アンクルトミーとみんなのこと
さて、台所での若松といったら、それはもう張り切った。
若松はタルタロス下りを成功すると信じて疑っていなかったため、数日前から出産祝いの下準備をしていたのである。
本日の献立といったら、いわしのつみれお吸い物から始まり、レバニラ炒め、ひじきの煮付け、出汁巻き玉子、グリルチキン、チキンのホワイトソース煮込み、ブロッコリーとゆで卵のサラダ、デザートにはハウスみかんなど、とにかくタンパク質とカルシウム、ビタミンCを重視した献立であった。
千草が色合いを優しくするよう盛り付けているため、母親となった清美への祝いだと分かるものばかりだ。量は少なく品数は多く、ここまでのお祝いメニューは小夜子ですらお目にかかったことがないという充実ぶり。
「ささ、皆さま、お祝いでございます」
小夜子は少し驚いた。
若松がこれほど出産祝いに張り切るとは思ってもみなかったのだ。
少年が心から祝ってくれることに、清美は無邪気に喜んでいる。
「まあ、とってもステキ。若松くん、ありがとう」
「へい、ありがとうございます。ささ、お召し上がりください」
食事は和やかなものとなった。ロキは当たり前のように穏やかだったし、目羅博士もいつもの皮肉げな態度を意識して出さないようにしている。
トミーは少しだけ寂しそうだ。だから、こんなことを言う。
「ハデスさんも、ここにいてくれたらよかったんやけど」
一足先に冥界へ戻ったハデス氏も、無事生まれた子を見たかったのではないだろうか。トミーの思うそれも、今となっては詮無き事。
小夜子が慰めるように言う。
「ハーデース様が冥界にお戻りになられたのはめでたいことじゃ。神とはそういうもの。巡り合わせさえあれば、いつかまた会うこともあろうよ」
「そうなったらええんやけどな」
しんみりしたところで、ロキが箸を止めた。
「お前たちには世話になった。この国にこのような連中がいたとは、俺は幸運に感謝せねばなるまい。俺たちの子がここにいるのはお前たちのおかげだ」
悪神であるロキがやる感謝の言葉。それは、奇妙に真っすぐなものだった。
赤子を抱き寄せた清美に言葉は無く、深々と頭を下げる。
トミーは小さく笑った。
「ロキさん、おれらはそうしたいからしただけや」
トミーの言葉に目羅博士が続く。
「私としても貴重な経験ができました。それこそ、幸運な巡り合わせというものです」
小夜子もまた同様である。
「ほほほ、ロキ様から礼を頂くなど、わらわの偉業にまた一ページが刻まれましたぞ」
誰一人として素直に「どういたしまして」と言わない。慣れていないのだ。小夜子を含めて、孤独を捨てきれない連中なのだから仕方ないことである。
乳飲み子を抱えての食事はなかなかに大変で、産婦人科医としての修行を積んだロキは理論武装でなんとかしようと四苦八苦。他の面々はほぼ役に立たないが、なんとかフォローしつつ食事を終えることができた。
小夜子は寝入ったあかちゃんを見やる。
「わらわよりも壮絶な生まれとはのう。流石は二十一世紀の令和時代じゃ。ロキ様、お名前が決まりましたら教えてくだされ」
ロキと清美は顔を見合わせてから、清美が小夜子に微笑みかけた。
「小夜子ちゃん、もう決まったのよ。融っていう字で、トオルにしたわ。二十年も経っちゃったから、古い名前かもしれないけど、二人で決めたのよ」
「おっ、ええ名前やん。令和は普通が逆にええって時代やで」
トミーがオッサン臭いことを言う。彼と清美は見た目こそ親子ほどの年齢差だが、実年齢では同世代だ。
「ありがとう、トミーさん。あなたがロキを助けてくれて、本当によかった」
「や、ヤツは協力者だ」と、ロキが被せるように言う。
口元だけでトミーは笑む。
「別に、感謝されるほどのことやないで。おれが好き放題やって、ええ感じになって、満足できたんやし。それ以上のことはないわ」
目羅博士がうんうんと頷いて口を挟んだ。
「トミーさんが言う通りですよ。我々は自分の好きにするのが信条なのです。皆、そうでしょう。結果として、皆が満足した。それだけで充分なのですよ」
言ってくれるではないか。と、小夜子は思う。
目羅博士の言葉は全て真実で、それは彼らの歪さを浮き彫りにするものだ。自分のために、友のために、何かのために、他の何かを躊躇なく犠牲に出来るという意味でもある。
「先生、そういう皮肉っぽいこと言うて悪ぶるんやめえや。誰も先生のこと嫌ってないんやから」
