小夜子が退魔師に依頼すること
小夜子が向かったのは池袋である。
いかがわしい通りを抜けた先、とある雑居ビルまで縮地で進む。
レンジのことをどうやら嫌いではないようだ。
小夜子自身が思うところだが、一緒にご飯を食べてみれば、そんなに悪くない。作法も所作もできていないものだから、世話をしてやろうという気持ちになった。
今はそんなことを考えている時ではないのだが、年頃の女の子であれば詮無きこと。
目的地に着いて、気持ちを引き締めた小夜子である。
雑居ビルの一室には、「色部事務所」とプレートがかかっている。
立地からしても、違法な風俗スカウト事務所か金貸しにしか見えないような場所だった。
「予約しておった間宮じゃ。入らせてもらうぞ」
ドアに結界がある。許可なく入らせないようにするものだ。
無理矢理に入ることもできるが、ケンカをしに来た訳ではない。
「どうぞ」
ドアはすんなりと開いて、中はそこそこ重厚な造りの応接室のようだった。無理に金をかけたであろう内装である。
マホガニーの大きなデスクにはノートPCがあり、それを見つめる目つきの悪い男が、じろりと小夜子を見た。
「お待ちしておりました。間宮小夜子さん、どうぞ、おかけください」
対面の椅子に座るよう促す男は、色部三郎という名の退魔師である。
高級スーツを着こなした三十代前半の伊達男。
怜悧な眼差しと酷薄な印象の顔立ちは、充分に男前だ。モデルと言っても通るだろうが、雰囲気は剣呑そのもの。それでも、色男なのには間違いない。
抜き身の刃のような男であった。
かつて、退魔師専門学校で最優秀成績を修めながらも、霊力の極端に少ない生来の才能からフリーの退魔師にしかなれなかった男だ。
実力では三流とされているのに、今まで一度の敗北も無く、大妖怪ですら調伏している。
「うむ、良い話を持ってきたからの」
椅子に腰かけた小夜子は、高級そうな椅子の座り心地に感心する。
「それは詳しく話を伺ってからです。聖蓮尼からの紹介があったので時間をとりましたが、中身を聞いてから受けるか判断させて頂きます」
「うむ、それがよいな」
そこで、小夜子は一度言葉を止めた。彼女にしては珍しく、意を決して言葉を続ける。
「鳴髪家の次女を鍛えてもらいたい。期間は半年内として、卒業試験とでもいうべきかの。若菜姫という妖物の息の音を止めるところまで面倒を見てもらいたいんじゃ」
若菜姫、という名で色部の視線が鋭くなった。
「アレは既に倒されていたはずですが」
戦後に暴れた大妖怪だが、すでに調伏されたという記録がある。
「ほほほ、あ奴は生きておる。人の世に潜んでどれくらいかのう。眷属を使うて、上手く人間に成り代わっておるわ。本来ならば、わらわの手で始末をしてやるところじゃがな。そなたとクルミンの運命というヤツでのう」
色部は小夜子の言葉を何がしかの言葉遊びと捉えたようだ。
「……提示の金額が事実なら、それが妄想でも引き受けますよ。存在しない妖物であっても、返金はしませんがね」
にんまりと小夜子は笑んだ。
「そう言うてくれると思っておったわ。明日には振り込ませるでな。鳴髪家には聖蓮尼とわらわ、それに道反殿と返矢会長に頼んで黙らせるから心配いらんぞ」
「はは、大きく出ましたね。連中と揉めたところで、私は別に困りませんよ」
十家とは相当に仲がよろしくないのは本当らしい。
小夜子は小さく笑んだ。
くるみの未来に登場した彼は、もっと屈折していた。
「色部よ、そなたは恋というものをどう思う?」
色部は驚いた顔をした。あまりにも、突然で予想外の質問だからだ。
フリーの退魔師である色部だが、小夜子の逸話は聞き及んでいる。そして、この話が持ち上がった時点で念入りな調査まで行っていた。
まさに、怪物。
小夜子を言い表すにはそれしかない。怪物が語る恋とはいかに。
「そういう年齢は過ぎましたよ」
「ほほほ、いつでも恋は突然じゃ。わらわは、今から悪いことをするぞ。抵抗してくれてもよい」
小夜子の手が、色部の左手に重ねられた。
色部の決断は速い。
空いている右手で、握り込んでいた水銀自在剣を発動し、小夜子の額を貫く。そして、真言を唱えて自在剣を通して脳を焼き尽くさんとする。
霊力の少ない色部が得意とする体内破壊法であるが、小夜子はそれを受けても死なない。
「式よ、喰いつくせ」
事務所の床から這い出した邪鬼は瞬時に実体を得て、小夜子に食らいつく。
色部の使役する邪鬼は日本国内のものではない。霊力の質からして、北欧のものだろうか。長髪を振り乱した人食い鬼のようなものであった。
「この間合いに入れたのは失敗じゃったの。邪鬼よ、動くな」
ぴたりと、邪鬼が動きを止める。
「色部よ、そなたに未来の可能性を見せてやろうぞ。これは記録でしかないが、有り得たかもしれん未来じゃ」
「ぐっ」
舌を噛み切って自害しようとした色部だが、身体の自由を奪われてそれすらもできなかった。
左手を起点にして、体内に異質なものが侵入している。
それが、宇宙の深淵より来たるエリンギ様の菌糸であるなどと、色部にも想像がつくまい。
「このようなことをするべきでないのは分かっておる。恨んでくれてよい」
色部の脳裏に、知らない記録が巡る。
あり得たかもしれない未来で、鳴髪家は没落する。
