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【1985年1月】


 俺が転生したのは、長野県の植田市だった。未婚の母親はホステスで、父親は服役中のヤクザらしい。……まあ、複雑な家庭環境ってやつだ。


 事実上の育児放棄状態だったが、赤子時代を生き延びられたのは幸運だった。まあ、発育不良であるのが露見して、病院に担ぎ込まれて入院したからなんだけれども。前世でも、似たような流れで児童養護施設に入っていたので、驚きもしなかった。


 放棄され気味だったとはいえ、たまに家に寄った時には食費を置いていってくれただけでも、ありがたい状態だった。なにしろ、前世では一人暮らし歴三十年超のベテランだった俺である。手が自由に動くようになれば、身の回りのことを整えるくらいは造作もなかった。


 そして、母親である沢渡香澄は、ボロアパートの一室である我が家に戻らない日も多かったが、久しぶりに戻ってきた際には多めの紙幣を置くだけの分別はある人物だった。


 月に三万円近くが入手できれば、給食費を出した状態でも、成長期の肉体を維持するための食事は充分に確保できた。たまに男を家に連れ込むのにはやや閉口したが、その際には追加の紙幣を渡して追い出してくれるので、逆に助かる面もあった。


 学校の勉強は、二周目だけに問題なくやり過ごした。小学校で満点を取っていても、必ずしも目立つわけでもない。転生した当初は、世直しをせねばと意気込んだものだったが、今世でもまずは生存することに注力する流れとなった。


 中学生になると、周囲と比べてのみすぼらしさは際立って、いじめ的な言動を受ける場面も出てきた。なけなしの資金は、食事や生活必需品に振り向けている。


 前世の職場で疎外されるのに慣れっこになっていた俺には特に響かなかったが、それが同級生には不気味に映ったらしい。仲良しごっこをしたいわけでもないが、まったく傷つかなかったと言ったら嘘にはなる。


 そんな俺の心の安らぎは、「中島みゆきのオールナイトヤマト」を聴くことだった。月曜の深夜に放送されるそのラジオ番組は、少し鼻にかかった声で紡がれる、軽妙ながらやや深い話もある良質なエンタメである。そこに「わかれうた」やら「悪女」やらがかかるのだから、なかなかにぶっ飛んだ番組だった。前世で、知人に思い出話を聞かされていたのだが、聞きしに勝るとはこのことである。


 年越しから正月にかけて、母親は帰ってこなかったので、海老一染之助・染太郎師匠の芸の堪能など、堕落そのものの生活を満喫して、その締めが今年一発目のオールナイトニッポンである。期待に胸を高鳴らせていて、ようやく鼻にかかった声音がラジオから流れ出したのだが、そこで外からどんがらがっしゃん、的な音が聞こえてきた。


 恐る恐る扉を開けて外に出てみると、粉雪が舞い散る暗い階段の中腹に、ややふくよかな女性が倒れていた。


「クラリッサだよね。おーい、起きてー」


 半纏を着て近寄ると、ぞんざいに揺さぶってみる。どうやら、酔っているようである。


「マジかよ……。しょうがないなあ、ほら」


 腕を取って肩に回すと、酒臭い息が俺の横顔に襲いかかってきた。それでも、そこは陽気なフィリピーナで、なにかを歌いながら立ち上がってくれる。そうでなければ、体重差的に対処は難しかったろう。


 不用心なことに、このアパートで鍵をかけている部屋は少数派である。彼女の部屋の玄関に導いて、台所方面に転がすと、あっさりと寝息を立て始めた。


 これで、ラジオの世界へと戻れるなと思ったら、薄暗闇の中に浮かび上がる人影があった。びくっとしてしまったが、幽霊でも座敷わらしでもなく、クラリッサの娘さんであるようだ。確か、来年から小学生に上がる子がいると聞いたような気がする。


「えーと、誰ちゃんだったかな。まだ起きていたのかい。良い子は寝る時間だよ。あー、ふわっつ、よあ、ねーむ?」


「……エレナ」


 お腹を押さえているので、痛いのかいと問おうとしたところで、彼女の腹の虫が返事をした。てへへと笑っているさまは可愛らしい。これまで交流はなかったが、この時間まで腹を空かせているのはきついだろう。ましてや、待たれていたらしい母親は盛大ないびきをかいている。


 俺は同じ年頃には自炊をしていたが、それは前世の経験があってこその話である。まして、クラリッサが料理を伝授しているとも思えない。


 部屋に戻ると、ラジオを聞きながら手早くおにぎりを作った。そして、明日の朝に回すつもりだった豚ひき肉とほうれん草の炒め物の小鉢と共に、腹を空かせたご近所さんのところに持っていった。