「なっ、誰が悪ぶっているというのですか!」
「ムキになるんが先生のあかんとこやで。いやあ、今日は疲れたわ。融くんが一番元気いっぱいやな。早いけど、年食うたおれはそろそろ休むわ。ロキさんに清美さん、落ち着くまでいててくれてええで」
トミーは目をこする。そろそろ眠たさが限界であった。
「ああ、休ませてもらう。ここは居心地がいい」
「おれは先に休むわ。みんなおやすみ」
トミーが自室へ消えると、それぞれが休むことになった。
まだ夜の八時だが、ロキと清美に融くんは家族で過ごすため部屋に戻る。そして、目羅博士は煙草を吸いに行くと言って庭先へ消えた。
若松と千草は後片付けを始めていて、手持無沙汰の小夜子はテレビをつけた。天気予報が流れていて、明日は快晴だと教えてくれる。
「それにしても、融くんとはのう。ロキ様も素直になられたものよ」
融、音だけならよく似た響きだ。若き日のロキが共に冒険の旅を行った北欧の雷神トール。悪神ロキの、かつての親友である。
誰であれ、トミーと共にあると影響されてしまう。小夜子もそれは自覚している。その上、ギャル谷と出会ってしまったことで、抑えていたはずの芽生えた甘さが育ってしまった。もう、元には戻れまい。
「伊邪那美様も、トミーと出会ってしもうたんじゃなァ」
小夜子を【こちら側】に送り込んだ伊邪那美様ですらも、これは予想外のことだろう。そう思うと、どうにも面白くなってしまって笑いが抑えられない。それは、ごく普通の少女のような、小夜子らしからぬものであった。
皆、早めに休息をとった。
長かった一日が終わる。
翌日も忙しく過ぎていく。
ロキたちが日本国内で過ごせるようにする書類手続き。そして、あかちゃんである融くんのお世話。とてつもなく忙しい。
子育てというのは大変なものだ。
小夜子たちも手伝ったが、そこは大変に苦労した。あかちゃんの扱い方など、魔人たる彼らとコドモ大人のトミーが知るはずもないからだ。
嵐のような一週間が経過して、始末を終えたロキのご一家は軽井沢に帰ることとなった。
早朝の間宮屋敷に新車のアルファードが届けられている。これは、小夜子の用意したロキへの出産祝いであった。
ロキの見た目といえばとんでもない男前。陰のある面影など、まるで映画から抜け出した美青年だ。似合うのはスポーツカーなのだが、彼も父親なのだからとファミリーカーをあえて用意した。もちろんチャイルドシート付きだ。
男たちは軽口を叩き合っていて、別れもあっさりしたものになりそうだ。
前世のある小夜子と清美は世代的にも似ているこもあり、気が合った。姉妹というほどではないが、この一週間で仲良くなっている。
小夜子は穏やかな清美のことが気に入っていた。難点があるとすれば、清美は気難しいロキの奥様というだけあって距離感が近い。小夜子相手にもグイグイくる。
名残惜しいと言って小夜子をハグするなど、その距離感は魔人ですらも戸惑うものだ。
そろそろ時間だというところで、ロキは居住まいを正してトミーに向き直った。
「……世話になったな、トミー。お前は恩人だ。この町でお前に会えたことは、最大の幸運だった。ありがとう」
北欧神話のトリックスターがそのようなことを言うなど、誰が信じられようか。だが、これはロキの偽りない本心であった。
「お、ようやくトミーって呼んでくれたな。礼はええて。おれも友達が出来てよかったんや。それに、まあ誰でも手伝うくらいはするやろって事情やったしな」
その物言いにロキは笑ってしまった。こんなこと、トミーにしかできないことだ。
「トミー、軽井沢に来る時は立ち寄れ。……また会おう。トカゲ人間、お前にも世話になったな」
目羅博士は老紳士の姿でふんと鼻を鳴らした。
「ロキ様、必要になればいつでもお呼び下さい」
目羅博士は英国紳士がやる大仰なお辞儀をする。ボウアンドスクレープというものだが、様になっているところがなんとも厭味だ。
ロキは呆れたように笑うと、車に乗り込んだ。融を抱いた清美もそれに続いて、車は発進する。
皆で手を振って、車が見えなくなるまで見送った。
異国の悪神ロキが人の親をやる。きっと、これから先は波乱の日々だろう。関わり合ってしまったのだから、また会えるはずだ。
今日はこの一件が終わった日だ。だから、目羅博士も出立する。小夜子とトミーに向き直った彼は、口元に悪党じみた笑みを刻んだ。
