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【1990年8月下旬】


【1990年8月下旬】


 龍栖神社の鳥居近くの外周部に、「こもれび食堂」と「猫ハウス」のプレハブ二棟が設置された。がっちりとした建物の方も、契約を済ませて既に整地が進んでいる。


 こもれび食堂の方のプレハブの中を覗くと、簡素な机と長椅子が並べられていた。


 大きな鍋が置けるようにと、簡易のガス台も設置されている。床はまだ新しい合板の匂いが残っていて、窓を開けると夏の終わりの湿った空気が入り込んできた。


「ここでご飯を出すんですね」


 少し遠慮がちに言ったのは、桜庭梨乃さんである。


「最初は週一回の予定だったっけ?」


 俺が答えると、彼女は小さく頷いた。


「何人くらい来そうかな?」


「わかりません。これまでの感覚からすると、最大で十人くらいでしょうか」


 建物の広さからすれば十人は多くないようにも感じるが、実際に炊き出しをするとなれば、それでもそこそこの準備が必要になる。ばあちゃんはもう献立のことを考え始めているらしく、米の仕入れやら鍋のサイズやら、細かい話をしていた。近隣の農家から、差し入れしようかとの打診も届いている。


 桜庭さんは机の表面を指でなぞりながら、ふっと笑った。


「……なんだか、学校みたいですね」


「学校?」


「はい。理科室か、家庭科室みたいです」


 言われてみれば、確かにそんな雰囲気もある。長机が並ぶ配置だけに、ここに子どもたちが座る光景を想像すると、理科の実験か裁縫の授業でも始まりそうでもあった。


 猫ハウスの中には、キャットタワー替わりの幾つかの木箱と、椅子や座布団などが置かれていた。


 放たれたミケは迷いもなくその中へ入り込み、子猫たちもあとに続く。


「初見なのに、完全に自分の家だと思ってるな」


「まあ、実際にここはシャルロットの邸宅ですから」


 エルリアは澄まし顔だが、やや浮き立った印象もある。俺がミケと呼び、エルリアがシャルロットと呼ぶ三毛猫は、一家の長としてこの地に君臨するのだろう。


 子猫たちはまだ歩き方が少しぎこちない。木箱の縁に上がっては降り、座布団の上でじゃれ合ってもいる。ミケはそれを気にも留めず、悠然と丸くなった。


「子どもたちも、あっさりと馴染んでるみたいだね」


「使い慣れている座布団を持ち込んだのがよかったのかもしれません」


 そう口にした桜庭さんは、じゃれついてきたアマナツをしゃがんで撫で始めた。


 この猫ハウスは、思いつきで作ったわけではない。ミケとその子どもたちと暮らす以上は、きちんと居場所を用意するべきだという話になった結果だ。最終的には、完全な内猫とする予定である。


 人間側の思惑を知ってか知らずか、ミケとその家族の振る舞いによって、この場は思った以上に「家」らしく見えていた。


 


 建物の外に出ると、通りから子どもが二人ほどこちらを覗いていた。


「もう来てる」


 笑ったのは紗良ちゃんだった。まだ中学生のこの少女は、美羽ちゃんとともに事実上のスタッフ的な立ち位置となっている。


「初顔かな?」


「だと思います」


 それほど告知をしたわけではないのだが、建設の過程で近所の目を引いていたのかもしれない。プレハブが二棟並び、境内に人が出入りしていれば、近所の子どもが気にするのも無理はない。


 二人はこちらの視線に気づくと、少し慌てたように走り去っていった。


「逃げられちゃいましたね」


「まあ、そのうち来るだろ」


 紗良ちゃんは、どこか嬉しそうだった。彼女自身、ここでの子どもたちとの交流を楽しみにしているらしい。


 


 敷地の外縁部に立ったエルリアに近づく。


「いよいよ、ここでの活動が始まるのですね。かつての人生を思い出します」


 周囲に人はいないが、俺は少し声を低めた。


「公爵令嬢だったんだよな? その立場で、なにか事業なり活動なりしていたのか?」


「そうですね……。わたくしとしては、有意義なことだと考えていたのですが、実際には有力者の権益を侵していたようです。それが、断罪の遠因となったのでしょう」


「そうか、苦労したんだな」


「過ぎたことです。……この活動は、何者かの領分を侵しているでしょうか?」


 警戒心が浮かぶと、端正な顔立ちがやや冷たい印象を帯びる。


「いや、おそらく問題ないだろう。強いて挙げれば、こもれび食堂の活動が市民派的な人たちの活動と方向性が被るかもしれないが、競い合う形にはならないと思う」


「そうですね。他の方々が同じ活動をするのなら、大歓迎ですし」


 実際には、補助金やら活動実績やらの角度から、衝突することはありうる。ただ、いわゆる子ども食堂が話題になるのは、だいぶ先の年代のはずだ。今のところは、おそらく問題ないだろう。


