若松vs蜘蛛とビエさんとミニ小夜子
ビエさんこと水蛭子神を通して一部始終を見ていた小夜子は、盛大に頭を抱えたくなった。
「若松め、悪い癖が出おったわ」
明らかなメンヘラ神にあんなことを言ったら、こうなるに決まっている。
「あれはビエさんが止めるべきでしたね」
メガネちゃんも呆れた様子でそう言った。
これこそが、男と女を隔てる深い溝だ。
「わらわも、行くとするか。巻き込まれた屍食鬼たちは気の毒じゃが、あの場の者しか連れては帰れんな」
小夜子はそれができる。そして、多数を切り捨てることも。
「止めないですが、それはオススメしません」
「メガネちゃんには考えがあるのかや?」
「あの蜘蛛を正しく失恋させてやればいいのですよ」
無理を言う。人型ならまだしも、あれは蟲の性質が強い神だ。人とは相容れない。
「キノコが色恋を語るか」
「ふふ、それは会長から学びました。それに、私たちには無い可能性が人間にはあるのですよ。世界の危機ではありますけど、それに賭けてみませんか?」
「ギャンブルは嫌いじゃ」
「言い方を変えましょう。若松くんを信じてみませんか?」
それを言われると、小夜子も信じない訳にはいかない。
憧れの四天王は揃わず、地下東京と観語一族の支配者となっても、家族は一人しかいないからだ。もちろん、兄上は数に入れていない。
「メガネちゃんよ、その勝率はいかに?」
それを聞いて、メガネちゃんは見透かしたように笑う。気に入らんヤツ、口に出さないが小夜子はそう思う。
「間宮さんの声を届けます。それなら、奇跡くらいの勝率にはなりますよ」
「お前、本ッ当に気に入らんヤツじゃな。早くそれをやらんか」
メガネちゃんが小夜子の手を握る。
菌糸による超次元ネットワークが、小夜子を侵食する。人間であれば、すぐさま人の形をした茸になっていただろう。
異界より来たる超越生命の肉体を持ち、異界邪神の胎より生まれ直し、【あちら側】から戻った魂である小夜子であれば、それと同期できる。
「メガネちゃんよ、このために仕組んだな」
新たな知覚を持ち得た小夜子は、エリンギ様の1パーセント未満を理解した。
「仕組んではいませんよ。予定外と予想外の果てに辿りついた通過儀礼です」
小夜子は納得がいかない気持ちを押し殺して、超次元菌糸ネットワークを通じて若松へ接続するのであった。
若松の足は糸に絡めとられ、微動だにしない。
「蜘蛛さん、こんなことしても、余計に寂しくなるだけですよ」
若松はこんな時でも誠実に言葉を投げかける。
「傍にいて。あなただけでいいの。あなたがいてくれたら、もう寒くない。寂しくない」
柔らかな毛にわさわさ覆われた蜘蛛の足が、若松を絡めとる。
どこか、それは官能的な仕草であった。決して喰い殺そうというものではない。
『お前、ホンット馬鹿! 逆効果に決まってるのに、このヤンデレプレイボーイ!』
ビエさんは言いながら、蜘蛛の巣の上を歩いて若松に近寄ろうとしている。
なんと恐るべきことか! 蜘蛛の巣という支配地で、アマビエという仮の身体であったとしても、水蛭子神は蜘蛛神になど縛られない。
「ビエさん、近づいたら危ねぇっ、あっしのことはいいんで皆さんを外に」
ビエさんの、つぶらな瞳が若松を見た。
『こんの野郎、昭和風味のナイスガイめ。そんな男気、惚れてまうやろ。オレはお前のことが気に入った!』
「そんなこと言ってる場合じゃありませんって」
『若松、オレの名を呼べ』
ぞくりと、若松の背中に氷柱を差し込まれたような悪寒が走った。蜘蛛に絡めとられていることよりも、水蛭子神の問いかけはよほど恐ろしい。
『現世は面白いな。何者にも成れない宿命すら、人は覆せる。オレはそれが見たかった。お前になら、父上と母上ですら流し遣ることしかできなかったこのオレが力を貸す。小夜子にもやらんことだ。さあ、どうする』
ビエさんという外皮の内側から、水蛭子神は問いかける。
かつて、このようにして英雄になった者はいる。土蜘蛛たちが恐れたヤマトの化身も、その一人だ。
「ビエさん。見くびらんでください。女のことで誰かにケツ拭いてもらおうなんて甘ったれたこと、できねえんですよ」
この場合、蜘蛛の行いは沙織と同じくストーカーみたいなものだが、若松という男はそれが言える。
小夜子に拾われてから、強い者などいくらでも見た。だが、カッコイイと思えたのは主人である小夜子だけだ。
若松は小夜子からそれを知った。だからこそ、それができる。
『いいなぁ、コイツ欲しいなァ。小夜子が羨ましいぜ』
「海の御方、邪魔しないで。欲しいのはこの人だけなの。お願い」
