろうなどと思ったのか……
色んな意味で謎だらけで俺はすっかり混乱した。
「アラン様。これで勝負はつきましたので、もうよろしいでしょうか」
しかし、そんな俺に向かい得意満面といった顔を向けてきたカタリナに―俺は思わず言っていた。
「もう一度勝負しろ!今のは初めてで慣れてなかっただけだ」
「よろしいですけど。そんな簡単に私には勝てませんわよ」
「望む所だ!」
しかし、何度やってもまるで猿のごとくすごい速さで木を登っていくカタリナに俺は敵わなかった。
そのため、再勝負を後日に持ち越すこととした。
カタリナに勝負を挑み始めて数週間がたった。
何度か、カタリナに勝負を挑むうちに気付いたことがある。
それはカタリナがいつも本気だということだ。
俺が王子だからと手を抜くことをしない。
そして、いつもまっすぐ俺をみるのだ。
今までこんな風に俺に本気で挑んでくれるものはいなかった。
そしてずっと、どんなに頑張っても、その目に俺を映してくれない兄……
カタリナのまっすぐな目と本気の態度は少しずつ俺の胸の痛みを軽くしてくれた。
俺はいつしかカタリナの元に行くのが楽しみになってきていた。
しかし、その日はやってきたのだ。
「ジオルド!?なんでここに!」
クラエス家に突然現れた兄に俺は思わず声をあげた。
「なんでとは不思議なことをいいますね。ここは僕の婚約者の家なのですから、いても何もおかしくないでしょう」
ジオルドはいつもの余裕に満ちた笑顔で返した。
確かに、その通りなので返す言葉もなかった。
そして、いつの間にか、カタリナがジオルドの婚約者であることをすっかり忘れていた自分に驚いた。
「うっ…とにかく、今日はこいつと勝負するから、邪魔をするな」
「その勝負なんですけど、もうだいぶ何回もして勝ててないらしいじゃないですか?そろそろもう諦めたほうが良いのではないですか」
そう言ったジオルドの目はとても冷たかった。
『ジオルド様にいいとこを全部持っていかれた』またあの言葉が頭をまわりはじめる。
「……だ、駄目だ!!まだ勝負はついてない!俺だってできる!俺だって……」
俺を見下すな!馬鹿にするな!
また目の前が暗くなっていく気がした……
最近は軽くなってきていた胸にもまたいつもの重苦しい感覚が襲ってくる。
駄目だ……気分が悪く…
「……あ、あのアラン様。よろしかったら勝負の内容を変えてもよろしいでしょうか?あまり木登りばかりしているとそろそろお母様にばれて怒られてしまうので」
唐突にそう声をかけてきたカタリナの顔は眉の下がったなんとも間の抜けた顔だった。
その顔をみると胸の重苦しい感覚が少しずつ薄れていった。
このカタリナの提案により木登り勝負は、ピアノの勝負に変更となった。
ピアノのある部屋へと移動し勝負を開始した。
まずはカタリナから子供用の練習曲を演奏した。
カタリナは何度か小さな失敗をしつつ弾ききった。
それに続いて俺はピアノに向かった。
そうして、演奏が終わると部屋の者たちが拍手をした。
カタリナが興奮したように声をあげる。
「すごいわ。アラン様。本当にお上手です」
カタリナがまるで城の教師たちの様に褒めてきた。
きっと、これもお世辞だろう。
「別に、こんなものたいしたことない」
「そんなことありませんわ。素晴らしい才能ではありませんか」
「……俺には才能なんて呼べるものはない」
確かに、剣術や学問よりも楽器に触れている方が楽しく、得意ではあるが……
素晴らしい才能……そんなものは俺にはない。俺はいいとこをすべてジオルドに取られた残りかすだ。
きっと何をやったって俺はジオルドには敵わないのだ……
「カタリナの言うとおり、本当に素晴らしかったよ」
ジオルドがいつもの作り物めいた笑顔で言った。
なんでもできる兄はきっと俺を馬鹿にしているのだろう。
また目の前が暗くなっていくような気がした。
薄れてきた胸の苦しさが再び俺を襲ってくる。
「…思っていないくせに…つまらないお世辞はやめろ!どうせ俺を何もできない出来損ないだと思って馬鹿にしているんだろう」
もうジオルドと同じ空間にいることが耐えられない。
皆が俺を馬鹿にしている気がしてくる。
気が付けば俺は部屋を飛び出していた。
闇雲に走ったつもりだったが、気が付けばいつもカタリナと勝負していた木の所まで来ていた。
しばらく、木の前に佇んでいると人の気配がして顔をあげた。
てっきり召使が様子を見にきたと思ったのだが、そこにはなぜだがカタリナが立っていた。
俺は思わず呟いた。
「……お前も笑いにきたのか」
「え?」
「……たかがピアノを少し弾けるくらいでいい気になるなと俺を笑いにきたんだろう」
