過去と未来の狭間で 7
「思い出せないなら、いやでも思い出させるだけのことよ」
まいの不敵な笑みに、おれはただ戦慄するしかなかった。
この時代で一年半前というと――中学二年の秋だ。そのころに起きた「痴漢事件」といえば、夕夏が襲われた時のこと以外に、ありえなかった。そのことをどうして、彼女が知ってるんだ?
まいはポケットに手を突っ込み、一枚の布を取り出した。
「あっ……」
「ようやく、思い出してくれた?」
あの痴漢事件の時、おれが夕夏のもとに駆けつける前に、妹を助けてくれた女子中学生がいた。その子は涙を流しながらも、必死で夕夏を守ってくれていた。その子に、あげたハンカチだった。
その子にもう一度会って、お礼をしたいと思っていた。けど、その時は夕夏のことで必死になっていて、顔を忘れてしまった。調べようにも、制服となるとさらに憶えてなかった。そうこうしているうちに、完全に忘れてしまっていた。
まさか、高校で知り合っていたとは。世間っていうのは狭いもんだ。
「あなたのこと、ずっと見てた。誰かを守ろうとする姿が、強くてかっこいいって思ってた。同じ高校に入れて、本当に嬉しかった。……なのに、あなたは私を見てくれない。ねぇ、どうして? どうしてなの? 仁科鍵乃と私、どっちがいいの?」
なるほど、そうだったのか。
病院での視線がまいのものと分かっても、どうしてまいがその場所にいたのか分からなかった。
まいは、おれが鍵乃のお見舞いに行っていることを知っていた。そのことで、誤解を生んでしまったんだ。その時の永真の言葉で、彼女は変わってしまった……。
それでも、答えは決まっている。
「……おれは、鍵乃を守る」
まいは落胆したような表情を浮かべ、こちらをにらみつけてきた。
「永真になにを言われたかは知らない。けどな、鍵乃を殺したところで、おまえを好きになったりはしない」
「そっかァ。あは、あはははははっ」
狂ったように笑い出したまいを見て、おれは少し後ずさる。こういうのは、ヤバい。
「気づかなかったなァ。もう、なんでもいいやァ。だったら、仁科鍵乃を殺し、あなたも殺す。そして、永遠に私のものにするの。それで、私も死ぬ」
「は? なんだって? 言ってる意味がまったく分からん」
「分からなくてもいいのよォ。だって、理解したところで死んじゃうんだからァ」
まいは笑顔を浮かべ、同時に鬼気迫る表情で包丁を振り回してきた。ちょっと待て。こんな異常な表情を見たのは初めてだ。おれは背中を向けて、階段を駆け下りた。
「止まれえぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」
「そう言われて止まるやつがいるかよ!」
すでに生徒たちは避難を終えたようで、どこにも人は見当たらない。おれは安心して階段を駆け下りることができた。足の速さなら負けるものか。
だが、彼女との間隔が開きすぎても、鍵乃たちのほうに向かってしまう危険性がある。だから、ある程度スピードを緩めることも忘れない。
玄関を通り過ぎて、おれは図書室に入った。ここにも人はいない。中庭にも人はいないようだ。みんな、グラウンドに避難したのかな。
本棚の裏に隠れ、おれは息を整える。まいは絶対にここに来るはずだ。一応、鍵乃にもメールを打っておく。扉を閉めておくよう指示しておいた。
おれはそのまま携帯電話をしまうことができなかった。警察に連絡するべきか、と迷ったのだ。
……それでいいのか。警察に連絡したら、まいは終わってしまう。確かに彼女は危険人物だ。でも、どうにか止められないのか。
一度は好きになった女の子だ。それに、誤解させてしまったのは、おれの責任でもある。なのに、彼女の人生を破綻させる権利が、おれのどこにある。
おれは携帯電話をしまい、まいを変える方法も考えることにした。
瞬間、ドアが開かれる。
入口のほうを見ると、そこにまいが立っている。鍵乃たちのほうに行ってなくてよかったが、改めて緊張感がはしった。ここでしばらく、身を隠そう。
そう思っていたのに、運命とは不条理だった。
静かな図書室に、軽快な着信音が鳴り響いた。おれの電話だ。いつもはマナーモードにしてるのに、なんでこんな時だけ。
こういう時にかぎって、音は鳴り止んでくれなかった。と思ったら、大音が鳴り響く。なんだ。いったいなにが起きている。その音は、徐々にこちらに近づいてきていた。
おいおい、ちょっと待ってくれ。
おれは慌てて本棚から離れた。同時に本棚が倒れてきた。おれは前に跳んだ。
ばたん、という音とともに、落ちてきた本がおれを覆い隠した。幸い、本の量はたいしたことがなかった。だが――。
左脚に重たい痛みを感じていた。ちょっとぶつけた程度じゃない。立ち上がることもできなかった。左脚を確認するべく、首をめぐらせた。
「嘘だろ……」
左脚が、本棚の下敷きになっていた。
全身から力という力が抜け落ちてしまいそうになった。けれど、今力を抜かしてしまったら、一生立ち上がることはできそうにない。
おれは呻きながら、左脚を抜こうとした。徐々に近づいてくるまいの足音。最悪だ。どうする。どうすればいい。
まだだ。諦められるか。こんなところでくじけてたまるか。動け。動くんだ。
自らの言葉で尻を叩き、脚を必死に動かしていく。
本棚の下から――脚が抜けた!
