10-4
「どっちに行ったらいいかわかってるな?」
「ひ……東に三百メートル」
「西だって、しっかりしろ! 逆だぞ」
「そうだった」
想像以上にびびっている僕があまりにも頼りなく見えたのだろう、ホームレスは不安げに頭を掻いた。
「まったく、俺もとんだお人好しだよ。こんな一円にもならねえ事に関わっちまうなんてな」
「ごめん」
「いいさ。そのうち牛丼奢れよな」
彼が手を差し出して来たので、僕はそれを握り返した。長年に渡って使い込まれ、分厚いキャンバス地のように変化した、ごつごつした手だった。だけど、この時の彼の手の暖かさは今も忘れちゃいない。
この人もまた、僕の数少ない友達だ。
「幽霊は霧の中でしか知覚が働かないってわかってるよな? いいか、こいつを絶対に忘れるな。あいつらは霧の外じゃ無力だ」
「うん。色々ありがとう」
「よう、それからもう一つ」
僕が足を止めると、ホームレスはポケットに手を突っ込んで言った。
「こいつはみんな、お前にしか出来ねえ事だぜ。お前だけが海里を救えるんだ」
「え? うん……」
よくわからないまま頷いておく。今だからわかるけど、彼は僕が心の底に抱えていた不安を見抜いていたんだろうな。
今度こそ今生の別れを交わし、僕は板橋を渡って隣の船へ移った。ホームレスはずっと見送ってくれたけれど、すぐに霧に霞んで見えなくなった。
ホームレスの言っていた、「あの潜望鏡なら……」という言葉の意味が今更わかった。あれは霧が透けて見える特別製だったんだ。実際自分の眼で得られる視界は数メートルが限界で、僕はすぐに霧に飲まれた。
頼みの綱はコンパスだけだ。ひたすら西に向かい、サルガッソーの縁を目指すんだ。もし若干目測が狂ったとしても、後は縁沿いに進めばぶつかる筈。
船同士は板橋で繋がっている事もあれば、そうでもない事もあった。密着している場合は縁を乗り越えて移れるのだが、そうでない場合は迂回するしかない。