「……ピアノを少し弾けるって……あれはもう少しのレベルではなかったと思いますよ。素晴らしい才能です」
「お世辞などいい。どうせ俺は何もできない。ジオルドの残りかすだ」
このカタリナという娘はどこか城の者たちと違うと感じていたが、やはり同じだった。
つまらないお世辞をいう。そしてきっと陰で俺を笑うのだ。
俺が駄目なのは俺がよくわかっているのだ。
だって、ずっとそう言われ続けてきたのだから……
「……お世辞ではないんですけど……アラン様はどうしてそんなに自信がないんですか?」
「はっ。生まれてからずっとジオルドと比べられて、何をやってもあいつに勝てない。腹の中でジオルドにいいとこを全部、持っていかれた残りかすだと言われ続けて、どうやって自信など持てというんだ」
俺が自嘲気味に吐き捨てると、さすがにカタリナも黙った……ように見えたのだが……
「向き、不向きの問題だとは思うんだけどな」
この令嬢はそう簡単には黙らなかった。
「……どういう意味だ?」
俺はいぶかしげにカタリナを睨んだ。
「えーと、その……ジオルド様にはジオルド様の得意なものや苦手なものがあって、アラン様にはアラン様の得意なものがあるのでしょうから、向き不向きがあって当たり前ですよという意味です」
「向き不向きか……じゃあ、ジオルドに苦手なものはあるのか?いまだかつて聞いたことがないけどな」
ジオルドはなんでも涼しい顔をして簡単にこなす。
食べ物の好き嫌いも苦手なものも生まれてから同じ城で暮らしているがまったく聞いたことがなかった。
完璧で非の打ち所がない、それがジオルドだ。
残りかすの俺とはまったく違うのだ。
しかし―
「ふっふっふっ。ジオルド様の苦手なものわかりますよ」
「!?」
カタリナは、それは得意げな笑みを浮かべた。
「ジオルド様の苦手なものそれはですね」
「……それは?」
俺は思わず固唾を飲んで見守る。
そこへなかなか帰ってこない俺たちをジオルドが探しに来た姿が見えた。
すると、そのジオルドをめがけて、カタリナが何かを放り投げた。
「うわ!?」
突然、目の前に何かを放り投げられたジオルドが声をあげて飛びのいた。
それは今まで、一度も見たことのない慌てた様子だった。
「おい、ちょっと待てジオルドの苦手なものって結局なんなんだ。そして今、一体、何を投げた」
ジオルドのあまりの取り乱しように俺は思わずカタリナに詰め寄った。
するとカタリナがまた得意そうな顔で言った。
「あれはヘビですわ」
「ヘビ!?」
あまりの予想外の答えに俺は驚愕した。
「……といっても作り物ですけど、本物だと動いてポケットにしまっておけないですから」
「……いや、それ以前にヘビはポケットに入れるものではないと思うが……というか今、なぜそれを投げた」
「ですから、ジオルド様の苦手なものを教えると言いましたでしょ」
「苦手なものって……ヘビか!?」
「そうですわ。薄々は思っていましたけれど、先ほどの反応で確信いたしました。ジオルド様はヘビが苦手なのですわ」
カタリナは、それは高らかにそう告げた。
なぜだかわからないがその顔はとても誇らしげだ。
しかし……ジオルドの苦手なものがヘビとは……
まったく予想していなかった。
というか、そういう苦手を知りたかったのではなく、俺としては学問の苦手な所とか剣術のこういう技が苦手とかそういうものが知りたかったのだが…
それにしてもヘビって……
でも……ジオルドのあんなにあわてた様子は初めてみたな……
その姿には正直、かなり驚いた。
そしてあんなに得意げに一国の王子にヘビのおもちゃを投げつけたカタリナにも。
考えを撤回しよう。やはりこのカタリナという少女は城の者たちとはまったく違う。
普通の貴族の子供たちとも違う。まったくおかしな令嬢だ。
そうして俺がひとり考えを巡らせているうちにいつのまにかカタリナがジオルドにつかまっていた。
そしてじわじわカタリナに迫るジオルドは怒っていた。
まあ、本気で怒っているという感じではなく、どちらかといえばカタリナをからかっているような怒り方ではあるのだが―
俺の知っているジオルドはつまらなそうに、いつも同じ作り物めいた笑顔で笑っていた。
世界のすべてに興味がない。そんな風にすら見えた。
それなのに、今のジオルドはどうだろうカタリナにヘビのおもちゃを投げつけられて本気であわてて、それに腹を立てて怒っている。
これは本当にジオルドなのか―
俺が唖然と見つめていたらどうやら、ジオルドがカタリナの母親に彼女の悪事を密告することになったようだ。
先ほどまであんなに得意満面だったカタリナが真っ青になってあわてている。
