第一話 声を失くした夜に、君と
「嘘だろ!なんでこんな事に……、」
草原を駆ける一陣の風、振り返れば終わると知る人間の足掻きそのものだった。心臓は荒ぶり、肺を裂く呼吸なんかに気を留める暇などない。背後に感じる気配は少しずつ、でも確実にその距離を詰め、もう一時の猶予も無い。
手に持った短槍を振るえば少しは時間を稼げるかも知れないが、そんなのゲームの中の話で、上手く扱える自信はない。空振りなんてしようもんなら折角の距離も一気に詰められて一貫の終わり……。
このマイナス思考は今に始まった事ではないとしても、こんな状況でも変わらないんだなと思うと殊更うんざりする。
(あと少し、もう少し……、)
繰り返し詠唱してみても、やはり何も変わる気配はない。
僕は一体どこへ向かえば良いのだろうか、いつまで走り続ければ良いのだろうか……、その答えはもう少し先のようだ。
見渡す限り、視界を遮る建造物はなく、身を隠せる干渉オブジェクトも存在しない。このまま無駄に走り続けても、いずれ体力は尽きる。
その先にあるのは、あいつの餌食になる未来だけだ。
背丈は小柄ながら血管の浮き出た隆々とした筋肉は見た目以上に威圧感があり、大きく裂けた口から滴る流涎と血走った眼に宿るのは本能剥き出しの破壊衝動、こんなの明らかに常軌を逸している。
《ゴブリン》
ほんの一瞬、視界に入っただけなので断定は出来ないが、脳裏に焼き付いたあの姿には幾ばくかの知識がある。小柄で狡猾、人間に近い知能を持ちながらも倫理観の歪んだ亜人種。ユグドラシルの序盤で登場する異形のモンスターそのものだ。
これまで聞いたことの無い唸り声が辺りに響き、鼓膜を通じて鼓動を激しく震わせる。こんな奴とまともにやり合えるはずもない。このフルダイブ型VRMMOはそう思わせる程の完成度だった。
《ユグドラシル》とは夢誘導神経干渉システム、通称ドリームインターフェイスを元に作られた世界初のフルダイブ型のVRMMOの事だ。
これは脳波・心拍・眼球運動を常時睡眠トラッキングし、外部刺激で感覚信号そのものを書き換える。AIはそのデータをもとに意識の流れを掌握し、ユーザーを覚醒状態のまま仮想世界へと“ダイブ”させる。
夢でありながら現実として知覚されるその没入感や思考操作性は従来の理論では決して成し得なかった高みだ。
元々、医療用として研究されていたシステムではあったが、研究の最終段階で安全性に大きな問題があるとの結論に至り、結局認可が降りなかった。
だが、神経科学の第一人者であり、ドリームインターフェイスの生みの親でもある東雲恒一は、この研究を極秘裏に続けていた。そして――その果てに生み出されたのが、この《ユグドラシル》というわけだ。
ユグドラシルへダイブするためには、睡眠をトラッキングし、意識の流れを掌握するヘッドバンド型デバイス《ドレイマー》と、AIが生成した仮想世界の情報を受信する高性能小型端末が不可欠となる。
だが、その量産は今世紀では不可能とされていた。――しかし、それを日本の一ベンチャー企業がついにこれを実現させてしまった。そして、初のフルダイブ型VRMMOは一般市場へと解き放たれたのだ。
ーーーーーー
「なぁ、悠真。今日は流石に潜るだろ。なんたってユグドラシル初の大型イベントなんだしよぉ。」
学校からの帰り道。変わり映えのしない街並みと、背後から聞こえる声――その全てが気怠い。良く言えばいつも通り、悪く言えば緊張感の欠片もない。
でも、結局のところ、いちばん締まらないのは僕で……、
その日暮らしで、目標なんてものもない。それでもここまで何とかなってきたのは、結局のところ、その瞬間ごとに最善を選び取る勘だけはあったからだろう。
それは今だって変わらない。取り立てて興味があったわけでもないのに、《流行っている》という理由だけで、なんとなく仮想世界に足を踏み入れている。
これまでもずっと、ハブられないように誰かの顔色をうかがいながら、しらけない程度の熱量で周囲に合わせてきた。
《前向きに検討します》――それが俺の口癖だった。
「あれっ?今日……、だったか。すっかり忘れてたわ。」
「おいおい、勘弁してくれよ。四月三十日の夜十一時、春の到来と魔除けの祭典《ヴァルプルギスの夜》いよいよ開催。俺何度も前日告知を読み返したからよぉ、覚えちまったぜ。」
《ヴァルプルギスの夜》
「秩序が一度ほどける夜」――ヨーロッパの民間信仰における魔女の宴になぞらえたこのイベントは、プレイヤー五万人同時接続という快挙を祝して、運営が企画した記念セレモニーだ。
ユグドラシル初の公式イベントとなる当日、始まりの町では盛大な宴が催され、記念のログインボーナスも配布されるという。
