鳴髪親子と聖蓮尼と男たち
女史という言葉は「氏」にあたる女性への敬称
若菜姫調伏と鳴髪くるみ復活の報せは、燎原の火のごとく業界に知れ渡った。
鳴髪小夜子の一件以来、鳴髪家に射した影もこれでなくなったものと思いきや、当のくるみが家に戻らない。それどころか、退魔術をまともに使えない三流退魔師である色部三郎に、あろうことか手籠めにされたという噂まで広まっている。
若菜姫調伏に参加した退魔師たちも、その噂について言葉を濁すばかり。
くるみが色部と親しいのは確かなようだが、どうにも傷モノにされたという扱いではないとか。
そのような噂話で業界が持ち切りなこともあって、鳴髪家を筆頭とする一族は苦々しい日々を送っている。
そんな彼らにも、朗報がもたらされた。
しとしとと小雨が降りしきる六月のある日、聖蓮尼を伴ったくるみが朝一番で鳴髪家の邸宅に戻ってきたのである。
一族郎党にかしずかれて玄関を上がり、くるみは気まずい笑みを漏らす。
「くるみさん、迷いましたか?」
聖蓮尼が言えば、くるみはかぶりを振った。
「ううん、そうじゃなくて。今までこんなとこでよく生活してたなって」
今のくるみに、鳴髪家は居心地が悪い。
「お金持ちなのはよいことですよ。金はあるにこしたことはありません」
「そういうの、大人が言っていいの?」
「尼は言っていいのです。俗世間と離れていますからね」
聖蓮尼はそんなことを言って煙に巻こうとする。
たどり着いた大広間には、現当主である鳴髪女史が正座して待ち受けていた。そして、大広間を囲むように一族の有力者が脇を固めている。
「くるみ、そこにお座りなさい。聖蓮尼はそちらに」
家人によって用意された座布団にくるみは座る。
聖蓮尼の座布団は、畳一枚は離れた後ろに置かれた。しかし、彼女は楚々とした仕草で座布団を拾うと、くるみの隣に置いて座った。
じろりと鳴髪女史に睨まれるが、聖蓮尼はどこ吹く風。
「お母さん……。うん、座るね」
鳴髪女史は、鳴髪くるみの実の母親だ。しかし、今ここで親子の情は感じられない。冷徹な当主の顔であった。
「若菜姫調伏、よくやりましたね。これで、鳴髪家当主としてあなたを迎え入れられます」
鳴髪女史の言葉に一族の者たちからも賞賛の言葉が漏れ出る。おめでとうございます、とか、次期当主、とか。以前のくるみなら得意になれていたけれど、今となっては何とも思わない。
「お母さん、あたしは当主とかやりたくない。だから、廃嫡でいいよ。それと、結婚しろって話だけど、今年中に結婚はするけど赤ちゃんはもうちょっと先かな」
思ったよりも簡単に、言おうと思っていた言葉が出た。
くるみは言葉にした後で、大胆なこと言っていると自覚して赤面する。
「何を言っているのですか? くるみ、もう子供ではないのですよ」
「四十代の出産はキツいと思うけど、お母さんが頑張ったらいいんじゃない? それか、お姉ちゃんに当主させてもいいと思う。あたしよりお姉ちゃんの方が遥かに強いんだし」
くるみも姉と共に戦って分かったことだが、鳴髪小夜子であれば一人でも若菜姫を調伏できただろう。
それほどに、姉とは差がある。
「雷神の術が使えぬアレなどに!」
鳴髪女史は怒気を隠さなくなった。
「こんなの使えなくても妖物は退治できるし、銃の方が強いよ」
くるみは懐に銃を二丁忍ばせている。
公安の実働部隊が天才と評する彼女であれば、ここでアクション映画さながらの銃撃戦を繰り広げて制圧することもできた。だけど、それはできることなら避けたい。
「くるみ、あまり母を怒らせないで下さい。それとも、お仕置きされたいですか?」
「お母さん、それはもう無理だよ。おいで、八雷神」
言葉と共に、雷光を伴って八雷神が顕現する。
くるみの全身に絡みつく雷で出来た八匹の蛇。それこそが、伊邪那美様と共にある冥界の八雷神。
本来ならば、伊邪那美大神だけにしか使役できない死の化身である。
「くるみ、その姿は!?」
くるみの金色の髪がゆらりと逆立つ。そして、絡みつく雷神を見やった。
「髪が乱れるしやりたくないんだけど、……こうしないと話も聞いてくれないでしょ。お母さん、今までお世話になりました。あたしは、色部さんのお嫁さんになります。だから、保護者の同意書を書いて下さい。最後のお願いで、最初で最後の命令です」