そもそも先ほどまで、なんであんなに誇らしげにしていたのかもまったく不明だ。
今はもう泣き出さんばかりに必死にジオルドに謝っている。
その様子は少しばかり憐れでもあったが……それ以上に、あまりにも可笑しかった。
俺は耐えきれなくなり腹を抱えて爆笑した。
笑い過ぎて涙がでるほどに笑った。
こんなにも笑ったのは初めてだった。
泣くほどに笑ったら、なんだか今までたまっていたものが涙と一緒に流れていったような気がした―
目の前が明るく、胸は軽くなった。
やがて、カタリナがクラエス公爵夫人に連れていかれたため、俺たちは城へと帰った。
城に着いた俺はふとジオルドに声をかけた。
「お前にも苦手なものがあったのだな」
気づけば自然と声をかけていたが、正直、ジオルドに俺の方から声をかけるのは本当に久しぶりなことだった。
そして、いつも穏やかな笑みを絶やさないジオルドが俺のその言葉に少しだけ顔を歪める。
彼のこんな表情を見るのは初めてだ。
「別に苦手というわけではないですけど、あまり好きではないだけですよ」
そう言う顔はなんだかいつもよりうまく笑えていない。
あまり好きではないってそれを苦手というのじゃないのか?無敵だと思っていた兄の意外な一面に俺はなんだか可笑しくなった。
「お前には苦手なものもないし、できないこともないと思ってた」
しかし、それは俺の思い込みに過ぎなかったのだ。
陰口にのまれすぎて俺はいつのまにか生身のジオルドではない、脅威な存在を自分の中に作り出してしまっていた。
そして、俺自身が本物のジオルドを見ていなかったのだ。
ジオルドにだって苦手なものはある。俺と同じだ。
今日、あのおかしな令嬢のお蔭でそれに気が付くことができた。
「苦手なものはともかく、できないことだってありますよ」
「たとえば?」
なんとなくいまいち本調子の出ない様子のジオルドに問えば、彼は苦笑して返した。
「たとえば、カタリナ・クラエスの行動を予測することとかね」
「……それは、確かに……」
俺も思わず苦笑する。
猿のように木を登り、突然、ヘビのおもちゃを放り投げてくるような女の行動は、さすがのジオルドでも読めないようだ。
俺はまた、ジオルドにヘビのおもちゃを放り投げた時のあの得意満面のカタリナの顔を思い出した。
自然と頬が緩む。しばらくはあの顔を思い出すだけで楽しく過ごせそうだ。
「そういえば、今日も結局カタリナとの勝負はつかなかったですけど、また勝負に行くつもりですか?」
「う~ん。そうだな。なんかもういいかな」
考えるが、なんだかもう勝負などどうでもいい気がした。
今まで勝負に固執し、勝ち負けにあんなにこだわっていたのが嘘のように、俺の心は落ち着いていた。
「じゃあ、もうクラエス家で会うことはないですね」
「え、なんでだ?」
俺は思わずきょとんとなった。ジオルドの言っている意味がわからなかった。
「なんでって、勝負が終わったならもう行く必要はないですよね」
「……いや、確かにそうかもしれないが」
確かに、クラエス家にはカタリナと勝負するために行っていたんだから、勝負をしないのならもう用はないわけなのだが……
まっすぐに俺を見る水色の瞳が浮かんだ。
兄の婚約者とはいえ直接に接点のない俺はクラエス家に出向かなければ、もうほとんどあの少女に会うことができない。
それはどうしてもいやだと思った。
考え込む俺にジオルドがどこか真剣な顔を向けてきた。こんな顔を見るのもはじめてだ。
「あの子は僕の婚約者ですからね」
「??」
そんなことは知っている。改めてなんなのだと首をかしげると、ジオルドはまた苦笑した。
「自覚はないのですか。でも、絶対に渡すつもりはありませんから」
ジオルドはそういい不敵な笑みを浮かべると、俺を残しさっさと部屋へと戻っていった。
俺はよくわからないまま、去りゆく兄の背中を見送った。
今までなら、その姿を見るだけで胸が痛くつらい気持ちになっていたのに今はもう平気だった。
急にジオルドを好きになったわけではないが、もう今までのようなどす黒い気持ちは沸いてこない気がした。
ジオルドに続いて俺も部屋に向かう。
向かう途中の庭に、二つ並んだ木がみえると、またあの木登り上手なおかしな令嬢の顔が浮かんだ。
今日、母親に怒られてしまったカタリナはもしかしたら落ち込んでいるかも知れない。
勝負を持ちかけたのはこちらだし、責任は自分にもあるような気がする。
今度、お詫びに行くとしよう。
そしてその時には彼女の好きなお菓子でも土産に持っていこう。
きっといつものように、リスのごとく口いっぱいに、頬張って食べるのであろうその姿を想像して俺の頬はまた自然と持ち上がっていく。