第一話 別れ噺
第一話 別れ噺
盃に映る菊の花。畳に滴る大きな涙。大人しい燭台の火と、焼香の重々しい煙が気だるそうに天に向かって伸びていく。
その中で唯一、いつもの様子を思わせる透明な水を死者の口元へ運ぶ。「死に水を飲ませる」というのは人が死んだ時、水を飲ませるこの儀式に由来するらしい。まさか実践が父とは思わなかった。僕の父は儀式的に死んでしまったのだ。
とは言え、死者として認定された父の願いを叶えるのが息子の務めであり、最後の親孝行だと思う。この封筒の中には遺言があるという。どれ、最後の親孝行に—。
『——人として正しい生き方をしなさい』
—そんな最後の一節にやたら視線が奪われた。「人として正しい生き方」とは何なのか、そう言う亡き父は「人として正しい生き方をした」と言えるのだろうか。額に拳を当て、考えて、考えて、ひたすら考えた。
父の部屋に僅かな埃がたまってきた頃、遂にあれだけ聞いた父の声が思い出せなくなった。尊敬していた父はもういない。誇らしい父は帰ってこないというのがようやく現実味を帯びてきた。別れの直後は泣けなかったのに、今になって涙をこらえることが多くなった。だからと言って弱音は吐いてはいけない。
御伽家次期当主 御伽莽薙 なのだから。
御伽家は、この世界で古来よりこの島を占拠している一族。一時期衰退の時期もあったが、再興を果たしたのが僕の父なのだ。
だが、次期当主というのも母が代行として御伽家とこの島の住民を引っ張っている。なぜ僕に譲らないのかはなんとなくわかる。「当主の器に足りないから」だ。先代が大きな偉業を成し遂げると次代は否が応でも比較される。それが障り、次代は大きくならないことが多い。だからこそ正当な未熟者よりも、先代の妻を立てるというのは妥当だ。ただ…
「——当主に、なりたいです」
僕は気づいた時には母に対して既にそう言っていた。母はそんなことお構いなしに資料を読み漁っていた。そしてその手を一度止め、こちらを捉え直すように眼鏡を整えた。
「あなたにはまだ早い。もう少し『大人になったら』ね」
非常に淡白な回答を残し、再び資料へ目を向けた。一体その「大人になったら」の判定は何を持って決めるのだろうか。年齢的には別に申し分ないと自負しているのだが——
「まあ、方法はないわけではないがな」
声のする方へ振り返ってみると、そこには傘下の荒川家当主の荒川実義がいた。荒川は偉そうに襖の柱に体を預けていた。母は驚いたように荒川の名をこぼすと、荒川はそのまま部屋に入ってきた。
「君の父さんは偉大であった。だがそれは、それ相応の困難に直面したからだ。今君に足りないのは、年相応の苦難と言う経験だ。」
否定したいところだが、確かに御伽家の名前と父の威厳の下で悠々自適な生活を送ってきていた。二代目というのはそんな環境で育ってきた為に、父の苦労を知りながらも能力がついていないのだ。荒川はそう言って母の読み終えた資料を棚に戻し始めた。心なしか母の資料を読むスピードが速くなっている気がする。
「二代目が没落する理由はそれが一つ。あとは先代の背中を追いすぎてしまう事。勿論君が継がないというのも一つの選択だ。だがそのような判断は君にはできないだろう。」
荒川は整理を終えて浅見の隣に腰かけて続けた。
「浅見、『可愛い子には旅をさせよ』という言葉の通りだ。こいつには一度何か大きいことを経験させるべきだ…」
スピードを上げていた母の手が緩やかに減速し、やがて止まる。眼鏡を割れ物のように扱いながら丁寧に外した。視線も割れた器を見るように儚げに眼鏡を見つめていた。
「——あなたの父さんは強い人だった。自分を顧みず他人の為に行動して、その為だけに全力を注いで、それでも苦しい顔一つも見せなかった。初めて私に苦しい顔を見せた時に私は彼の下にずっといるべきだと気づいた…。」
母は暫く天井を見上げ、暫く顔は戻ってこなかった。しかし、そうしていても仕方がないと思ったのか、今度は優しく目線を合わせた。
「あなたが父さんを越えてほしいなんて思わない。代わりになれとも思わない。彼が望んだ『人として正しい生き方』を守ってほしい。だけどそのままでは当主の器にはそぐわない。今から世界を周り、大切な物を見つけた時。どうしても当主になりたいなら。その時はもう一度、私に言いなさい。」
なんとも突然で非情だと思ったが、それはどちらかと言うとこの世界なのかもしれない。いや、逆に非情なんて絶対に思ってはいけないのだ。今まで幼稚であった自身の考えに朝日を迎えさせようとしているのであろう。
世界を回るにしても、そう簡単に危険な目に会ってしまっては困る。そこで母の瑠璃は旅に同行する適任者を探し選定した。数日間吟味し、二人の人物を莽薙に紹介した。二人は正座して部屋に待っていた。
「……ああ、なんか見たことあるような…」
「はい、御伽家重臣菊水家の一人娘、菊水花蓮です。覚えておりますか?」
一人目は確か同い年で幼馴染。菊水家が軍事に関して精通している家であることもあり、赤いロングコートの下にはベージュの特注軍服が光っている。幼少期ショートカットだった髪はロングになってすっかり大人びてしまった。幼少期によく一緒に遊んでいたが、家が忙しいのか一人娘だからかは知らないが、いつしか顔を見なくなっていた。一体何があったのだろうかはしらないが、今やそんなことはどうでも良い。久しぶりに会えただけで嬉しいというものだ。
「おお‼久しぶりだな、元気にしてたか?」
「ええ、とっても‼」
性格は昔から変わらず明るい性格。なんとも接しやすく頼もしい仲間である。そのまま握手を交わして再会をともに喜んだ。
却って二人目は見たことない人だった。歳は同じぐらいだとは思うが、貫禄があるようにも思える。静かながら相手にしてはいけないと思える威圧を持っている。赤い和服に身を包み、何考えているのか分からない死んだ目つきでこちらを覗き込んでいる。いや、覗き込むというか、こちらの出方をうかがっているようにも見える。
「—赤城兼通だ、よろしく」
端的な自己紹介ではわからない為、母に聞いてみる事にした。どうやら彼はここらでは最強の剣豪らしい。若く剣豪になった鬼才の持ち主で、生まれて数か月で歩くなど「鬼子」のエピソードも兼ね備えている。巷では「鬼神」と呼ばれているらしい。
「——なるほど、それは心強い。よろしく、兼通」
「ああ—。」
結局最後まで表情を崩さず帰っていった。何か感じは悪いが、母が選んだのだから間違いないのだろう。その日は特にそのあと何もなかった。次の日が旅立ちだからである。菊水は帰らず、今まであった事など積もっていた話と昔話をブレンドしながら飽きない話を展開していた。そのまま話し疲れてしまい、旅前の自室を満喫することなく就寝した。
そしてその日がやってきた。
「それじゃあ…行ってきます‼」
「—ええ、気を付けて」
「必ず帰ってこい」
「いつまでそっち見てんだ、さっさと行くぞ」
そういわれて振り返る直前に見た母の姿は今でも鮮明に覚えている。あの時見せた雫はとても綺麗な瑠璃色に輝いていた。