一族の者が色部の名を聞いて「三流退魔師が姫様をたぶらかした」と叫ぶ。
くるみはイラッときてしまい、制御が乱れる。
強烈な死気が、くるみより発された。
「喝!」
聖蓮尼の一喝。
霊力が乗った声の術により、くるみは乱れていた雷神の制御を取り戻す。
「聖蓮尼、ごめんなさい。もうちょっとで誰か死んでた」
冥界八雷神の役目は人の命を奪いとること。自由にさせようものなら、本来の主が命じた通りに一日に千を殺そうとするだろう。
「くるみ、本気で言っているのですか。一族は、今まであなたのためにどれほどの」
「お母さん、そういうのやめようよ。あたしたち、それをするには遅すぎるんだよ。だから、もういいの。同意書を書いてくれたら、荷物をまとめて出ていくから」
「うぬぬ」
鳴髪女史は女だてらに当主を務める女傑である。
雷神の術にしても、以前のくるみであれば母に敵わなかっただろう。しかし、今のくるみは、荒神としての伊邪那美大神の御力を借りている。
苦渋の唸りを漏らす鳴髪女史に対して、すっくと立ちあがった聖蓮尼がつかつかと歩み寄って耳元で何事か囁いた。
鳴髪女史は鬼の形相で聖蓮尼を睨みつける。
「おのれ、鳴髪と事を構えたいか。いかな聖蓮尼といえど」
「娘のためを思ってやりなさい。それに、私だってそんな手は使いたくないのです」
公安に無理を言って出させた調査書の中身を公表すると、聖蓮尼は暗に言っている。
「分かりました。くるみ、あなたはもう娘でもなんでもありません。三流退魔師のとこへ行って、惨めに生きればよろしい」
「ありがとう、お母さん」
くるみはにこりと笑んで、八雷神を引っ込めた。
広間に漂っていた死の気配が薄れる。
その瞬間、一族の重鎮である男が立ち上がった。
「おのれ、いくら姫様といえど許せん」
雷を放たんがため両手に印を組む男。くるみにそれは、遅すぎる。
懐に隠し持っていた二丁の自動拳銃を両手で引き抜いて、撃つ。
鳴髪くるみは天才だ。
曲芸じみた早撃ちで、男の膝を撃ち抜く。それと同時に、もう片方の手にある銃が、鳴髪女史の頭を狙っていた。
「銃の方が早いわ。それとも雷神に噛まれるか、どっちがいい?」
くるみはこの体勢からでも八雷神を呼べる。
「お前ら、動けばこの私を相手にすると思え」
聖蓮尼もまた、鳴髪女史の隣にいる。
「その痴れ者を運び出せッ。聖蓮尼、失礼をしました。すぐに書類は用意しますから、ここは引いて頂きたい。くるみ、あなたも」
もはや、決したことだ。
鳴髪女史の顔は歪んでいる。
「お母さん、これまでありがとうございました」
鳴髪女史は一族の者たちを下がらせた後に、すぐに弁護士を呼んで保護者による未成年者の結婚同意書を作成することになった。
書類が出来上がるまでに、くるみは聖蓮尼と共に自室でそう多くない荷物を整理する。
スーツケース一つに納まる程度だけ持って帰って、あとは処分してもらう。
二時間ほどで書類は出来上がって、聖蓮尼も確認した後に母親と会うこともなく鳴髪家を去ることになった。
聖蓮尼の愛車であるカローラツーリングで、帰途につく。
「くるみさん。良い功徳を積まれましたね」
「功徳かなあ……。ちょっとだけ悲しい感じもあるけど、なんか思ったよりどうってことない」
「それで良いのですよ。これで、色部は性犯罪者ではないということにできます。私も、あなたたち姉妹のために骨を折るのはもう慣れました」
姉妹そろって、男のことになると常軌を逸している。あの母親の血筋だなと聖蓮尼は思う。
「あのね、あたしとお姉ちゃんって、やっぱりお父さんが違うよね? 聖蓮尼は知っているんでしょう」
「それを聞きますか?」
「今しか聞けないよ」
「くるみさん、あなたはもう大人ですね。……あなたの父親のことも、聞きますか?」
聖蓮尼は諦めた。世間一般の常識というもので、立派な大人として何か言おうとも思ったが、くるみはそんなことを望んでいない。
「ううん、別にいいよ。それはお母さんのことだし」
「それでいいのですよ。恋から醒めて後悔した時には、私に相談しなさい。いいですね、さらにヘンな男に捕まってはいけませんよ」
「あたし、結婚前なんだけど……」
「私は言いにくいことも言います。尼ですから」
尼さんは無敵だ。だいたい何を言っても、深いことだと皆が勝手に理解してくれる。
聖蓮尼は続けて言う。
