デイリーワーク
エントランスを出た瞬間、まだ朝8時なのに熱気が全身を包む。
ケンは急いで地下に駆け込み36段ある階段を駆け降りる。エスカレーターはあまりの暑さですぐ故障してしまうために数年前から停止されている。地下通路に到着すると汗が玉のように吹き出して、ポケットのハンカチ拭う。地下には東西南北に張り巡らされたムービングウォークが通勤する人々をのせて動いており、ケンは東へ向かうローウォークにタイミングを合わせて飛び乗り、徐々に右車線にあるハイウォークに乗り移っていく。わずか5分ほどで海底地下20階のオフィスへと到着し、今度は徐々にローウォークに乗り移っていき、オフィスのエントランスの1メートル前で飛び降りた。
そのままオフィスのセキュリティゲートを通過すると、自動的にスマートグラスが作動を開始し、今日彼の作業するオフィスエリアがスマートグラスに映し出さたので、ケンは窓際の席を選択するとそこに向かうルートが緑色の線で表示される。
選択肢のない場合以外、いつも窓際の席を選ぶのは、強化ガラスの向こうにオフィスの照明に照らされてわずかに浮かび上がる深海の景色を気に入っていたからで、身体にフィットするフレキシブルシートに座るとスマートグラスをはずしてその景色を1分間ほど眺めた後にヘッドセットを装着し、パトスのオフィスエージェントに接続した。「意識があの深海に溶け込んでいく」とケンは感じていた。スマートグラスの接続がプールで泳いでいるとすれば、ヘッドセットでの接続はダイビングのようなものでより深くパトスの中に取り込まれていき、自分との境界線が揺らぎ広大な深海=全体知の一部となっていく感覚があった。そこで彼は今日の業務内容とデータ、現在の進捗状況を共有する。今日も”はじめて”の仕事で。内容はユーラシア連合におけるエネルギー供給の安定化で分散開発されたプログラムを統合していくもの、実装されれば電力効率が10%のアップが期待され、計画停電の時間が15分、理論上短くなると予測さている。
同様のプロジェクトはいくつも同時開発されているのだが、現在ケンの手法が再生エネルギーの安定化の問題解決について評価されているようで、最近は最終的なデバッグと高速化、軽量化などを任されることが多くそれが直近の急激なカウントアップにつながっていた。夜間の間に地球の反対側の”誰か=彼”が進めたコードを解析し、バグの修正と最適化を実行していく。
幸い、問題点は少なく勤務終了時間より1時間以上早く追わされることが出来き、アップロードを完了してヘッドセットの接続を切った。退出することもできるが、あのうだるような暑さの自室に灼熱地獄のような地上を通って戻るより、快適なこの場所にいる方がずっと良かった。
暗い闇に微かに照らされた海中の景色を眺めながらまだ子供だった頃のことを回想する。
彼は両親のことは知らない。気がつけばマザーハウスで他の子供達と一緒に生活していたからだ。そこは大昔には”学校”と呼ばれていた場所らしい。同じような大きさの部屋がいくつもある4階建ての建物が2棟あり、それぞれ男女別に集められて”教室”の中で十数人単位で共同生活を送っていた。年長者は14歳で年少者は5歳、そこには彼らの生活の世話をし教育を行う大人たちが数名いたが、子供達に対して必要以上の関わり合いを避けていたように思われる。年長者は年少者の世話をし、年少者は年長者に勉強以外の生きていく上での術を教わった。勉強については基本的な算数の知識や読み書きを彼らに教えられたあとは、教育学習機が子供達の先生になった。
食事は3食いつも変わり映えのない、パンのようなものにジャムかマーガリンがついており、それに卵のような味のものがついたり肉のようなものがついたりしていた。鶏、牛や豚といった家畜類は精子と卵子だけが冷凍保存されているだけで本物ではないし、それしか食べたことのない彼らにはそれが代用食ということはわかっても味がどうなのかまではわからなかった。
名前も与えられていなかったが、特に不自由はなかった。似たような背格好で似たような顔立ちだった彼らも10歳(なぜか皆同じく10歳になったと言われた)になる頃には少しずつ個性が出てきていた。ふとっちょ、やせっぽち、そばかす、ほくろ・・・・、彼の通称は仮面、無表情だかららしいが少し傷ついていた。
対面の校舎に住む女性とは交流がなかったが、たまに人の姿を見ることがああった。その姿は自分たちとよく似ているが、年長者らしきものは身体のフォルムが違う。髪の毛も短く刈り込んでいる自分たちと違い長く伸ばしてそれを後ろで束ねたりしている。ある日、その中の一人と目が合った。その人は少し驚いたような表情をして、微笑んだように見えた。
ある日、めずらしく教室を間違え、使われていないエリアに迷い込んだことがある。そこには旧式の電子錠がかかっていたが、数値の簡単な組み合わせで、簡単に解錠出来た。そこには大量の”本”があった。それは失われた時代の遺物で、本来彼らにはアクセス権がないもの、本来であればすぐ立ち去るべきだったのだろうが、誘惑に耐えきれず数冊の本を鞄に詰め込んで、逃げるようにその部屋から飛び出した。不思議なことに数メートル離れて振り返るとその部屋のあった場所は壁になっていて二度とそこに入ることが出来ない。
・新約聖書
・火星年代記
・フィジカルトレーニング入門
その3冊の本が、それが現実にあったことを証明する手掛かりである。
それらは古語で書かれていたため、彼は全てを理解することはできなかったが、挿絵や断片的な単語から想像を膨らませていく。
10歳の冬に、ふとっちょとほくろは姿を消した・・・突然に。
その後、毎年冬になると必ず誰かがいなくなった。やせっぽちは12歳、そばかすは13歳で。教室で15歳を迎えたのはマスクひとりとなった。
15歳になるとコーチでの教育が終了し、専門課程にすすむことになり、彼は悩むことなく情報処理と歴史学を選択した。マザーハウスを出て海中にある高等学院に移る。そこでは個室が与えられ、食事も今までよりは少しはましになった。といってもチョコやキャンディーといったものがつくようになったくらいではあるが。
名前も与えられた。彼らの名前は男性は「ケン・タナカ」、女性は「ハルカ・サトウ」。それぞれを区別するのは各自に割り当てられた固有カウントで、その時の彼の名前は「ケン・タナカNA123568」。コーチではない講師から、Nは新人という意味でAは等級を表すこと、ここで3年間学習後に彼らは試験を受け、その結果により8桁の番号はグローバルカウントの10桁の番号に変えられ、その番号は評価により更新されていきそれによって待遇が変わるということを教えられた。ケン・タナカ、ハルカ・サトウはアジア系のニッポンにルーツを持ち、コンピューターエンジニアを目指すものに与えられる名前で、ここだけではなく世界に少なくとも数千人はいるらしい。
それについてはよく理解できないことではあったが、少なくともマスクよりは数倍良いとケンは思った。