これまで目立った宣伝もなく、課金要素すら排してきた運営が、ここまで大々的に打ち出してきたのだ。――同時接続十万人も、もはや夢物語ではない。
「そ、そうだったな……。予定も特になかったし、多分、大丈夫……。」
正直なところ、あまり気が進まない。できることなら、何かと理由をつけて回避してしまいたい。元々、ゲームにハマるタイプではないし、得意なわけでもない。なにより致命的なのは、このゲームにはログアウトという概念が無い。いや、正確には自らログアウトが出来ないのだ。
睡眠には、体を修復する深層の《ノンレム睡眠》と、記憶を再編する浅層の《レム睡眠》が存在する。人は脳が活性化するレム睡眠中に夢を見る。
両者は約九十分周期で交互に切り替わり、ノンレムへ遷移した瞬間、意識は自動遮断――すなわち強制ログアウトが発生する。
元来このシステムは治療用途で設計されたものだ。手動ログアウトが許可されていないのも、仕様と言えばそれまでだろう。だが、それは気まぐれと場の空気に流されて始めた初心者の僕には、あまりに酷な設定だった。案の定、先日も《ゴブリン》の群れに追い立てられ、ロストペナルティに怯えるばかりで何一つできず、ただ逃げ惑う羽目になってしまった。
「お、おう。それじゃ、また後でな。」
そして、今日もまた……、自分を押し殺して最適解を探している。
(もうすぐ十一時……、)
世間が眠りへと傾く頃、ドレイマー片手にベッドへ向かう足取りは、いつにも増して気怠い。基本的に朝型人間の僕なら、普段はとっくにログインしている時間帯だが、今日に限ってはそうもいかない。
このシステムは革新的で各科学分野の叡智を結集したと言っても過言ではないが、それでもまだまだ発展途上で、改善の余地はある。その一つが時間の制約だ。
多少の誤差なら高性能小型端末が補正してくれるため問題はない。だが、遅すぎるのは論外として、早すぎても厄介だ。イベント前に強制ログアウトされてしまう上、次に訪れるレム睡眠周期では睡眠の質が安定せず、ログインできないことの方が多い。
結局のところ、このタイミングの見極めはプレイヤー自身に委ねられている。
眠い目をこすりながら、身支度もそこそこに、意識を手放すようにベッドへ向かった。
まぶたを閉じた瞬間、現実の輪郭がゆっくりとほどけていく――。
意識が再び浮上した次の瞬間、夜の石畳が視界いっぱいに広がった。
群青の空の下、切妻屋根の街並みは暖色の灯りに縁取られ、どこまでも続いている。淡い灰や青に塗られた外壁は隙なく整い、そのすべてが――幻想的だった。
ただ、普段なら心躍るはずのこの情景も、今日に限っては妙に異様に感じられた。
軒先から垂れ下がる無数のランタンが石畳を照らし、あちこちに掲げられた黒い旗は、中央の灯りへと収束している。それに引き寄せられるように、人の流れもまた、同じ方向へと動いていた。
これは運営の目論見だろう――そんな穿った考えが一瞬よぎる。
だが、これまでの運営は妙に生真面目で、余計な遊び心を差し込んでくることはなかった。それに、これがイベントのチュートリアルだというなら尚更だ。コンシールドアイテムをどこかに隠すような真似をすれば、進行に支障をきたしかねない。
ーーならば、この流れに従うのが正解だろう。そう結論づけた僕は、ひとまず身を委ねることにした。
篝火の灯りに照らされた広場には、すでに人で溢れていた。揺らめく炎が影を歪め、ざわめきは熱を帯びて膨れ上がる。
視界の果てまで続くその密度は、もはや群衆ではなく、一つの現象だった。おそらく想定通り――いや、もしかすると、それすら上回っているのかもしれない。
それにしても、よくぞここまで集まったものだ。全身鎧のタンク役に軽装のアタッカー、支援を担う斥候と、ローブ姿の魔法職こそ見当たらなかったものの、誰もが当たり前のようにそこに立ち、それぞれの個性を際立たせている。
(けれど……、そのどれもが、どこか遠い。)
同じ場所に立っているはずなのに、輪の外から眺めているような、微妙な距離感。
理由は分かっている。単純に、僕が場慣れしていないだけだ。
装備の見せ方ひとつ、立ち振る舞いひとつ取っても、周りの連中はやけに板についている。あれが“普通”なのだろう。対して僕はといえば、ついこの前ようやく一式を揃えたばかりの初心者だ。動きもぎこちないし、何より、ここでどう振る舞って良いかも分からない。
声を張り上げる連中の輪に入る勇気もなければ、一人で堂々としていられるほど肝も据わっていない。
結局、できることといえば……。
人の流れに紛れて、ただ目立たないようにするだけだ。
(やっぱり、辞めときゃ……、んっ!?)
