【1987年1月】
冬の空は澄みきっていて、風は冷たく、吐いた息が白く煙る。そんな朝、久しぶりに夏目健吾の姿を見かけた。薄手のコートを羽織って、書店の前で経済誌を立ち読みしているようだ。吐く息を白く散らしながらページを繰る様子には落ち着いた印象があり、横顔からも迷いのない表情に見える。
さらに接近した俺に気づくと、小さく手を振った。
「よう、沢渡。ひさしぶりだな」
「あけましておめでとう。……調子はどうかな?」
すると、彼は肩をすくめて、曖昧な笑みを浮かべた。
「受験は、一応はするけど、行く気はないよ」
「そうなんだ」
「ああ。帝大なんてくそくらえだ。俺は親父のコピーになるために生まれてきたんじゃない」
夏目兄弟の父親は、強烈な帝都大学至上主義らしい。さすがに、違和感が強く感じられる。
「聞いてもいいのかな。お父さんは、どうして帝大にこだわっているんだろう」
「夏目家に生まれたからには帝大に行って当然だ、だとさ。確かに、祖父の代から、幾人か入っているんだが」
「何のためなんだろう? 官僚支配に参画するためとかかな」
「父親は銀行勤めさ。帝大出て、銀行に就職とかはゴメンだ。俺には、数字より人の顔色ばかり見てる職場にしか見えなくてな」
「帝大じゃないなら……、私大? それとも海外へ?」
「シンガポールの大学への進学を考えている」
「シンガポール?」
「ああ。英語圏で、制度もしっかりしてて、伸びしろもある。バイトでとりあえずの学費は確保できているが、できれば奨学金も確保したい。あちらは、わりと選択肢があるみたいでな」
「なるほどねえ……。見事な選択だと思う。シンガポールの新年度は、九月からになるのかな? できれば、その前に投資絡みで一仕事を頼めれば、学費の一助になるかなと思うんだけど」
「シンガポールは一月からだな。……投資話の頭出しは、短期戦になるって話だよな」
「うん、春までに一勝負。そこから二の矢への仕込みまでが、最初のターンかな」
「そこは、しっかりやらせてもらうよ。その後は、また相談させてもらおう」
年の始めに、それぞれの進む道が動き出しそうだった。本屋のカウンターから咳払いが聞こえてきて、夏目は苦笑を浮かべて読んでいた雑誌を店内へと持っていった。
冷たい外気を纏って玄関に入ると、餅の焼けるいい匂いが漂っていた。
「ただいま。お雑煮かな?」
「ええ。悠真風のだし重ねを食べ比べしているのよ。おすましだと、よりはっきりわかるかと思って」
俺風のだし重ねというのは、俺が前世の最後の頃によくやっていた、リケンの顆粒のコンブだし、カツオだしに鶏ガラスープを混ぜる、簡易的な味付けである。カツオだしには椎茸だしが、鶏ガラスープには塩分が入っているので、これだけでもいい味のスープになる。ここに野菜を煮込んだだしや、豚肉などが入れば、さらにだしの相乗効果が高まる。
「ばあちゃんのだしでやるなら、絶品になりそうだな。アゴだしもいいかもね」
「アゴもいいわねえ」
アゴとはトビウオのことで、焼いた干物を水につけて、濃厚ながらすっきりとした味わいのだしとなる。……これはどこで得た知識だったか。前世の母親が、どこからか送られてきた干物で作っていたような気がする。けれど、その場の景色や空気感は、もう思い出せない。その容姿も、今生の母親と混ざりつつあるようだった。
記憶はいつの間にか輪郭を失っていて、香りや味だけが小さな断片として残っている。それもまた、俺が受け継いだものではあるわけだが。
「コンブがグルタミンで、カツオがイノシン酸だったかな。キノコも別系統で、あとはホタテとかの貝系のだしもいいかも」
「貝もいいわね。いただいた貝柱の干したものがあったから、試してみましょう」
ばあちゃんが楽しげでいてくれるのは、よろこばしいことである。
「最近は、エルちゃんもだしにこだわるようになってきているのよ」
「そうなんだ」
「カツオだしが好きみたいだから、アゴだしもきっと気にいるわね」
そう言っているうちに、台所からいい香りが漂ってきていた。