 それだけで帰ろうとしたら、袖を掴まれてしまう。乗りかかった船ではあるので、彼女が食事を終えて、布団に入るのを見届けてから部屋に戻ったのだった。善行を積んで自室に戻ると、ラジオからはご褒美とばかりに「狼になりたい」が流れていた。俺は、少しだけ満ち足りた気分を味わっていた。




 クラリッサも我がご母堂と同様に育児放棄気味であるようなので、俺はエレナ嬢と食事をご一緒する機会が増えていた。自炊をするとなれば、一人分も二人分も手間としてはたいして違いはない。食材がさみしくなったのは確かだが、俺は給食で栄養が補給できる。そう考えてエレナの食事の盛りを多めにすると、首を振って「ゆうま、イート」とおかずを俺の皿に入れてくるのである。いい子である。


 幼稚園に行っているはずもないが、四月から小学校となると、事前準備はしておいた方がいい。俺は、時間を見つけて日本語を教えるようにしていた。


 たまにクラリッサとうちの母親が早めに帰ると、エレナの頼みで一緒に食事をする場面もあった。


 母親と俺は、もう何年も一緒に食事を摂ることなどなかったのだが、異国の血を引く少女は賑やかな食事が好きらしい。それを拒絶しなかったのは、面倒だったからかもしれない。ただ、不思議と居心地の悪さは感じなかった。日本語でなにか歌ってとせがまれた我がご母堂が小声で口ずさんだのは、「わかれうた」だった。いや、その選曲はマジでどうなんだ。


 そんな、少し緩んだような状況が一変したのは、もうひとりの家族の登場によってだった。


 母親から伊藤博文のポートレート……、千円札を二枚渡されて、細切れの牛肉を買って来てエレナ嬢と豪遊的な食事を済ませたところで、なにやら怒鳴り声と激しい音が聞こえてきた。


 なにごとだろうとは思ったものの、俺にとってのその時点での第一優先は、驚いて泣き出したエレナ嬢への対応だった。


 やがてサイレンを鳴らしたパトカーがやってきて、俺の母親が睦み合っていた相手と共に半殺しにされたとの事情が判明した。下手人は、苗字の異なる我がご父君である。


 一通りの騒ぎが落着して、顔を腫らした母親が帰ってきたが、その状態では仕事に出られない。ふて寝をしている分には邪魔とはならず、腹も殴られているらしいのでおかゆをお供えしていると、回復したのか二、三日で出ていった。


 そのまま母親が帰らなくなったので、「あ、これは、いずれなにかで状況が露見して養護施設行きのルートかな。ただ、エレナ嬢が小学校に慣れるまではここで暮らしたいな」などと思っていたのだが……。


 やってきたのは、黒いコートに身を包んだ総髪の、妙な迫力のある人物だった。創始会という任侠組織の長だそうだ。父親の所属先で、植田の地場組織らしい。


 不都合はないかと問われたので、特に思い当たらないけれど、このままだと施設に放り込まれるかも、と相談してみる。


 一緒に来るかとの誘いは、それはそれでありがたい話なのだろう。けれど、任侠の世界に入ってしまえば、諦めかけた世直しが、いよいよ遠くの世界へ行ってしまう。そう考えて逡巡していると、いつでも来いと言ってくれた。いい人である。たぶん。


 それから、しばらく中学生としての日常を過ごしていると、不意に母親が現れた。すぐに荷造りをしろと求められた俺は、身の回りの荷物をまとめたところで、車に放り込まれた。エレナ向けに、すぐに食べられるものを机に並べたのが、俺にできた精一杯だった、


 カーブのたびにタイヤが小さく悲鳴を上げる状態で、ぞんざいな説明が行われた。東京に母親の実家があって、祖母の介護を手伝うように、との話だった。俺に選択権はないらしい。


 東京のどこかと聞いたら、小金井だそうだ。都下の、中央線沿いにある土地だったはずで、未来知識からは開かずの踏切やらゴミ問題やらのワードが思い浮かぶ。前世では小田急沿線住みだった俺からすると、同じ都下……、東京の二十三区外でありながらやや遠く感じられる。


 生まれ育った植田市にさほどの愛着はないものの、エレナ嬢に別れのあいさつができなかったのは残念だった。まあ、こんなこともあろうかと、自炊の手ほどきはしておいたので、どうにか生き延びてくれるだろう。そのうち、いきなりいなくなるかもとも伝えてある。


 俺の胸中にずっとへばりついている諦念は、引き続き剥がしづらい状態のようだった。


 滑るように走る車の窓から、通っていた中学校の校舎が見えた。二年近く通ったわけだが、特に思い浮かぶ顔もない。それは、前世の中学でも同様だった。


 車内を沈黙がたゆたうなかで、俺の脳裏では先日の母親による小声での「わかれうた」がリピート再生されていた。



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― 新着の感想 ―
あら。県は違えど、転生前の年代も近く(自分は氷河期最期辺りの生まれ)、転生後の環境もほぼ同じだわ。これは面白くなってきた。
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