【1985年9月】
「でも、先生……」
地理の授業中、黒板にはチョークで大きく書かれた文字が並んでいた。女生徒の質問は、やや抗議めいた色合いとなってきている。
「言葉には複数の意味がある。どう教えるかは、俺の職権だ」
今回の火種は、情けは人の為ならず、ということわざの意味合いについてだった。元の意味は、他者に情け深く接すれば、巡りめぐって自分にもいいことがある、というものだとされているが、不用意に情けをかけると、その人のためにならない、と解釈している人の方が多かった印象もある。
名も知らぬ女子は原義にこだわり、若い地理教師は今風の解釈を採用しているようだ。両方を知っているのかどうかは、やや怪しいところである。
一所懸命と一生懸命で軽い応酬があったのは、梅雨時だっただろうか。授業の「さわり」概念でもやり取りがあった気がするので、両者とも意地になっているのかもしれない。
「これ以上は、授業の妨害と見做すぞ」
「はい……。すみません」
そう応じた女子生徒は、力なく座席に腰を下ろした。
「ちょっときつよなぁ」
後ろの席でそう呟く久世の声は淡々としていたが、どこか繊細な熱を感じた。
「まあなあ。言葉は移ろいやすいってのはあるけど、教師だからなあ。国語の担当ではないにしても」
「抗議に行くか?」
「いや……、引っ込みがつかなくなっただけだと思うよ。教師も人間だから」
「それは正しくないんじゃないか」
「正しくないかもしれないけど、そんなもんだろ」
「だがなあ……」
「原義で言うなら、「大丈夫」は大きな男だし、「いい加減は」適度なってくらいの意味だからなあ。一概に誤用と断じるのもいかがなものかと。……ただ、あの女子、ちょっと可哀想だったよな」
「中神さんな。そう思うなら、フォローしてやれよ」
久世の言葉に、俺は苦笑がこもった答えを返す。
「いやいや、お前がやれって。俺が行っても空気が重くなるだけだろ。久世の言葉の方が自然に伝わるって」
「……暗さは、君と僕とでそんなに変わらないと思うが」
チャイムが鳴って、先生が退出すると、小さく笑った久世が女生徒の方へと歩いていく。その背を見ながら、俺は窓の外に視線を向けた。
数分後、ふと視線を向けると、中神さんだったかがぎこちない笑みを浮かべながら頷く姿が見えた。久世の表情はわからなかったが、穏やかな空気が流れているのは間違いがなさそうだった。
俺が行っていたなら、違う展開になっていただろう。久世を行かせた判断は、正解だったわけだ。
学校からの帰り道、家に至る細道を歩いていると、近くの畑にミケの姿があった。このところ、帰りに遭遇すると、足元までやって来て一緒に沢渡家に入る場合が多い。今日もそうかなと思っていると、通りの少し先の方に歩を進めた。そして、寝転ぶ。
こてんと腹を見せているので何事かと思いながら近づくと、反対側から一人の若い女性が歩いてきていた。風体からして、女子大生だろうか。この近くには、法仏大学の工学部キャンパスが存在する。
そして、彼女と俺を見比べているからには、先方とも仲良しなのだろう。
先に到達したその人物がしゃがみ込み、猫の腹に手を当てた。まるで言い訳でもしているように、ミケはこちらを凝視して、にゃあと鳴いた。
会釈をして通り過ぎようとしたら、声がかかった。
「待って、あなたもこの猫と仲良しなんじゃないの?」
「はい」
身振りで座るようにと促されたので、鼻先に指を出す。ミケは尻尾で路面をぽんぽんとしている。
「この子は、この先にある大学のキャンパスでよく見かけるの。知己の間ではみゃーちゃんと呼ばれているわ。あなたは、どこで?」
「この辺りの道端であいさつしていて、最近はうちに遊びに来るようになりました。ミケと呼んでいます」
「そうなの。きっと他にもいろいろな名前で呼ばれて、みんなに可愛がられているのね」
この辺りには、小学校、中学校、高校、大学がある上に、小さな公園もある。一方で、猫を嫌う家もあるし、五日市街道で事故に遭う子もいる。
「野良猫は、どうあるのが幸せなのかしらね」
「そうですねえ……」
この先の時代、特に都市部では、地域で暮らす野良猫は徐々に迷惑な存在だと認識されていき、避妊手術を施して一代限りを見守る地域猫の方向性が目立っていく。
一方で部屋飼いの猫の人気が高まるが、多頭飼育崩壊の悲劇も発生するようになる。猫との出会いが、保護猫の引き取りと、ペットショップでの販売に二極分化されるのは、最適解なのかどうか。
「保護して誕生数をコントロールし、希望者に頒布するような形ができたらよいのですけど」
「そうね。繁殖力は強いものね」
保護するだけで解決するわけではない、との認識は共有されているようだ。
「私は、桐島蒼衣。あなたは?」
「沢渡悠真と言います」
「あなた……、言葉が丁寧ね」
「いや、そんなことも……」
ふっと笑った彼女は、馴染みの猫に親しげに、シャリーまたね、と告げて立ち上がった。
にゃあと鳴いて見送ったミケは、なにごともなかったかのように、先導するように沢渡家の敷地へと入っていったのだった。




