84.未来の手前で
グレイスが子ども達を寝室へ送り届けると、孤児院にはようやく静寂が戻ってきた。
けれどその静けさの中で、一カ所だけぽつりと明かりが灯っている。
グレイスはその光につられるように足を運ぶ。
祭りの後のように、温かい余韻だけを残した食堂は、まだところどころに食べこぼしや水滴が散らばっている。
そこでアレクが一人、床に落ちたパン屑を拾いながら、やれやれと言いたげにと小さく笑っていた。
「……ほんと、みんないつまでも元気だなあ。片付けたって言ってるのに、絶対どこか汚れてるよね」
その背に、グレイスはそっと声をかけた。
「手伝うよ、アレク兄さん」
振り向いたアレクは一瞬驚いたように目を丸くし、それからすぐ柔らかく眉を下げた。
「グレイス、今日はもう疲れてるだろう? 長旅だったんだし……休んでもいいのに」
「大丈夫。二人でしたほうが早く終わるでしょう?」
グレイスがモップと布巾を持つと、アレクは観念したように笑って肩をすくめた。
「……そうだね。じゃあ、お願いするよ」
二人で隣り合ってテーブルを拭いていると、不思議と昔に戻ったような気がした。
一つのテーブルに二人並び、どれだけ忙しくても一緒に食べた、幼い日の記憶。
けれど、あの日にはなかった影が、グレイスの胸には深く沈殿している。
「ねえ、グレイス」
先に口を開いたのは、アレクだった。
「王都……学園は、どうだった?」
「うん……楽しかったよ」
嘘ではない。
けれど全部でもない。
「友達もできたし、アレク兄さんみたいに生徒会にも入って……その仕事も、色んな人が助けてくれたよ」
「そっか。……グレイスなら、きっとそうなると思ってた」
アレクは、何の疑いもなく信じてくれている。
あの光に満ちた世界の裏側で、グレイスが闇を歩いたことを知らないまま。
「それに……アレク兄さんの痕跡も、残ってたよ」
「え?」
「役員の仕事の仕組みとか、効率化のノートとか。みんな、アレクって人が作ったんじゃないかって話していて。ちゃんと皆、アレク兄さんがすごいって認めてくれたんだよ」
アレクの動きが止まる。
「……やっぱり君があの学園に行ったのは、僕のためもあったんだね」
そしてアレクは静かに微笑んだ。
「君が学園に行く前に言っていた言葉――僕を一緒に連れて行く、取り返すって。あの意味をずっと考えてた」
「覚えてたんだ……」
「そりゃそうだよ。あんな意味深な言葉を残されたささ。……それでね、君が行ってから一年くらいかな。学園で一緒だった子から手紙が届くようになったんだ」
「え?」
グレイスの口から小さく驚きの声が上がる。
「手紙には、なんて?」
「学園の近況とかかな。だけど皆必ず、『あの時助けられなくてごめん』って言葉を入れていたんだ。声をかけてくれた彼らに、全部一人でできるからって言って断ったのは僕の方なのに」
罪悪感を覚えていたかつての学友が――アレクに心を砕いてくれた人達がいたことに、グレイスの心に火が灯る。
しかしアレクの顔にわずかに影が差す。
「けど一番驚いたのは、ルキア様達の評価がもう昔とは違うんだって知ったことかな。……三人とも、あんなことになっちゃうなんて思いもしなかった」
その言葉に、グレイスはそっと呼吸を止める。
罪を知らぬ者の、まっすぐな痛み。
けれどアレクは続ける。
「でもね……」
視線はどこか遠く、けれど表情は柔らかかった。
「僕にとっては、すごい人達だったんだよ。半年だけでも一緒にいられて、嬉しかったんだ。ルキア様も、セヴラン様も、ロアン様も……みんな優しい人だった。あの頃は、本当にそう思ってた」
アレクの言葉を聞きながら、グレイスはゆっくりと頷いた。
「……うん。私も、そう思ってたよ。きっと優しくて、立派な人たちなんだろうなって」
嘘ではない。
もしボロボロになったアレクを目にしなければ、救済の乙女となりえたグレイスは、そう思いながら彼らに寄り添っていたのだろう。
「実際最初の頃は……私にも優しくしてくれたし。誰だって、最初はそう見えるものだよね」
「そうだね。……僕も、友人からロアン様があんな暴力沙汰を起こしたって聞いた時は、本当に驚いたよ。あの人は、誰かに手を上げるような人じゃないと思ってたから」
「……うん。私も、信じられなかった」
グレイスも同意するように頷く。
ロアンが手を出した件は公にはされていないとはいえ、皆知っている。
だが、誰に手を出したか、その名前を学園の生徒達は伏せてくれている。
だからこそ、アレクもグレイスの身に起こったことを知らない。
それでも、アレクは優しさの滲む声を漏らす。
「その、ロアン様に怪我をさせられたって生徒、後遺症とか残っていないといいんだけど」
見ず知らずの人間にさえ向けられる彼の優しさに、胸が締め付けられる。
だから彼の心を軽くする意味で、グレイスは答えた。
「っ、大丈夫だよ! 名前は、言えないけど、その子もう元気になってるから!」
「そっか。それならいいんだ。だけど、グレイス。君が僕のように潰れなくて、本当に良かった」
そう言うと、アレクは安心したように微笑んだ。
彼の目には、グレイスが何かを壊した影など、欠片も映っていないことだろう。
――どこまでも善良なアレクに、グレイスの胸が痛む。
同時に、アレクが過去を語れるほど回復していることに深く救われた。
ふと気づくと、アレクが掃除の手を止め、グレイスの瞳を静かに見つめていた。
「どうしたの? アレク兄さん、そんなに見られると照れちゃうよ」
まっすぐな彼の視線に、羞恥心から頬を指で掻くグレイス。
けれどアレクは真剣な顔で言った。
「……ねえ、グレイス」
「なに?」
「君は……本当に良かったの?」
「何が?」
「グレイスの未来だよ。王都に残らなくてよかったの? 君ならきっとたくさん声がかかったでしょう」
「うん、まあ、そう、だね。確かに色んな誘いがあったけど……」
ここでグレイスは一度言葉を切ると、明るい声で本心を伝えた。
「私はずっと、ここに戻るって決めてたから! エルミナ地方局も、お給料がいいしね。それを孤児院に入れたい。少しでもこの孤児院に恩返しがしたいんだ。私とアレク兄さんが育った、この場所に」
そう言うと、アレクはふっと笑った。
「君らしいなあ。……本当に、昔から変わらない。じゃあ、これからもよろしくね、グレイス」
「こちらこそ。料理の方は私にも任せて! どっかの誰かさんみたいに、黒焦げのパンなんて絶対に焼かない自信あるから」
「言っておくけど最近は焦げ目も大分減ってきたんだからね!? ……ギリギリ食べられるくらいには」
「それダメじゃん!」
そう言ってグレイスとアレクは笑う。
テーブルを拭くグレイスの手に、アレクの手が重なる。
温かくて、安心できて、泣きたくなるような温度。
グレイスはその感情を隠して、昔のままのグレイスとしてそっと微笑んだ。