頭上から、音楽が降ってきた。
軽やかで、どこか浮遊感を孕んだ旋律――ついに始まった。
妙な感覚だった。
ざわめきはある。笑っている気配も、はしゃぐ空気も確かにある。それなのに、声だけが聞こえない。まるで“言葉”という概念だけが、この場から切り落とされているみたいだった。
《ヴァルプルギスの夜》
魔女たちが集う夜。常識も秩序もほどけ、人と異界の境界すら曖昧になる時間。だからだろう。名前も声も意味を失い、ここに残されるのは――ただの“本質”だけ。
……なるほどな。
早速、仕掛けてきたか。
世界初のフルダイブ型VRMMO、その初の大型イベント。声もチャットも封じられ、頼れるのはエモートと、曖昧な感覚だけ。
《沈黙の舞踏会》
各プレイヤーのウィンドウに浮かび上がったその一文で、ようやく腑に落ちた。
運営は試している。言葉も立場も剥ぎ取った状態で、それでも他者と“調和”できるかを。
悪くない趣向だ。いずれ実装されるギルドやグラン。その下地として、こうした極限状況での結びつきを測るつもりなのだろう。
それにしても――いや、だからこそか。
「…… ……。」
思わず口を開きかけて、意味がないと気づいた僕は、そのまま引き下がるしかなかった。
仕切り直すように軽く息を吐き、続いて周囲へ視線を巡らせる。意外にも広場に戸惑いの色はなく、むしろ奇妙な一体感に包まれていた。
(みんな、僕と違って場慣れしているのか、一様に堂々として見える……って、ちょっと待て。舞踏会って、まさか——)
足元に、淡い光が円を描くように浮かび上がった。一定のリズムで点滅するそれに合わせて、周囲のプレイヤーたちは軽やかにステップを踏んでいく。
(なるほど……これに合わせて踊れってことか)
舞踏会と聞いてワルツやタンゴを想像していたが、どうやらそんな優雅なものではないらしい。あんなものをやらされたら、他人と息を合わせるどころの話じゃない。
とりあえず、見よう見まねで足を踏み出す。
(――しまった、遅れた!)
その刹那、足元の光が弾け、ぱちりと火花が散った。周囲では滑らかに光が繋がっていくのに、僕の足元だけが無様に噛み合っていない。
(いや、ちょっと待てこれ難しくないか……?)
元々、運動は得意な方では無い。ましてや、ダンスなんて中学の体育の授業以来だ。
もう一度。今度は慎重に——外した、
——今度は盛大に。
連続で弾ける光が、もはや失敗を強調しているようにすら見える。
そのときだった。
——視線、
刺さるような、鋭い感覚。恐る恐る顔を向けると、そこには一人の少女が立っていた。
仮面のせいで顔までは分からないが、軽さを最優先に削ぎ落とした防具――その一目で、斥候かアタッカーと知れる。だが、無駄を削ぎ切った装いが、かえって女性特有の華奢な体つきを際立たせていた。
それよりも、仮面の隙間から覗く細められた視線は、あからさまにこちらを値踏みしているかのようで……。
(……え、なに? 今の、見てた?)
