85.グレイス編︰終『光の傍で闇を抱いて』
学園を去り、グレイスが孤児院へ戻ってから一年ほどが過ぎた。
彼女はエルミナ地方局員として働きながら、孤児院の手伝いもし、忙しくも充実した日々を送っていた。
アレクもまた、他のシスターや子ども達に支えられながら、新米院長として奮闘している。
そんなある日、エルミナの街は普段よりも活気づいていた。
十年に一度この街で開かれる、大きな祭り。
昼間はたくさんの屋台や店が大通り沿いに所狭しと並び、夜にはエルミナの夜空に花が咲く。
かつてアレクとグレイスが幼い身体を並べ、窓辺から見上げた……あの魔法のような光が打ち上がるのだ。
孤児院も昼は店を出しており、子ども達が手作りした小物はバザーで全て売り切れた。
夜は皆で花火を見る約束になっている。
夕食を終え、子ども達や、遊びに来ていた元院長、シスターの面々と二階へ上がる。
「まだ?」
「もう上がる?」
「わたし、はなびってみるのはじめて!」
「すんげぇキレイんだろう!?」
そんな、そわそわした声が飛び交う中、誰かがそっとグレイスの腕を引いた。
「どうしたの? アレク兄さん」
「……少しいいかな。ちょっとだけ、グレイスと話をしたくて」
月に照らされたアレクの頬が、わずかに赤い。
と、ここで子ども達が声を上げる。
「あっ! アレク兄がグレイス姉をひとりじめしようとしてるー!」
「あれじゃない? きっと告白だよ。だってさっき帰りに花買ってたし……」
「うん、花屋のお兄さんに、好きな子に渡すんだって言ってたもんね」
「あの後ろに持ってるのそうじゃねぇか!?」
子ども達の声は一気に騒がしさを増していく。
「っ、ちょ、な、なんでみんな……っていうか、僕が花買ってたところ見てたの!?」
アレクが慌てふためいたように、目を白黒させながら子ども達に顔を向ける。
グレイスはそんなアレクを見つめ、嬉しいと同時に、胸が締め付けられる。
いつか、こんな日が来るかもしれないと、覚悟はしていた。
その時が来たらどうするべきか、ずっと考え、けれど答えは出ている。
「ええと、アレク兄さん……?」
グレイスが戸惑いがちに声を出すと、隣の部屋を指さす。
アレクが赤い顔で頷き、二人で並んで退出する後ろから、子ども達の歓声と大人達の柔らかい視線が降ってくる。
「がんばってねーアレク兄ちゃん!」
「フラれたら慰めてやっから!」
「そうそう、美味しいクッキーも焼いてあげるね!」
「なんで君達は僕がフラれること前提なのかな!?」
そんな彼らに半分泣きそうな声でそう返しながら、扉を閉め、隣の部屋へ入る。
閉めた扉の向こうからは、まだざわめきが聞こえる。
けれど、二人きりになった部屋の空気は、少し涼しく、どこか胸に触れるように静かだった。
薄暗い部屋の窓からは、夜風が静かに流れ込み、遠くの祭りの灯りが揺れている。
アレクは何も言わず、けれど何か言いたげに唇を軽く噛む。
グレイスはそんな彼を黙って見つめる。
やがて――二人の静寂を切り裂くような音とともに、空が震えた。
ドン、と低い音を上げながら、花火が夜に咲く。
光の破片が窓から差し込み、二人の頬に淡い色を落とす。
アレクはその光を浴びながら、ほんの少し息を整えるように沈黙し、やがて意を決したように口を開いた。
「グレイス。僕は……ずっと君に、言いたかったことがあるんだ」
アレクは窓の外の花火を一度見て、そしてグレイスを見つめた。
「君にとって、僕は兄のような存在かもしれない。けど……」
その言葉を切るように、アレクは後ろ手に隠していた、小さな花束を胸の前に取り出した。
白い、細い花弁。
控えめに香る、静かな香り。
「これって、スズラン……?」
グレイスの呟きに、アレクは頷く。
そしてグレイス自身を青の瞳に映し、顔を赤らめながらもまっすぐに言った。
「グレイス……僕はずっと君のことが好きだった」
静かに、まるで自分の鼓動さえ押し殺すように言葉を紡ぐ。
「学園を卒業したら、この気持ちを伝えるつもりだった。だけど僕は半年で退学しちゃって……。こんな僕じゃ、グレイスに好きだって伝えちゃいけないと思った。でも、僕は少しずつ、戻れた。完全に前の僕ってわけにはいかないけど、それでも今僕は、君の隣にいても恥じないような自分になれたって思ってる」
ここでアレクははにかみながら笑い、グレイスの前にスズランの花束を差し出す。
「これの花言葉……『再び幸せが訪れる』。僕が君と一緒に過ごす時間は昔からずっと、幸せそのものだったんだ。僕は君とこれからも、幸せな時間を刻んでいきたい」
打ち上げられた花火の光が、二人を包む。
赤、青、金、白――瞬きのたびにアレクの表情が違って見える。
「だからグレイス。これから僕と、一緒に生きていってほしい」
優しすぎる声。
痛いほどの温度。
花火の光とともに、アレクのまっすぐな光が胸に突き刺さる。
何も知らないままでいれば、闇に染まる前であれば、純粋に喜べていた言葉。
けれど今のグレイスは、もうあの頃の彼女ではない。
ルキアの光を折り、セヴランに心を与えて壊し、ロアンの生きる方向を捻じ曲げた。
アレクを信じきれず、彼を壊れた存在として扱った。
罪は、消えていない。
許されもしない。
誰かを地獄に落として得る幸福に、価値などあるはずがない。
アレクは何も知らないのだ。
グレイスが復讐者として歩いた地獄も、三人が闇に落ちた理由も。
だからこそ、その言葉は光そのもので、今のグレイスには眩しすぎた。
グレイスは、幸せを選ぶことは許されないから。
だが、アレクを幸せにすることは、グレイスの『義務』でもある。
彼の幸せを――光を守ることが、今のグレイスにできる、アレクへの『償い』。
だから。
「……うん、アレク兄さん」
グレイスは震える指で、差し出されたその花を取った。
「私……アレク兄さんを、必ず幸せにするからね」
心の奥で別の言葉を呟く。
――これは私の責任。
――私の罪の代償だと。
そんなグレイスには気づかず、アレクは満ち足りた微笑みを浮かべ、温かい手のひらで彼女の手を包む。
「違うよグレイス。一緒に幸せになるんだ。二人で」
幸せな言葉だった。
それなのに、どうしようもなく苦かった。
花火が一段と高く咲く。
その光に照らされながら、アレクがそっと顔を寄せた。
アレクの未来だけは守る。
どんな闇が待っていようと、必ず。
だがアレクがいなくなったその先は。
――私は、本当の闇へと落ちていく。
その覚悟を胸に、グレイスはそっと目を閉じた。
唇が触れ合い、世界の音が遠くなる。
最後の花火が消えた夜空には、もう光はない。
けれどグレイスの胸の奥では、別の決意が静かに燃えていた。
復讐者の物語は終わった。
だが罪は、終わらない。
闇に堕ちた乙女は、光を守るために生きる道を選ぶ。
――そしていつか訪れる未来の罰を見つめながら、グレイスはアレクの手を強く、強く握り返した。