おれはすぐに立ち上がり、左足を引きずりながら逃げる。まずはここから逃げるんだ。生きて、脱出する。
意味もない叫び声を上げながら、おれは窓ガラスを突き破って中庭に逃げ込んだ。
必死に逃げてるのに、ちっとも前に進めていなかった。
中庭を突っ切り、おれは逃げていた。気がつけば、生物小屋のところまでは来ていた。
だが、そこまでだった。
「つーかまえた」
おれは生物小屋にもたれかかるようにして振り返った。そこには、笑顔を浮かべて包丁を振り下ろそうとしているまいがいた。
「もう逃げさないよ」
終わった。
殺される。
そう思った瞬間、サルの鳴き声が聞こえた。ミズキか。元に戻してやれなくて、ごめんな……。
おれは力が抜けて、倒れてしまった。がきん、と頭上で音が鳴った。頭の上に、固い金属が落ちてきた。
きしむ音が聞こえ、同時にサルの鳴き声が聞こえていた。まいの悲鳴もだ。おれはうつ伏せになっているから、なにが起こっているのか分からない。けど、まいの足音が少し遠のいていた。いったいなにが起こってるんだ。
〈起きて。立ち上がって〉
誰、だ……?
〈早く逃げて。ここは、ボクが止めるから〉
顔を上げると、おれの前に真っ赤なケツがあった。サルのケツだ。どうやって出て来たんだ?
ミズキくんは、おれとまいの間を割るようにして立っていた。どうしてか手には、おれの携帯電話が握られていた。
〈早くして! 早く逃げないと、君が殺されちゃうよ!〉
アプリを開いて、ミズキくんが話しているのか。
だとしても、そんなことを言うはずがない。なぜなら、この世界のミズキくんとおれは接点がないからだ。
だから、一介の人間を守ろうとするなんて、絶対にありえない。
ミズキくんは、空手のような構えを取った。マジで戦う気かよ。
〈ねぇ、かわいいお姉さん。ボクと少し遊んでよ〉
「……あなたも、邪魔をするのね」
まいの注意力が、そちらに向く。おれは立ち上がった。
「ありがとう。絶対に、死ぬんじゃないぞ……」
〈死ぬ前には逃げさせてもらうね〉
死なれたら次の世界に引き継がれてしまう、ということだけじゃない。ただ純粋に、死んでほしくなかった。その苦しみを味あわせたくなかった。
この場はミズキに任せて、学校へ急ぐことにした。
校内に戻り、おれは電話をかけようとポケットのなかを探った。だが、携帯電話はさっきミズキに渡してしまったんだった。
左脚の痛みをこらえつつ、三階に急いだ。鍵乃と夕夏の二人――親父を含めて三人は、まだ実体化室にいるはずだ。
が、扉を開けてみても、誰もいなかった。電気はついているから、さっきまで人がいたらしいことは分かる。
もしかして、もう一方の階段か。すれ違わず、下に行ってしまったのかもしれない。こんな時くらい、運がよくなってくれてもいいだろうに。
もし中庭からまいが校舎に戻り、そこで鉢合わせてしまったら大変だ。
おれは急いで一階にまで降りた。ここ最近、階段を上り下りしてるよな。すでに左ひざが悲鳴を上げていた。
ようやくたどり着いた一階で、危うく膝から崩れ落ちそうになった。最悪だ。そんな、おれのせいで……。
視線の先には、夕夏と親父が倒れていた。たぶん、陰に鍵乃も倒れているんだろう。三人とも、まいに殺されてしまった……。
のろのろと走り、二人に近づく。鍵乃の姿はない。血も流れていない。……まだ、死んでない?
「おい、大丈夫か! 夕夏! 親父!」
二人は気絶させられているだけのようだった。まだ生きている。望みはある。鍵乃もまだ生きているはずだ!
二人の身体を揺すると、先に夕夏が目を開けた。
「うっ……。おにい、ちゃん……?」
「夕夏、大丈夫か!」
「鍵乃、さんが……」
「鍵乃がどうした?」
「知らない、女の人に、追いかけられて……」
そうか。まだ、鍵乃は逃げてるんだな。だったら、絶対に助けてみせる。是が非でも止めてやる。
「――分かった。今は、ここで休んでてくれ。おにいちゃんは、鍵乃を助けに行く」
こんな場所に残してごめん。でも、ここならもう安心なはずだ。二人を危険な目に遭わせてしまったことは、おれの責任だ。あとからいくらでも謝ってやる。
そのために、生きて帰る。ここで足を止めてはならない。おれは立ち上がり、玄関に向けて歩き出す。
鍵乃を守るためなら、まだまだ走ってみせる。まいに、運命に、鍵乃を殺させてたまるか!