「結婚というのは、幻滅を繰り返していくものです。存分に幻滅して、これからの時を過ごしていきなさい」
「色部さんはそんなことないもん」
「あなたのためを思って言っているのです。綾子のようになられたら困りますからね」
たびたび話題になる綾子というのは、道反竹一郎の妻だ。
くるみは面識が無いのだけれど、逸話や噂は聞いている。曰く、新婚二十年目でまだアツアツだとか。
「あれは、道反おじさんが立派なだけだと思う」
そんなことを話しながら、くるみは色部のもとへ帰る。
今から、新しい日々が始まる。それはきっと、幻滅もすれば後悔もする。だけど、くるみが望んだ幸せの形だ。
そのころ、色部は道反竹一郎、桃太郎卿らと共に間宮屋敷にいた。
小夜子は居間でテレビを見ながら茶を啜っており、男たちは縁側から出たすぐのところで、めざしやらサバ味醂干しを七輪で焼いていた。
日本酒の一升瓶があって、ちびちびやりながら男たちだけで談笑している。
雨でも降りそうな曇り空の下、何をやっているのだか。
時刻はお昼少し前。
飲むには早すぎる時間だ。
「そなたら、別にいいんじゃが。わらわの屋敷に集まるんはおかしくないか?」
小夜子が言うと、桃太郎卿が振り向いて口を開く。
「役に立たんかった罰でおじゃる。それに、最後まで見届けるのが筋であろう」
「むむむ、それを言われると辛いのう。まあよいが、ありあわせのものしかないからの。期待はするでないぞ」
もちろん、これは食事のことだ。
ここ数日は忙しく、買い出しにもいけてない。
台所では、冷蔵庫に余ったもので若松が食事の準備をしているところだ。
買い置きしていた食材の消費期限のこともあり、ここで使い切れるのはそう悪いことではない。
小夜子はさらに続けた。
「男同士の話をしたいならもっと適した場所もあるじゃろうに。わらわ、クルミンの友達じゃし、話が筒抜けになってもよいのか」
それには、竹一郎が応じる。
「いやいや、そういう話とは別ですよ。色部くんは、道反と間宮の両家で支援するということもありますし、そういった書類も作らねばなりません」
竹一郎は退魔師業界での政治的なことまで考えている。見た目に反してマメな男だ。
「ふうむ、まあよいか。それはそうと、味醂干しはなかなか美味そうじゃ。一枚焼いておくれ」
「これは酒飲みの特権でおじゃる。麻呂の買い求めた逸品であるが、若松に免じて一枚だけは下賜しようぞ」
「桃太郎卿、セコいことを言うと日本一の肩書が泣くぞ」
焼けた味醂干しを小皿に移して、竹一郎が小夜子に運んだ。
一口やれば、甘辛い味がいっぱいに広がる。よく浸かったもので、味が濃い。
「うむうむ、美味いものじゃ。ごはんが欲しくなろうものよ」
「酒によいのが分からぬとは、お子様の証左でおじゃるな」
「わらわ、未成年じゃからな。酒は大人になってからじゃ」
飲んでもいいのだが、小夜子の肉体はアルコールを瞬時に分解するため酔うことがない。そのため、酒を美味いと思わない。
黙ってめざしをかじっていた色部は、小さくため息をついた。
「色部くん、沈むのは分かるが、ここは切り替えた方がいい。くるみさんに、その顔は見せてはいかんからね」
竹一郎の言葉は慰めではない。実体験からの忠告だ。
「道反さん、私だってそうしたい。だが、急すぎるんだ」
「あそこで抱きしめたんだから、腹を括りなさい」
色部は応えずに、酒を呷る。ビールグラスに入った酒は、瞬く間に喉を通り過ぎた。
「自分を制御できなかった……」
今も制御できていない。
この結婚話は、聖蓮尼に全てがバレてしまったことで、瞬く間にまとめられた。くるみが乗り気だったため、あれよあれよという間のこと。
衆人環視であのようなロマンティックさでハグを見せつけたとあっては、それはもう結婚するしかない。
しないなら、性犯罪者扱いされる上に、くるみは傷モノにされた可哀想な子にされてしまう。
「運命に打ち克った者が、何を細かいことを言うておるか」
「人間にしか分からないことですよ、桃太郎卿」
色部は桃太郎卿に対しても、平然とそんな厭味で返した。
「人間とはせせこましいものよな。良き女がおり、美味いモノが食える。それだけでよいであろうに」
現代は、何を食っても美味い。桃太郎卿の好みからするときつい味が多いものの、ここ数か月で慣れた。