少女は何も言わない。――言えないのだろう。 だがその代わりに、はっきりとした溜息の“仕草”だけが、彼女の感情を雄弁に物語っていた。
《どうせ、馬鹿にでもしてたんだろ》
卑屈な感情が、じわりと全身を侵食していく。だが、そんなものは珍しくもない。これまでの連中と何も変わらない反応だ――もう慣れている。
だからこそ、差し出された手に気づくのが、ほんの一拍遅れた。
(……へっ?)
予想外の行動に、感情がノイズを走らせ、思考は強制的に再計算へと移行する。
——リセット。
——演算開始。
——補正完了。
アウェイな環境では、どうしても思考がマイナスへと傾く。最適解の導出に支障をきたす、悪い癖だ。
客観的に、俯瞰的に――それこそが、俺が生きる上で最も重視してきたはずなのに。
差し出された手の真意は、まだ分からない。
だが、その掌が上を向いている以上、敵意ではない――それだけは直感的に理解できた。
それだけで十分だった。
僕は迷いを振り切るように、差し出された手へ自分の手を重ねる。その瞬間――彼女の指が、わずかに動いた。
振り払う様子はない。代わりに、ほんの僅かに力が返ってきた。
彼女の視線が彼方へ流れた。それに釣られるように、僕の顔も自然と持ち上がる。察したのか、彼女の脚がゆっくりと動き出した。
一歩。
間を置かず、次。
二歩、三歩。
——光が、繋がる。
少女は言葉を使わない。ただ指先と視線だけで、すべてを伝えてくる。
それなのに、不思議と分かる。
——次に何をすべきか。
——どう動けばいいのか。
音楽のテンポは次第に加速し、それに呼応するように周囲の光も強まっていく。それでもなお、道標のように光は途切れない。
次第に時間の感覚が曖昧になる。こんな感覚は初めてだった。周囲ではところどころ光が弾けているはずなのに、それすら意識の外へ押し流されていく。
光は、これまでにない速さで駆け抜けた。息は上がっているはずなのに、不思議と苦しさはなかった。
彼女が一歩、前へ出る。
——ラストフレーズ。
わずかに変化したテンポ。それでも動揺はない。それどころか、彼女が次に何をするのか——直感で理解できていた。
これは、言葉が存在しないからこそ成立する、二度と再現できない純度の関係だった。
彼女は振り返り、こちらを見た。
——行くよ。
そう告げられた気がした。
踏み出す。
一歩。
二歩。
三歩——
二人の歩幅は寸分の狂いもなく重なり、この頃にはどちらが導いているのかさえ分からないほど、完璧に同期していた。
《フィニッシュ》
その瞬間、円を描いて繋がっていた光がふわりと上空へ昇り、やがて小さな花火となって夜を彩った。少し遅れて届いた低音が、胸の奥で静かに弾ける。——次の瞬間、街は歓声に包まれた。
「あ、あ……!?」
「どうやら、これでクエストクリア……、みたいね。」
「……そうみたいだね、おめでとう。」
さっきまで降り注いでいた音楽は、最後の一音を境にふっと解けた。切り取られていた言葉は一斉に解放され、世界はようやく本来の音を取り戻した。
「良かったぁ。一時はどうなることかと思ったけど……、」
仮面のせいで表情までは読み取れない。だが、溜息混じりのその視線だけで、おおよその見当はついた。
本当は皮肉のひとつでも言いたかったのだろう。——それでも、不思議と嫌な気はしない。
むしろ気になるのは、胸の奥に残る微かな熱の方だ。
まだ名前もつけられない、その感情が。
——ただ一つ、はっきりしていることがある。
それが彼女のせいだ、ということだけは……。
「まぁ……、最後の方は悪くなかったかな」
そう言って、彼女は歩き出した。
呼び止めるべきか——一瞬、迷う。
だが、
「何してるの? ほら、行くよ」
振り返りもせず、軽く手だけを振る。
「行くって、どこへ?」
「こういうのって大抵、ボーナス——ご褒美みたいなもの、あるでしょ」
言葉よりも先に、体が動いた。
気づけば僕は、その背中を追いかけていた。




