【1985年5月下旬】
エルリアからの求めに応じて、世界についての対話が始まった。この世界と向き合う準備ができたということなのだろう。これまでも、テレビを通じての事象把握はしてきていたようだが、成り立ちから知りたくなったらしい。
後の時代には、テレビやインターネットで得られる情報で、事前知識のない社会に迷い込むなんて状況はほぼ無くなっていたと思われるが、この頃では世界に触れる機会も限定的である。彼女の場合は、別の世界に突如として現れたのだからさらに深刻である。
ただ、言葉と日本語の基本的な読み書きができる状態だったので、まったくのゼロからというわけでもなかった。あの女神が手心を加えたのだろうか。出身のゲーム世界が、日本語ベースだっただけという可能性もあるが。
どこから始めるかとの迷いはあったが、人類が広がったものの、文字がないか、簡素なものだった時代からとしてみた。進化の話は、別途補足すればよいだろう。まず日本の位置を示し、それを起点にアジア、中東、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカといった地域の地理的な状況を説明した。そして、古代から中世までの文明の勃興や栄枯盛衰の概況を説明する。
さらには、地域を跨ぐやり取りから、大航海時代と呼ばれるヨーロッパ勢の勢力拡大から、世界大戦、冷戦、その後の流れへとつながっていく。未来では図書館で読み耽った、アシモフ博士の「世界の年表」があれば話が早いのだが、この時代では未だ出版されてはいないようだ。
エルリアは、理解力と集中力に秀でた聞き手だった。間違いがあるかもしれないからと、検証を推奨しつつの概説を、質疑応答を挟みながら受容している。問うてくる内容から、あっさりと把握しているのは明らかだった。
「わたくし達の世界では、魔物の侵攻に対処しながら、各勢力が相争っていました。それもだいぶ凄惨なものでしたが、人間同士の純粋な闘争というのも、きついものですね」
「ホントだなあ。生粋な欲望で、他者を蹂躙する状況がだいぶ長いこと続いていた。現状でも、完全に克服はできていない」
「人が世界を滅ぼせる状況は、恐ろしいですね……」
「ああ、敵対の果てに核が使われるのならまだしも、誤作動や誤認による偶発核戦争で滅びるかもしれないってのは、あまりに情けない話だな」
この時代、まだ東西冷戦は続いており、世界の滅亡まで五分前、みたいな表現がされていた。前世の史実では、この後ソ連邦が崩壊して、西側主導での全般的には穏やかな時代が続く。もっとも、その間も中東、アフリカ、アジアでの紛争の種は尽きなかったが。
俺の最後の記憶である2025年7月の時点では、中国が伸長して一大勢力となった上、ロシアがウクライナに侵攻し、イスラエルとガザの紛争は悲惨な状況を招いていた。そんな中で、日本は失われた三十年を四十年、五十年にするかどうかでの対立が続いていた。
1985年の時点では、まだ中国への援助が盛んに行われ、さらにはバブル崩壊後に日本の製造業が凄惨移転をして、中国の成長の一助となる流れとなる。そして、成長した中国に圧迫されるのだから、大局観に欠けた対応だったのは、否めない事実だろう。まあ、アメリカも敵認定した勢力への対抗勢力に武力援助をして、育てたところがやがて力を持って噛みつかれる、という伝統芸的な所業を繰り返すのだから、世の倣いというものなのかもしれない。
「君がこの日本で勢力を築いたら、世の中をまともに導けるかい?」
「残念ながら、難しいでしょう。わたくしが置かれていた状況は、この世界ではほぼ廃れている王権国家の、跡取りの配偶者として王権行使の補助をする、というものでした。それすら、婚約者に断罪されて果たせなかったわけですが……。ここでは、勢力の構築すらできるはずもありません」
「視点が、やはり国家なんだな。必ずしも、国単位でなくてもいいと思うんだが」
「商人の真似事は、さらに向いていなさそうです」
「まあ、自分を規定するのは、先の話でよいけどね」
無辜の市民だった前世を過ごした俺よりも、国を動かす側のはずだった彼女の方が、ことを起こせる公算は高いだろう。その助力となれるのなら、この知識伝授の意義も大きいものとなってきそうだった。
「……あなたは、なにか役割を担ってはいないのですの? この世界で、なにを為そうとしているのでしょうか」
「さあな。……俺を転生させた女神は、俺では不足だから、君を招くことで、なにかが進むのではないかと考えているようだった。ただ……、どうも面白がっての行動にも思えた」
金髪の人物が、ふっと息を吐く。
「怒るべきなのかもしれませんが……、失意の中での死の後に、生き直しの機会を得ていると考えるべきなのかもしれません」
前向きなのか、そうではないのかよくわからないが、怒りで震えないのがこの人物の強さなのだろう。
そして、あの女神にとってのお気に入りの玩具は、むしろ俺の方なのかもしれない。あの女神の目的は、なんなのだろうか。
いずれにしても、この世界についての知識の伝達は長丁場になりそうだった。