「トミーさん、間宮さん、お世話になりました。私もそろそろ行きます。あなた方にはしてやられましたので、次の機会にお返ししますよ」
小夜子は呆れたヤツだと思って、まさに呆れた顔になる。だが、それは気分を害したものではない。
「キザな上にイヤミったらしいジジイめ。普通に訪ねて来よ。茶菓子くらい出してやるからの」
小夜子の返答は目羅博士にとって予想外のものだった。だから、彼は困った顔をするしかない。
「ははは、先生は相変わらずやな。最初に会うた時はロクデナシや思ったけど、今はそうでもないわ。まあ悪いヤツやとは思ってるけど、先生も友達や。先生、また会おうや」
「この私に、人類の敵である恐竜人に、友達などと……。よくそんなことが言えるものです。お二人とも、いつかまた会いましょう。その時には茶菓子くらいは持参して参ります」
目羅博士はステッキをくるりと回す。すると、その姿を空気に溶け込ませるようにして消えていく。最後にカッコイイ術で去っていくのは見栄か、それとも自己演出か。実に捻くれた博士らしい去り方だった。
「気取ったことしよるで。流石は先生や。はははは。はぁ、……小夜子ちゃん、おれもそろそろどっか行くわ」
これには小夜子が驚いた。
「どっかとはなんじゃ!? パチスロのイベント会社を立ち上げると言うておったじゃろうが!」
この一週間で計画を練って、書類だって作り始めたところだ。小さなイベント会社を設立する程度の資金など、小夜子からすれば痛くもかゆくもない。
「それ、ダルいからやめた。金借りてとか性に合わんわ。どうせ、どこかで嫌になって放り出すしな。それに、昔からの友達から連絡があったんよ。ちょっと助けたらなあかん。ま、墓参りとついでに地元に顔だすんも兼ねて、今日から行くわ」
小夜子は何か言おうとしたが、必要な言葉が思いつかない。
「トミー、よい歳の男が根無し草はあかんじゃろ! いつもあかんって、トミーが言うておるではないか。ここにおればよいというのにっ」
「小夜子ちゃんといるんも楽しいやろけど、それはちょっと違うんや。そんな気がすんねん。ごめんな、おれは多分やけど邪魔になってまう。だから、今は一緒におれん。また、会いにくるわ」
トミーの手が小夜子の頭に触れる。
子供のように頭を撫でられているということに、悪い気はしない。それが、小夜子には悔しかった。
「トミー、年末までには顔を見せに来よ。約束じゃぞ」
「ああ、約束だ」
トミーは約束を破らない。小夜子の知らないところでは破っているかもしれないが、小夜子とのこういう約束を破ったことは一度もない。
そこに、若松が包みを持って駆け付けた。
「トミーさん、お弁当です。道中でお召し上がりください」
どうやら、若松はトミーが去ることに感づいていたようだ。だから、わざわざ弁当を用意している。
「おう、気が利くな。お前はそのままええ男になれよ。いや、もうええ男やな。あと、あの千草ちゃんはちょっとヤバいから、腹が決まるまで慎重にな。早まったらあかんで」
「へ、へい、肝に銘じやす」
トミーは二人の顔を交互に見てから、笑んだ。それは、父親なのか、それとも年上の親友なのか、どちらともとれる奇妙な笑みだった。
「じゃあな、元気にしとけよ」
「トミーの馬鹿者めっ! 風来坊! 甲斐性なし!」
小夜子は他にも何か言おうと考えたが、それ以上の言葉は思いつかなかった。だから、最後にぷいとそっぽを向いた。
若松はトミーに深々と頭を下げた。トミーはいつも、男とはどういうものか行動で教えてくれる。その感謝であった。
「トミーさん、お達者で」
トミーは振り返ることなく後ろ姿のまま手を振って、軽自動車に乗り込む。軽快なエンジン音と共に車は発進。エンジン音は遠ざかり、やがて小さくなっていった。
口をへの字に曲げていた小夜子は、そのまま屋敷へ戻ろうとする。だが、玄関の直前でぴたりと足を止めた。
「若松っ、昼はラーメンを食べに行くぞ! 河童ラーメンのどろどろのを食べるんじゃ!!」
「へい、かしこまりました」
空は目が痛くなるほどに青い快晴で、太陽はギラギラ夏真っ盛り。午前中から今日も狂気的に暑い。
暑気払いに、ラーメンで汗をかくのも悪くない。小夜子はそう思った。決して、腹いせだとか寂しいからだとか、そんな理由で食べに行く訳ではないのだ。
小夜子と若松は十七歳。今年も夏が始まる。