86.エピローグ︰『光へと手を引く者』
十年に一度の祭りも終わり、孤児院に日常が戻ってきた頃。
アレクとグレイスの関係性に恋人という名前がついた。
それでも、二人はこれまでと変わらない、穏やかな時間を過ごしていた。
アレクの前にいる時、グレイスの顔に浮かぶのは、満面の笑顔。
傍から見れば、何一つ問題のない幸福がそこにはあった。
けれど――。
アレクは、気づいてしまった。
グレイスの表情に、ほんのわずかな陰りが差す瞬間があることに。
笑っているのに、どこか遠い。
優しいのに、どこか決定的に踏み込ませない。
まるで、アレクだけが光の中にいて、彼女はその縁に立っているような――そんな感覚。
最初は、考えすぎだと思った。
だが、違った。
アレクは、少しずつ連絡を取るようになっていた元学友たちに、それとなく学園で起こったことを尋ねる。
彼らからの文面には、必ずと言っていいほど、数々の功績を残して卒業したグレイスのことが記されていた。
特待生としての成果。
生徒会での働き。
誰よりも努力家で、誰よりも慕われ、誰よりも結果を出した少女。
だが、グレイスの輝かしい功績と対照的に、別の話題が続いた。
かつては期待されていた王太子。
未来を約束されていた宰相の後継。
誇り高き騎士として称えられていた男。
――そして、三人が崩れていった、その前後のこと。
話を聞くうち、アレクの中で、点と点が一本の線へと繋がっていく。
アレクは、ボロボロになって帰ってきた、あの時のことを思い出す。
三人の話題を聞いた直後から、グレイスの明るさと優しさが、どこか不自然なほどに強くなったこと。
それに、グレイスがこの孤児院を旅立つ前日に告げた、あの言葉。
『大丈夫。私は兄さんのこと、ちゃんと知ってる。だから、きっと取り返すから』
『――アレク兄さんの全部を』
グレイスは言葉通り、アレクの学園での名誉を取り返してくれた。
けれど、もしもそれ以外の目的があったのだとしたら……?
アレクは善人だ。
だが、愚かではない。
長く弱っていたことや、自分のことで精一杯だったこと。
それらが、この結論に至るのを遅らせただけだ。
――アレクは、すべてを理解してしまった。
もしそれが真実なら。
もしグレイスが、自分のために闇に触れたのだとしたら。
彼女の陰りは、彼女自身が与えた罰なのではないか。
だが同時に、アレクは分かっていた。
なぜグレイスが、何も言わなかったのか。
なぜ黙っていたのか。
真実を知れば、今度こそアレクが壊れてしまうかもしれない……。
グレイスがそう思ってもおかしくない。
アレクが壊れてしまえば、彼女のしてきたことは、すべて無意味になる。
それどころか、彼女の心を、さらに傷つける。
たとえグレイスがあの学園で何をしたのだとしても。
彼女が手を下してしまったのは、きっとグレイス自身のためじゃない。
……いや、グレイスのことだ。
きっとそれは、自分のためにしたことだと言い張るだろう。
それでも、根底にあるのは――。
何がどれだけ変わろうとも。
グレイスの優しさも強さも昔のままなのは、知っている。
アレクの知るグレイスは、そういう人間だ。
――学園での出来事を経て、アレクはもう弱いままではいられなかった。
守るべき場所がある。
守るべき人がいる。
ここで、折れるわけにはいかない。
一人で戦っていた時とは違う。
守るもののために、アレクは誰よりも強くなる。
だから、アレクは決めた。
このことには、気づかなかったことにする。
グレイスには、伝えない。
では、自分にできることは何か。
――答えは、ひとつだった。
「アレク兄さん? どうしたの、ぼんやりして。何かお悩み事?」
振り返ると、グレイスが立っていた。
学園から帰ってきた頃よりも長くなった髪をなびかせ、影のかかる薄紫の瞳で、彼女はくすっと笑いながらアレクを見ている。
アレクは彼女の言葉に、柔らかな微笑みを浮かべて首を振る。
「ううん、なんでもないよ。ただこの辺はあったかいから、ひなたぼっこしていただけ」
「アレク兄さんらしいね」
そう言うと、グレイスもアレクの隣に立つ。
すると、目の前の庭から子どもたちの声が響く。
「グレイスー姉! アレク兄ー!」
「早く来てー!」
「一緒に遊ぼうぜ!」
「今日はボール遊びな」
「だめだよ、きょうはおままごとするんだから」
午後の光が庭いっぱいに降り注ぎ、子どもたちが笑顔で二人のことを呼んでいる。
見つめるグレイスの目の中の影が、一際濃くなった気がした。
それを見て、アレクは静かに決意する。
彼女が自分を罰し続けるのなら。
自分が、彼女を許す側になろう。
そして――。
闇に引きずられそうな彼女を、光へ戻す。
どれだけ時間がかかっても、必ず。
アレクは、グレイスの手を取る。
「行こうか、グレイス」
彼女の指先が、一瞬だけ震える。
けれど、アレクは離さなかった。
光の満ちる中庭へ。
子どもたちの笑い声の中へ。
アレクは、彼女を引いて迷いなく歩いていく。
彼自身が、光になると決めたから。
――闇を知った乙女を、もう一度、光の世界へ連れ戻すために。