原因は現当主であり鳴髪くるみの母でもある竜胆が、夫に惨殺されたことに端を発する。
夫婦の寝室でのことだ。表向きは夫婦喧嘩の末に起きた殺人事件である。これが原因で、鳴髪家は内部で割れてしまった。
鳴髪くるみは紆余曲折を経て全てを失う。その後、父が若菜姫という妖物に誑かされていたことを知る。
この未来での鳴髪小夜子は引っ込み思案の女でしかなく、両親と縁が切れたのをいいことにどこかへ消えてしまった。
くるみに遺されたのはそれなりの金銭だけ。
若菜姫への復讐に燃えるくるみは、色部三郎に若菜姫という妖物を探し出すよう依頼することとなる。
若菜姫はあまりにも強大な妖物であった。
雷神の術だけで到底敵う相手ではない。そして、その存在そのものが疑問視されており、助力を頼む相手もいない。
くるみが色部に依頼したのは、独力で若菜姫を倒す方法を探ることであった。
色部はそれを引き受けた。
くるみに外法の技を教え込み、その過程で関係を持つ。
処女のまま穢れることで、異常なる法力を得る色魔外法術。
色部にとっては実験を兼ねた遊びであったというのに、いつしか、彼はくるみを愛してしまった。
色部が自らの愛を理解するのは、くるみを永遠に失った後のことである。
「やめろッ」
色部が叫ぶと同時に、小夜子は術を解く。そして、額に刺さっていた水銀自在剣を引き抜いた。
「ふ、ふざけるな!! 妙な術で、私があんな小娘などに、そんなことがあってたまるかっ。鳴髪家の小娘だと、そんなことがあるはずがないだろうがッ」
額から汗を流して、色部が叫ぶ。
色部は学生時代に、その才を妬まれて鳴髪家からは相当の目に遭わされた。それを撥ねのけていたとしても、恨みはある。
くるみを穢すというのは、それも理由の内であった。
「わらわがこうした以上、その未来はなくなった。色部よ、この依頼を断っても運命は巡りよるぞ」
「この事務所の中でなら、お前みたいなバケモノでも殺せるぞ!」
「お前はそれをやらん。認めておるじゃろ。アレは有り得たかもしれん未来じゃ。自分のことであれば、分かろうものよ」
色部は言葉を失くした。そして、頭を押さえて呻く。
小夜子はバツが悪いといった顔で、息を吐いてから口を開いた。
「金は振り込んでおくからの。断るなら、それはそれで構わん」
立ち上がった小夜子は、額の傷口をつまんで消してしまうと背を向ける。
「余裕のつもりか、バケモノめ」
何か言おうと考えた小夜子だが、何も言えない。
当人たちのことに口を挟むのは、よくないことだろう。こうしたのは、未来も何も関係ない。ただ、小夜子がそうしたいという独善だ。
【あちら側】より戻り、異界の肉体を持ち得た。かつての記憶と比較しても、人間という枠から外れつつあるのは小夜子自身が分かっていたというのに。
今の自分自身は、まるで人間の小娘のようではないか。
事務所を出てから、縮地で夕暮れの街を駆ける。
ビルの屋上に辿りついた小夜子は、夕暮れの東京を見下ろした。
たくさんの人々がここで生きている。
妖物などに関わっているのは、ほんの一握りだろう。
「バケモノであった方が、よほど楽であったというのに……」
小夜子の口から、自嘲的な独り言が漏れた。
「その気持ちは、分かります」
そのように声をかけたのは、いつの間にか隣にいる【膨れ女】こと返矢テコナだ。
「いつから見ておった?」
「未来の傾きのあるところが見えてしまうだけですよ。それ以外は、私、そんなに強くないので」
矛盾を孕んだ邪神であるテコナの言葉が真実であるかは分からない。
テコナは【這い寄る混沌】と呼ばれる邪神である。この邪神はいくつもの姿を持ち、それぞれが矛盾しながら独立して存在する同一存在だ。
「やはり傾いたか。わらわは狙ってやってはおらんぞ。ただ、……」
そこで、小夜子の言葉が止まる。続けたいが、言葉が見つからない。
テコナはそんな小夜子に対して、少しだけ笑んでからこう言った。
「オタ丸くんと私は未来で出会いました。彼は半ば発狂していたんですけれど、私の顔を見れた唯一の存在だったんです。最初は顔を描かせて遊んでたんですけど、いつの間にか彼を愛していました」
未来のオタ丸は、テコナが出会った時にはすでに発狂していた。
本当の顔を自分自身すら認識できない【膨れ女】をオタ丸だけが視認できる。そして、美しいとまで言った。
テコナも最初はただの遊びだったのに、いつしか愛していた。
「返矢テコナよ、そなたも未来から来たモノか?」
「いいえ。未来の私から情報を得ました。その時に、同期してしまったんです。驚きましたよ。まさか、私が人間なんかに」
「……」
「間宮さんの気持ち、分かるつもりです」
小夜子は、若松と、ギャル谷と、碧と、誠士と、朱音と、鳴髪小夜子と、聖蓮尼と、くるみと、沢山の人と出会ってしまった。
「湿っぽいのは苦手じゃ。ピザでも食べたい気分じゃの。なんぞ、よい店は知らぬか?」
「そうですね、案内しますよ」
その後、テコナと二人でピザを食べた。ファミリーレストランスタイルの大衆的な店で、どれも普通に美味しい。
会話の大半は、テコナによる惚気で小夜子は閉口した。
レンジのことは、嫌いではない。しかし、どういう好きであるのかは小夜子にも分からないでいる。