【1985年8月】
羽田から大阪へ向かって飛行中に消息を絶ったジャンボジェット機が、群馬の御巣鷹山に墜落しているのが発見されたのは、前世での記憶の通りだった。テレビからは沈痛な声音でニュースが流れてきていた。
坂本九さんや阪神タイガースの球団社長が搭乗していた点も、奇跡的に救助された生存者の人数にも違いはないようだ。
日時や便名をはっきりと記憶していたわけではなかったが、たとえ覚えていたとしても、この事故を止めることは不可能だっただろう。警告しても、爆破予告をしても、いっそハイジャックでもしない限り、誰にも信じてはもらえなかっただろう。そしてそれは、女神によって申し渡された禁則事項に触れることになる。
……俺はこれからも、犯罪や災害で人が死ぬとわかっていても、黙って見ているしかないわけだ。
記憶通りに発生するからには、前世で痛ましく思っていたのとは別のきつさが胸には生じることになる。
過去を知る俺は、記憶通りに起こる事象と、どう折り合いをつければいいのだろう。もちろん、喜ばしい事柄もあるわけで、記憶している事象がそのまま現実化するのを一概に否定的に捉えるつもりはない。だが、場合によっては防止できる被害を、そのまま許容しなくてはならないのは、正直なところ心苦しい。
禁則をすり抜ける形で手掛けられる対策としては……、近場限定ではあるが、防犯パトロールなどを組織するのも一つの手かもしれない。形さえ整えられれば、他の地域に広がっていく可能性もある。
ただ、それで防げる事件は、限定されるかもしれない。さらに、本来の被害が防止できても、より露見しづらい場所での被害に変化するのかもしれない。考えていく必要があるだろう。
一方で、そういった被害に心を痛めている現状は、生活に少し余裕がでてきたというのもあるのかもしれない。植田時代には日々を生きていくのに精一杯で、犯罪や災害に気が回らなかったのも確かである。
なんにしても、自分がなにをしていくべきなのかは、考えていかなくてはならない。
縁側に寝転がり、庭の樹を見上げているうちに、意識がやや低下してきた。訪れたまどろみは、軽やかな気配によって破られた。ミケかと思って目を向けると、視界に入ってきたのは鮮やかな模様の着物の裾だった。
金の巻き毛が、蒼い空を背景にふわりと揺れる。
「エルリア……?」
声をかけると、彼女は少しだけ視線を外して、照れたように頬を膨らせた。
「……トミさんに、着せていただきましたの。わたくしの装い、おかしくはありませんか?」
言葉とは裏腹に、わずかに肩がすぼまっている。慣れない服に、自信が持てないのだろう。
「いや……、すごく似合っていると思う」
驚くほど自然に口をついて出た言葉だった。金髪の巻き毛と、浴衣のやさしい藍色が、思いのほか調和している。
「エルちゃん、待ってってば。……だめよ、殿方の頭の近くに立っては」
ばあちゃんが廊下の端から顔を出し、少し慌てた調子で声をかけてくる。エルリアはきょとんとしながらも、半歩後ろに下がった。確かに、あまり好ましい構図ではない。
「お祭りでもあるの?」
「ええ。ちょっと離れたとこで、盆踊りをやってるみたいなの。悠真も行くでしょ?」
痛ましい事故の影響もあって、気分は沈んでいた。だが、思い悩んでいても仕方がない。
大通りへ出る途中、小さな鳥居のある緑地を通りかかる。そこは、地域の神社の境内らしかった。
「ここは……、公園ですの?」
エルリアが、ふと足を止める。
「水の女神様を祀ってる神社らしいよ。龍栖神社っていうの」
「……女神」
彼女の表情が、ほんのわずかに陰った。転生のきっかけとなった、白い部屋の女神を思い出したのだろう。
「……きっと別人。いや、別神だと思うよ」
そう言うと、彼女は小さく頷いて、再び歩き出した。
バスに揺られて向かったのは、小平にある空き地を活用した盆踊りの会場だった。提灯が連なり、櫓の上では太鼓が鳴り響き、ゆったりとした音頭が周囲に流れていた。
「これは……、魔法陣ですの? 人々が地面に軌跡を描いているように見えます」
「そう見えるか。……これは、鎮魂の儀式だな。ご先祖様の霊をお迎えして、また送り返す行事なんだ」
「……なるほど、そういう体系なのですね」
言葉はずれている気がするが、大枠は理解はしているらしい。エルリアは、東京音頭のメロディーに乗って踊る人々の動きを真似て、見よう見まねで手を振り、ステップを踏み始めた。最初はぎこちなかったが、すぐに感触をつかんで、柔らかく身体を動かしはじめる。その様子を見て、ばあちゃんも目を細めていた。
やがて、夜空に音が走った。
ドンッ、と低く腹に響く音。見上げれば、色とりどりの光が夜空に咲き乱れる。
「これこそ……、魔法?」
エルリアが目を見開いて、口を小さく開ける。
「うんにゃ、科学の力だな。火薬が燃焼して、空中で色や形を変えて光る……まあ、魔法みたいなもんだ」
「そうですの。綺麗……」
夜空に次々と咲いては散る花火を見上げながら、祖母がぽつりと呟いた。
「ふたりとも、ありがとう……。いまが一番幸せかもしれないね」
その言葉に、俺は少し驚いた。それを叶えているのが、この時間であるのならば、参加していることが光栄に思える。
エルリアも何かを感じたように振り返る。
「来年は、香澄さんも一緒に来ましょう。そうすれば、来年はさらに幸せ、ということになりますでしょう?」
「ええ。きっと……」
祖母の目から、ひとすじの涙がこぼれ落ちた。