蜘蛛は、ビエさんの気配が凪いだのを見計らって、そのように言う。
『あーあ、若松の好きなようにさせてやる。オレにそうさせるとか誇っていいぞ。その代わり、イカスとこ見せろよ』
ビエさんはそこで立ち止まって、蜘蛛と若松を見るだけだ。
見かねたクマヒがビエさんに問う。
「助けてはくれないのですか、どうしてッ」
『男が決めたことに口挟むほど、野暮じゃないってことよ。カー、女には分かんねえだろうなァ』
「そんな、蜘蛛の神に人間が対抗できるはずない……」
『バッカな土蜘蛛だなァ。あいつは今、それを自分で決めてやってんだよ』
若松はなんとか上半身だけで、蜘蛛の抱擁から逃れようともがいている。しかし、それはただの人間には不可能なこと。
「現世は辛いことばかり。たった一人、寂しいまま。わたしと共にいましょう。二人で寄り添えば、暖かい。それ以外、何もいらなくなる」
蜘蛛の囁きが耳朶に優しく染み込む。
瞼が、重くなる。
「お母さんになってあげる。だから、一緒にいましょう。外はとても寒いわ。ずっと守ってあげるから……。あなたのためなら、どんなこともできる」
蜘蛛の存在が、また変質する。
奈落とは【あちら側】との境界。
精神の奥底は奈落に繋がり、蜘蛛はそれを守護する。人が独りであるための、境界を塞ぐ夢と自我の千曳岩。
「あなたのためだけに、わたしはいる」
境界が開いて奈落の蓋がなくなれば、人は境界を失うだろう。
蜘蛛が蜘蛛のままであれば、そうはならなかった。
若松に恋をしなければ、小夜子に奈落へ追いやられても、地底で巣を紡ぐだけの存在であっただろうに。
小夜子に恐怖を抱き、若松に温もりを求めた蜘蛛は、もはや蜘蛛ではない。
『奈落が開けば、オレも出なきゃいけなくなるなァ。それはそれで、別にいいさ。未来はそちらにまだ傾いてるから、遅かれ早かれだ。だから、若松よ、見せてみろ』
蜘蛛の安らぎに充ちた匂いは、幼児のころを思い出させる。
母の手をつないで歩いたあのころ。
三歳くらいの時だ。
過去の幸せが、未来を呪う。
「お母さん……」
瞼が落ちる。
「いいの。お腹が空いたらお乳をあげるわ。あなただけ、あなただけを守ってあげる」
赤子が乳を求めるように口を開いた若松は、自らの手首を噛んだ。
皮膚に歯を深く食い込ませて、嚙み千切る。
血飛沫が舞う。
「もう子供じゃねえんだ。お守りはいらねぇ」
手のかかるお嬢様のお世話をしなければならない。彼には、何より大切なことだ。
若松の手から流れた落ちた血が、蜘蛛にかかった。強壮なる蜘蛛の脚から白い煙が上がって、どろりと腐る。
「どうして、どうしてなの。わたしはあなたのお母さんなのに」
それを聞いて、若松が顔を上げた。
怒りなのか、泣き顔なのか、どちらともいえない顔であった。
「くだらねえンですよ。あっしのお母さんはクソ女なんでぇね。七つのガキを放り出して、ホストに入れ込んだクソバカ女だッ。ふざけんなクソ婆、本当はぶん殴ってやりてぇっ。ずっとそう思ってたぜ! 自分の親に直接言えねえから、ガキに電話させて金を借りさせるような売女が、あっしの母親なんだよっ」
「どうして、そんなことを言うの」
「アンタがそうじゃねえからだよっ。あんたが蜘蛛でも、本当にお母さんだったら、よっぽどよかった。でもそうじゃねえ。そうじゃねえんだ。あのクソ女の血が俺にも流れてやがる。見ろよ、血がついただけで、アンタの手まで腐っちまった……」
若松の瞳から、涙が零れ落ちる。
ガキのころなんて無かったらよかった。若松は、そのように考えることがある。
産まれついて大人だったら、どうにもならない気持ちが不意に湧き上がることもないのに。
蜘蛛はつぶらな八つの瞳で、若松を見つめる。
反抗期の子供に何も言えないでいる母親のように、立ち尽くすだけ。
「ここで分かっちまった。お嬢様に会わなかったら、あっしもクズだった。女を手籠めにして、脅すような、クズ野郎だ。それが、あっしなんだよ……。畜生、カッコヨク生きてえってのに、この血が、邪魔しやがる」
流れ出る血は、蜘蛛の肉体を腐らせていく。
「あああああ、わたしは、ただ、お母さんになりたかっただけなのに」
「余計なお世話だッ、親なんていらねえっ。あっしにはお嬢様がいる! お前なんかいらねえっ」
蜘蛛は若松を放した。そして、自らの脚で頭を覆う。
「うわああああん」
蜘蛛が泣く。
人のように涙を流して、うずくまって咽び泣く。
『……素晴らしい』
水蛭子神は感動していた。
このままこの男を逃してしまうのが惜しい。