焼き上がったサバ味醂を、手で裂いて食べる。桃太郎卿は、うんうんと舌鼓。そして、酒を流し込んだ。
「うむ、喉を焼くようなこの美味よ。色部よ、麻呂は運命にあのような形で勝利した者を知らぬ。大和が始まって以来のことよ」
約束された勝利、約束された死、様々なものがあった。覆せないから、運命と呼ばれている。
「……そういうものですか?」
「うむ、人間ごときに分かろうものではないがな。誇ってよいぞ」
色部は小さく笑った。そして、サバ味醂に手を伸ばして、熱さに一度ひっこめたあとで、なんとか千切って口に運ぶ。
竹一郎もそれに続いて、焼いていたサバ味醂はなくなった。
「色部くん、結婚生活というのはなかなか辛いが、やる価値があるものだ。困ったら相談してくれ」
竹一郎が言うと説得力がある。
「ありがとうございます。支援してくれることも有難いですよ」
「支援は道反家としてだが、相談は男同士のことだ。年の差というのは、色々あるからな。個人的な応援だよ。先輩としてのね」
年の差婚では似たような境遇の竹一郎は、色部を気にかけている。鳴髪家への牽制や、優秀な色部を抱き込みたいという打算もあるが、それはそれ。
そうしている内に、聖蓮尼とくるみがやって来た。
くるみはすぐさま色部に抱きつく。
「色部さん、全部うまくいったよ」
「そうか、よかった。俺が行かなくて、本当によかったのか?」
もう決まったこととなれば、隠す必要などない。それに、くるみという女はこうならなくても見られて平気だ。むしろ、見せつける女である。
「いいの。あっちは雨降りだったし、複雑だから。これでいいの」
天気のことと同じように、軽いものだとくるみは言う。
竹一郎と桃太郎卿も、これには苦笑い。
特に、竹一郎の場合は、妻と同じタイプで苦労するだろうなあ、という仲間意識が強かった。
「こら、男共め。先に酒をやるとはどういうことか。……また良い酒を飲みおって」
聖蓮尼も合流してきた。
実戦には参加しなかったものの、聖蓮尼は退魔十家の調整に尽力した。
くるみを狙うであろう他家全てをけん制してきたのだから、その労力は推して知るべし。
「麻呂が持ってきた奈良の地酒でおじゃる。それ、尼も呑みやれ」
「ご相伴に与りましょう」
その様子を見て、小夜子は笑った。
「ほほほ、大人というのは酒が好きなんじゃなあ。ほれ、クルミンよ。わらわと茶菓子でも食おう。酢昆布があるからの」
「うん、今行くね」
誰一人として。食事を用意する若松を手伝おうという者はいない。
それがいいか悪いかは別として、若松本人は全く気にしていないし、あえて言うなら、手伝いなど必要無いと本人も応えるだろう。
台所で保存食やら古くなった食材をまとめて調理している若松に、ひっそりと近寄る小さなものがあった。
そう、地下東京の一件から聖蓮尼と共にある、奈落の蜘蛛神。その分身である小蜘蛛であった。
人間の寿命など神の感覚では瞬き程度。
待つことに慣れきっている蜘蛛は、全く諦めていない。女性的な面を持つ神格らしい執念であった。
忙しく働いてる若松を、蜘蛛はつぶらな瞳で見つめている。
蜘蛛は懐かしい気配に気づく。
若松の背に張り付いている小さな小さな、別の蜘蛛だ。なぜか、神でないと気づけないほどに小さな妖気を持っているし、見覚えがある。
『……』
もうずっと昔、地下の奈落にやって来た人間がいた。
復讐だか恨みだか、詳しいことは覚えていないけれど、そんなどうでもいい理由で力が欲しいというから、戯れに与えたことがある。
『……』
蜘蛛はイラっと来た。
同じ蜘蛛でも、あれは自らが戯れに与えただけの紛い物。同じ蜘蛛のくせして、どうして若松の背に張り付くのか。
神技などという言葉があるが、まさにそれで蜘蛛は若松の背に取りつき、泥棒猫ならぬ泥棒蜘蛛にかじりついた。
『ひいっ、どうしてあなた様が、死にたくない。助けて、お助け下さい。死にたくな』
泥棒蜘蛛は、蜘蛛の言葉でそんなことを言うが、構わず捕食を済ませた。
自らの爪先にも満たぬ一部が戻るというだけで、美味いものではない。
そんなことよりも、蜘蛛は若松の背中の心地よさに陶然とした。
心地よい体温を感じてうっとりと張り付いている内、どうでもよくなり泥棒蜘蛛のことなど忘れてしまう。
こうして、長く生き続けた若菜姫は、魂魄すら残さず完全に消滅したのであった。