指輪の秘密
「あっついねぇーー」
「次の休憩まだかなぁ」
青空が広がる絶好の行事日和。
今日は、学校の四年生を対象とした『体力作り』が目的の登山合宿だ。残暑を感じさせる鋭い日差しが、普段机に齧り付いている学生の体力を否応がなしに奪っていく。
ゴツゴツとした岩肌が続く山道を進んでいた時のことである。
私の後ろを歩いていた一人の同級生が足を滑らせる。そして、斜面にあった奇妙な岩の空洞に手を突っ込んでしまった。
その瞬間、地鳴りのような唸り声が辺りに響き渡る。
『グルルル……!』
「……魔獣だ!!!」
歪な影が辺りを覆う。
獰猛な猛禽類のような魔獣が怒り狂ったように翼を広げて現れ、生徒たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。
「全員、魔獣の巣から離れて!シェルターへ避難を!」
駆けつけた教員が、防御用の魔道具を発動した。
まばゆい光が放たれて、魔獣が苦しげに悶え、動きを鈍らせた。しかし、その凶暴な赤い瞳が、吸い寄せられるようにある一点を射抜いた。
ーー私の、指輪だ。
「リリィーー!!」
誰かの叫びと同時に、鋭い爪が猛烈な勢いで空を裂いた。鮮やかな血が舞い、私はその場に崩れ落ちる。
四年間、一度も肌身離さなかった大切な指輪が、視界の端で無残に奪われていく。
右腕から胸にかけて、焼けるような激痛が走る。薄れる意識の底で、いつか授業で習った言葉が脳裏をかすめた。ーー『魔獣は、強い魔力を持つものを好む』。
ねぇ、ハル……指輪のおまじないってもしかして……
◇
当直明けのハルが職場の病院から帰ろうとしたとき、アーノンから電話が掛かってきた。
日中に電話が掛かってくるなんて、珍しいな。
そう考えながら、通話ボタンを押すと、堰を切ったようかのようにアーノンの悲痛な叫びが響いた。
「ハルくん、姉様を助けて……!魔獣に襲われて、大怪我を負ったんだ!」
受話器の向こうの足音や雑音から、彼がパニックになりながら話しているのが伝わってくる。
「すぐに父様の病院に運ばれて、出血は止まったんだけど、意識が戻らなくて……
魔獣による怪我だから、魔法を使わないと治らないって、ハルくんの病院に運ばれることになったんだ…!」
「わかった」
言い終えるか終わらないかのうちに、ハルは部屋を飛び出した。搬送されてくる彼女を迎えるために、長い廊下をひた走る。
救急外来に到着すると同時に、激しいサイレンの音と共に救急車が滑り込んできた。
「こ…この急患っ、俺に診させてください!」
呼吸が整わない中、ストレッチャーを取り囲む医師や看護師たちを押しのけるようにして、ハルが声を上げた。
先輩医師が驚いた顔でハルを止める。
「君は当直明けじゃないか……」
「大丈夫です! 大切な幼馴染なんです。お願いします!」
ハルのただならぬ気迫に押され、先輩医師が渋々道を譲った。
すぐさま全身を視診する。アーノンから聞いた通り止血は済んでいるようだったが、リリィの状態は、目を覆いたくなるほど酷いものだった。
右腕から胸にかけて走る深い傷口は、かろうじて塞がれている。しかし、その周囲の皮膚はどす黒く爛れ、まるで内側から焼かれているかのように痛々しい。
リリィはぴくりとも動かず、深い眠りに落ちたままだった。ただ生きていることだけを示す、弱々しい呼吸がかろうじて聞こえる。
もしかして、斬られたときに、魔獣の毒のようなものを受けたのか……?