何の力も無いというのに、奈落の神を篭絡して絶望させた、恐るべき人間。これほどの人間を神が放っておくはずない。
「若松くん……」
沙織はそれ以上の言葉をどうしても発することができない。
彼の慟哭は、沙織の持つ何をもってしても癒すことなどできないと分かるからだ。それは、クマヒも同じだ。だから、かける言葉は無い。
歯を食いしばり、声を殺して泣く男と、すすり泣く蜘蛛。
仮初にすらなれなかった親子。
『オレは気に入ったぞ』
アマビエの身体、ヒレの部分がひび割れて落ちる。
水蛭子神は自らの意志により、境界を壊してでも若松を自らの眷属にするつもりであった。だから、他のことはどうでもいい。
「そうはいかんぞ、兄上」
朗々と、小夜子の声が響き渡る。
若松の、手の傷口から声がしている。
「若松よ、ようやった」
傷口に黄色い菌糸が一瞬で生えてその傷口を塞ぐ、そしてにょきにょきと伸びたキノコが、形を変えていく。
『うわ、なんだお前、キモちわるッ。キモ~い』
手首から生えたキノコは、三十センチくらいの大きさになって、それが弾けて中から手乗りサイズの小夜子が飛び出した。
ぴょんと跳んで、ビエさんの頭に降り立つ。
「兄上、よくもまあそのナリで人のことをキモいなどと言えるものよ。そんなことより、約束を破るつもりであれば容赦せんぞ」
小さな手乗り小夜子が、異常なる殺気を発した。
『ちっ、分かったよ。お前が来た時点で失敗だし。反省してまーす』
状況をいち早く察したのは、小夜子の非常識に慣れた若松である。
「え、お嬢様ですか。小さくもなれるとは、流石はお嬢様です」
自分の手首と小夜子を見比べて、若松は涙を拭いてヨイショした。
「うむ、新技じゃ。ミニ小夜子とは、今のわらわのことよ。助けてやろうと思ったが、余計なお世話だったかの」
ニヤリと、ミニ小夜子は若松に向けて笑む。
「お嬢様に助けて頂けるなんて、この若松、光栄です」
若松も、精いっぱいの笑みを浮かべた。この御方にだけは、小夜子にだけは、泣き顔なんて見せられない。
笑みだけで、言葉以上を通じ合える主従であった。
「ほほほ、よう頑張ったの。若松よ、そなたこそ、わらわが第一の臣じゃ」
「ありがたきお言葉です」
それを見ていた蜘蛛は、今度こそ敗北を知る。
母親を必要としなくなった男であると、これで理解してしまった。
『あーあ、もうちょっとだったのに』
ビエさんは、ヒレを再生させて本体を引っ込めた。
「兄上は自由すぎるし磯臭いんじゃ。これでは影も苦労していよう」
ビエさんの頭の上で、小夜子は地団駄を踏むようにして彼の頭を蹴りつける。
コレのお守りを押し付けてよかったと、内心ではほっとしている小夜子であった。
『あいつ口うるさいんだよ。こっちの小夜子も大概だけど。それから、磯臭いは魚介者への差別でーす、撤回してくださーい』
「やかましいわ。口が酸っぱくなるまで言わんと、兄上はハジケ続けるじゃろうが」
『将来の夢はハジケリスト』
「相変わらず腹の立つ世界観をしおって」
ビエさんは、ケケケと笑った。実に、彼らしい自由さだ。
『若松、さっきのは有効だからな、その気になったらいつでも呼べよ。オレはそろそろ帰るわ。まあまあ楽しかったぞ』
「兄上、ここを閉じてくれんのか」
『それは蜘蛛がやるだろ。じゃあな、また会おうぜ』
ぴょんとアマビエの身体が跳ねると、小さな破裂音と共に消えてしまった。
頭の上でそれに巻き込まれたミニ小夜子は、空中で宙返りしてヒーロー姿勢で蜘蛛の上に降り立つ。
「蜘蛛よ、もうよいじゃろう。わらわもそなたを殺す気が失せた。悪いようにせんから、夢の世界を閉じよ」
「……うん」
蜘蛛が、展開した時と同じ光を放てば、世界は元の地下東京に戻っていく。
山寺で展開したヒルコの海が消え去っていったのと、それはよく似ていた。
若松は、しゅんとしてうずくまる蜘蛛を見た。
人間ほどの大きさの蜘蛛は、その視線から隠れるように丸くなる。
何か言おうとした彼を、沙織が手を握って止めた。
「今は、ダメ」
「いや、そういうつもりじゃあないんですが、言いすぎちまって……」
泣き顔をみんなに見られた。バツが悪いとはこのことだ。
「ダメだよ。男の子には分からないだろうけど、女には分かるの。今はダメ」
空いていたもう片方の手を、クマヒが握った。
「沙織の言う通りです。今は、ダメです」
光が消え去って、地下東京は元の姿を取り戻す。
何が起きていたか把握していない屍食鬼たちは、うなだれる蜘蛛の神を見つけて、またしても小夜子がやってくれたことだけを知った。
こうして、地下東京は長い夢から目覚めたのである。