第3章:可哀想な彼の、最初の嘘
拓海が家を出て行ってから数日後。父の手配してくれた弁護士を通じ、拓海と高橋莉子の元へ書面を送付した。
『慰謝料については後日協議する。その前に、一度だけ三人で直接話し合う場を設けたい』
拓海は「慰謝料の請求がないに等しい」と勝手に解釈し、余裕たっぷりにこの面会に応じた。
***
「……ねえ、拓海。私、本当に会っていいのかな。奥さん、すごく傷ついてるんじゃ……」
指定されたファミリーレストラン。
莉子は不安げに拓海の袖を引いていた。
だが、隣に座る拓海は鼻で笑う。
「大丈夫だって。慰謝料の話を先延ばしにするなんて、あいつなりに俺に気を使ってるんだよ。結衣は家事もろくにできない、俺を追い詰めるだけの酷い妻だったからな。今はきっと、離婚を回避するために必死なんだろ」
「でも……」
「何も心配いらない。これは俺たちが正々堂々と家族になるための、ただの儀式だ。俺がしっかり守ってやる」
胸を張り、頼れる男を演じる拓海。
指定時刻の5分前。私は静かに、二人が待つテーブルの前に立った。
拓海が「やっと来たか」と顔を上げる。だが、その表情は数秒後に硬直した。
介護疲れでやつれ、常にどんよりとした空気をまとっていたかつての妻の面影は、もはやそこにはなかった。
――そういえば、最後に結衣が美容院へ行ったのは、いつだっただろう。
俺の知らない、どこか生き生きとした、見知らぬ女が立っている。
「……遅れてごめんなさい」
私は拓海の驚きなど無かったかのように無視し、静かに席に着いた。
そのまま、目の前に座る莉子だけを真っ直ぐに見据える。
「あ、あの……」
「莉子さん。彼から、私が『家事もろくにしない酷い妻』だったと、たくさん聞かされているんですよね?」
拓海が何かを言いかけたが、私は一切の関心を示さない。
あえて彼を視界から消し去り、莉子との対話に集中する。その「完全なる無視」という拒絶に、拓海のプライドは激しく削り取られているはずだ。
「えっ……あ、はい。拓海さんが毎日疲れてるのに、ご飯も作ってくれないって……」
莉子は困惑しながらも、拓海を庇うように答える。
その健気な姿に、私は静かに問いを投げかけた。
「莉子さん。一つ教えてください。彼は、自分のお母さんのオムツを替えたことがありますか?」
「え……?」
「排泄物を手で浴びせられたことは? 夜中に徘徊する母親を、何度も探しに行ったことは? 認知症の親から毎日『死ね』と言われ続けたことは?」
莉子の瞳が、驚愕で見開かれる。
「……そ、そんなの……拓海さんは、そんな話……」
「そんなの関係ないだろ!」
隣で拓海が声を荒げ、テーブルをガタつかせた。
周囲の客が何事かとこちらを振り返る。図星を突かれた男特有の、焦りと苛立ちに満ちた声だった。
「急に何の話だよ! お前は俺たちの幸せを邪魔しに来たのか!」
私は、ようやくゆっくりと拓海に視線を向けた。
怒りではない。まるで、道端に転がるゴミを見るかのような、冷え切った瞳で。




