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「誰もいなかったよ」
くそ、冗談だって言ってくれ。僕を脅かそうとしてるんだろ?
だが海里にはそんな素振りはなく、さかんに周囲を警戒している。見えないものを見ようとしているかのようだ。
口を閉じていられなくなった僕は、適当な疑問をぶつけてみた。
「さっき言ってた絶望がどうたらって言うのはさ……」
「しっ!」
突然身を寄せてきた海里が、僕の口に手を被せた。初めて感じる彼女の素肌は、敏感な唇を通じて柔らかく甘く……とまあ、こんな状況でなかったらそんな官能的な句を連ねているところなんだけどね。
それどころじゃなかった。僕は心臓が止まりそうなくらいびびっていた。
海里に押された僕は彼女とぴったりくっつき(ああ、こんな状況でなければ水着越しの彼女に全身全霊全神経を集中させていたのに)、壁に張り付いていた。
僕は口元を手で塞がれたままで、両手をどこにも持って行けず、手持ち無沙汰に宙にさまよわせた。まるで滅菌し立ての手に雑菌をつけまいと気を使う、手術直前の外科医みたいだ。数十センチ先には彼女の細い腰と優美にカーブする背筋があるが、ドサクサに紛れてそれを抱こうとするまでには気が回らなかった。
息も詰まるほど近くにある海里は、両目を見開いて行く先の一点を見つめていた。僕の眼はその視線を追い、そしてそこで起きている現象に釘付けになった。
床付近に積もった霧だ。僕らは動きを止めているのに、それが流れている。さっきと同じように。
その動きはまがまがしく不気味で、間違いなく意思を持って動くものに反応している。隙間風とかではありえない動きだ。
それはだんだん、こちらに近付いて来るようだった。
「動かないで」
緊張を含んだ海里の声が、すぐ目の前でした。吐息の中にかすかにアルコールの臭いがするが、不快なほどじゃない。
「霧を動かすと反応するから」
霧? と聞き返そうとした時だった。僕はとうとう、彼女が幽霊と呼んだものの正体を垣間見た。
一際分厚く、高くなった霧が、壁のようになっている。向こうからやってきた何かがその中を潜り抜けた時、ほんの一瞬だが霧が人の形に避けたのだ。つまり、透明人間が霧の中を歩き回っているらしい。