そのとき、ハルはリリィの右手に違和感を覚えた。
中指の損傷が著しく激しい。
まるで、はめられていたものを無理やり取られたかのように、皮膚が激しく裂けている。
「……指輪だ」
ハルは息を呑んだ。魔獣の狙いは、彼女がはめていたあの指輪だったのだ。
『おまじない』なんて言って誤魔化さず、ちゃんと魔法のことを話していれば……底なしの罪悪感と後悔が、容赦なくハルの胸を抉る。
「いや、今はそんな場合じゃない……!」
ハルは己の雑念を振り払うように頭を振ると、両手をリリィの傷口にかざした。当直明けの疲労など忘れ、彼はただひたすらに自身の魔力を集中させ、彼女を救うために治療魔法を続けた。
◇
ーー身体が重い。指一本も動かしたくない。
なにかがまだ身体の奥底でくすぶっている。それを、優しくて温かい光が包み込んで、少しずつ私を満たしていく……。
重たい瞼をかろうじて開けると、見慣れない天井があった。
側にいただろう誰かが、バタバタ外へ出ていく気配がした。
心細く感じて、助けを求めるように右手の中指の指輪に手を伸ばす。でも、そこに指輪はなく、おぞましい傷跡が広がっていた。
一筋の涙が頬を伝わる。喉がすごく乾いてカラカラなのに、自分から水分が出てくるのが不思議だった。
「意識が……戻りましたか……っ」
息を切らした懐かしい声がする。
顔を傾けると、王都病院の医師の象徴である銀色のコートに身を包んだハルがいた。
そのまま彼の診察を受ける。この人は本当に幼馴染で、私に告白をしてきたハルなのだろうかと疑ってしまうくらい、無駄のない洗練された動きで、感情を感じさせなかった。
クマが、ひどい……。
一度、ハルの顔が近づいたとき、目の下の大きなクマを見て驚く。
診察を終えるや否や、彼は忙しそうに部屋を出て行ってしまった。
残った看護師から聞いた話では、私は魔獣による怪我で二日間も意識が戻らず、一時は一刻を争う容態だったらしい。幸いにも、他の学生に被害が出ることはなかったと聞いて胸をなでおろした。
その後、大部屋へと移動になった。同室になった他の三人はいずれも、魔獣に襲われて負傷した王都騎士団の男の人たちだった。
看護師が去った後、暇を持て余した彼らは親しげに話しかけてきた。
「ハル先生ってかっこいいよな!リリィちゃんも好きになっちゃった!?」
「ハル先生みたいな高位魔法使いは、大抵、同じような人同士でくっつくもんだよ」
「……でもさ、リリィちゃん、俺たちだって結構カッコいいだろ? 」
「騎士団は魔法が使えるやつが多いけど、俺は腕っぷしだけで騎士団に入ったんだよ。なぁ、俺なんかどう?」
突然のアプローチに戸惑っていると、先程部屋を出て行ったはずの看護師が、どこか慌てた様子で戻ってきた。
「リリィさん、今朝空いた個室へすぐ移動になります。あの方……コホン、ご家族から『大部屋は困る、早急に個室へ』と強いご要望がありましたので」
「え? でも、まだ家族は私が大部屋に移ったことを知らないんじゃ……」
「さあ、どうでしょうね? とにかく、主治医の許可もすぐに降りましたから、行きましょうか」
看護師の含みのある笑みに、真っ先にあの忙しそうに去っていった彼の顔が浮かんだ。
もしかして、ハルが――?
そう思った瞬間、顔が一気に熱くなっていく。私は雑念を振り払うように、荷物をまとめる手を速めた。
看護師さんが荷物を置き、「ゆっくり休んでくださいね」と笑顔で去っていくと、個室は急に静かになった。
大部屋の賑やかさが嘘みたいに、時計の針の音だけがカチカチと響いている。ベッドの縁に腰を下ろした瞬間、張り詰めていた緊張が解けたのか、再びどっと頬に熱が昇ってきた。
自意識過剰かもしれないけれど、ハルが私を心配して、あの男の人たちから遠ざけてくれたのだと思ってもいいのかな。
ーー『ハル先生みたいな高位魔法使いは、大抵、同じような人同士でくっつく』
騎士団の人の言葉が、頭の片隅で冷たい影を落とす。
ーー『……もう、幼馴染のままは限界。ずっと好きだった』
同時に、そう私に告げた彼の言葉を思い出した。
ハルは凄腕の魔法医で、誰からも慕われる素敵な人だ。それに比べて私は、魔法の才能もないただの学生だ。それどころか、あの魔獣に付けられたおぞましい傷跡さえ残っている。
ハルは今も、変わらず私を愛してくれるのだろうか。
彼ならきっと『大丈夫だ』と言ってくれる。そう思っても、自分への自信はすっかり失われていた。
――でも、今度こそ。四年前にはどうしても言えなかった言葉。今改めて胸に満ちていく『大好きだ』というこの想いを、真っ直ぐ彼に伝えたい。