 境内には、まだ夏の蝉の声が残っていた。敷地の外にある通りを、買い物帰りらしいご婦人がゆっくり歩いていく。普段と変わらない景色の中に、プレハブだけが少し場違いに浮いて見えた。


 エルリアがこもれび食堂に向かうと、少し離れたところでプレハブを眺めていた忠司さん……、鳴海忠司氏が近づいてきた。元々は任侠組織である創始会からお目付け役的に送り込まれてきた人物だが、今では相談役的な立場に転じている。


「しかし、神社の境内に食堂と猫屋敷とは」


「変かな?」


「いや」


 忠司さんは肩をすくめた。


「面白いと思いますぜ。坊っちゃんも、金の使い方がわかってこられましたかな」


 悪戯っぽい笑みを向けてくるが、俺は首を振るしかない。


「いや、金の使い方は引き続き、さっぱりわからないよ」


「まあ、現状が資産のピークではないのでしたら、ゆっくり進めましょうや」


「だね。……武蔵信金はなにか言ってきている?」


「事業展開の照会が来ていますね。どうも、株式投資だけでは厳しい、との話になってきたようですぜ」


「まあ、下落してるもんなあ」


 昨年の大納会で3万8千円台だった株価は、2万5千円近辺となっていて、4割近い下落となっている。


 世の投資家も、バブル前から持っていた人達は、上昇分が下がっただけとなるはずだ。ただ、上昇し続けると考えてしまって、信用取引も含めた買い足しを続けている場合も多いだろう。


 さらに、今年四月から導入された不動産融資の総量規制によって、土地価格の下落も始まっている。沢渡商会としては、売るつもりのない龍栖神社の地価が落ち着くわけで、必ずしも悪い話でもない。


「事業と言ってもなあ。通販は、まだ形になっていないし」


「猫ハウスとやらは、入場料は取らないのですかい?」


「うーん、神社の付帯施設扱いにして参拝料みたいにしようか、って案はあるんだけど、固まってない。……でも、無理に事業計画を作るより、満額返しちゃった方が早い気もするな」


「あちらとしては、痛し痒しでしょうな。資金は必要でも、金利収入も欲しい」


「ふむ……」


「今後の投資方針としては、アメリカ株集中ですかな」


「そうなるね。健吾が選定してくれてるけど、シスコは上場当初から、あとはデル、インテル、マイクロソフトが中心だね」


「不動産は、当面は扱わないということでよろしいんですか?」


「激しく下落してからじゃないとね。その後の状況はどうかな?」


「まだ、値は崩れていませんが、動きは明らかに鈍くなってますな。だもんで、逆に下がってもいない状態です」


「創始会としては、無事に売り抜けられた?」


「ええ、おかげさまで。一方で、今の値でも確保しておきたいところだけは持っています。駅近の隙間区画や、拠点向け程度ですか。しばらくは、うちも健吾経由でアメリカ株に乗らせていただく予定です」


 かつて、忠司さんから、俺の行く道を問われたことがあった。一方の創始会は、何を目指すのだろう? もう、植田市を拠点にしていた地場の任侠だった頃とは、収益構造ががらりと変わっていそうだ。


 ……ただ、彼らが俺に質問するのと、逆では意味がまるで違う。立ち入るべきではないのだろう。


 アメリカの景気について話していると、エルリアと桜庭さん、紗良ちゃん美羽ちゃんが、キャリーケースでミケとその子どもたちを連れてきた。


「ミケ一族の血統管理はどうしようなあ」


 猫の繁殖力は高いので、栄養状況が良好で多頭飼いとなると、際限なく増えていくだろう。血が濃くなるのを回避していく必要がある。


「野良と違って、自然に任せるわけにはいかない、ということですか」


「そうなんだよ。久世か結菜に、工農大の農学部方面に家畜交配のアドバイスをもらえないか、頼んでみるかな」


 ただ、まだ学部生であるからには、工学系と農学系の交流は限定的なはずで、すぐには難しいかもしれない。


 なんにしても、ミケとその子らには幸せに暮らしてほしいものだ。


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