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プラリネ  作者: 九藤 朋
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君はプラリネ

 富み栄える家にもやがて黄昏の時は訪れる。

 春の麗らかな気候に反するように、クロスカヤ家の周囲には不穏な空気が漂い始めていた。

 噂が、流れたのだ。

 曰はく、卵、塩、蝋、水、砂糖を持ってクロスカヤ家の人間が墓場で怪しげな儀式を行っていたと。

 曰はく、屋敷内に飾られるイコンは体裁を繕う為のもので、内実はキリスト教を、ひいては正教会を軽んじ蔑んでいるのだと。

 極めつけはクロスカヤ家の人間は悪しきコルドゥン、コルドゥーニヤであり、恐れ多くも皇帝陛下に対し叛意を隠し持ち、呪詛しているというものだった。

 いずれも悪意を持つ者の心無い中傷であろうとクロスカヤ侯爵は断じたが、クロスカヤ邸を訪れる客足は途絶え、ソルダチェーンコフ夫人もマーモントフ伯爵夫人もぱたりと訪問をしなくなった。侯爵はギルドで白い目を向けられるようになり、商売にも差し障りが出るようになった。

 クロスカヤ夫人・アデリーナは心労から病気がちになり、一日のほとんどをベッドで過ごした。

 イリーナは突然、始まったこの悪夢のような事態に成す術を持たず、母を看病しながら自分がしっかりしなければと気丈に振る舞うよう努めた。只、セルゲイの前でだけは気弱な本音の心情を語り、時に涙ぐんだ。

 明らかにクロスカヤ家を標的にした何者かの仕業だと思ったセルゲイは、この悲劇の紡ぎ手を暴こうと躍起になったが、それは雲を掴むような話で、彼は自分の無力に唇を噛み締めて俯き、両手を強く握り拳を作った。

 噂は加速する一方で、クロスカヤ邸にサンルームがなく、家が北向きなことも取沙汰され、それまで封じられていた疑念の目、つまり、クロスカヤ侯爵たちは人外ではないのかという声さえ上がるようになった。それは最も避け得るべきことであったが、その最悪のことが現実となってしまったのだ。ユダヤ人を多く雇っていることも、疑念に拍車をかけた。

 反面、皮肉なことにその逆境の中、イリーナとセルゲイの仲は急速にそれまでより親密になり、セルゲイの、イリーナを支え、守らなければという強い意志が、辛うじてイリーナの心の均衡を保っていた。セルゲイの脳裏には永劫の森がちらついていた。侯爵の懸念していたことが肉迫して現実味を帯びてきた今、ヴォルゴグラードを目指すことも視野に入れておかねばならないと思った。がらんとした客間の椅子に座り、顔を両手で覆うイリーナの肩に手を置く。


「イリーナ。僕と遠くに逃げる気はある?」


 顔を上げたイリーナのエメラルドは潤み、彼女は静かに首を左右に振った。


「お父様たちを置いては行けないわ」

「……そうだね」


 その父であるクロスカヤ侯爵が、そして母であるアデリーナがいなくなる可能性があることを、イリーナは考えていないようだ。或いは、その思考から逃避しているのか。彼女の気持ちが痛い程よく解るだけに、セルゲイはそれ以上言及しなかった。イリーナの頬に口づけるに留め、抱きすくめたい衝動を堪えた。


 憲兵の制服に身を包んだミハイール・アクサーコフが部下を引き連れてやって来たのは、朝焼けが血を連想させるように赤い日の始まりの頃だった。彼は凍ったような亜麻色の双眸をクロスカヤ侯爵に向けて告げた。


「悪しき呪術で皇帝陛下に反逆せんとする疑い、濃厚な為、貴殿を捕縛する」


 憲兵がクロスカヤ侯爵を取り囲む。

 アデリーナが奇声のような悲鳴を上げて、ミハイールに取り縋った。


「何かの、何かの間違いです。お願い、せめて裁判で公正な法の裁きを」

「――――残念だがそれは出来ない。侯爵には危険思想から革命を企てた実質的な疑惑もある。シベリアに送るには十分な罪状だ」


 ミハイールの亜麻色の氷を憐憫の情がかすめるが、彼はアデリーナの懇願を容れようとはしなかった。

 気を失うアデリーナを老執事が支える。マリアはイリーナの肩を抱いて涙ぐんでいた。

 クロスカヤ侯爵一人が哀惜と静けさを持ち、人々を見ていた。やがてその視線がイリーナに留まる。


「セルゲイを頼りなさい」


 彼は一言そう言って、憲兵たちに大人しく縛された。今ではセルゲイの父・コーコレフ伯爵の立場も安泰とは言えず、イリーナを守れる人間はごく限られていた。イリーナは、これが最後になるかもしれない父の指示に固い表情で頷く。


 ミハイール率いる憲兵とクロスカヤ侯爵が屋敷を出ると、脱力したイリーナはその場に座り込んだ。マリアが泣いている。そこに、息せき切ったセルゲイが駆け付けた。


「イリーナ! 」

「セルゲイ……」


 二人はひしと抱き合った。イリーナはもう涙を堪え切れなかった。


「お父様が憲兵に連れて行かれたわ」

「うん。……見たよ」

「私、私、お母様を守らないと」


 だがその必要はなくなった。

 クロスカヤ夫人・アデリーナは寝室で頸動脈をナイフで切り、息絶えていた。血の湖に浮かぶ物言わぬ躯は生前と変わらず美しく、却ってそれが奇妙だった。シベリアに送還されては吸血鬼の末裔だろうと生還は難しい。アデリーナは先行きを悲観し、絶望の余り、イリーナを置いて逝ってしまったのだ。


 イリーナには、もう、気力の一欠片も残っていなかった。泣くことすらあたわず、セルゲイに手を引かれるまま、客間の一室に向かう。マリアがセルゲイの指示を受けて泣きながらイリーナの荷造りをしている。人間は恐ろしい。猜疑心に満ちた人々が、いつ暴徒となってこの屋敷に押し寄せるか知れないのだ。


 かたん、と音がしてセルゲイが振り返ると、そこにグルフィヤが立っていた。手には不似合なサーベル。気位の高い彼女が、ぼさぼさの髪で歪な笑みを浮かべて、イリーナとセルゲイを見ている。


「グルフィヤ」

「どうしてなの? どうして、その女なの。全部、壊したのに。どうしてまだ一緒にいるの。呪いだって、ちゃんとしたのに!!」


 ここでクロスカヤ家の没落のからくりに、イリーナもセルゲイも気づいた。グルフィヤは憲兵将校の娘ではないか。それとなく、父親の意識を操作することも、彼女であれば可能だった筈だ。悪い噂の出所も恐らくは彼女なのだろう。それが流布するだけの素地があったのもまた確かなのだろうが。


「セルゲイ。セルゲイ。セルゲイ。ねえ、私の手を取って。それは悪魔に魅入られた女よ」

「悪魔に魅入られているのは君のほうだ。――――何と言うことを」


 セルゲイは最後まで言い終えることが出来なかった。グルフィヤのサーベルが彼を急襲したからだ。一瞬、二人は揉み合うようになり、その鋭利は思わぬところに向かった。


「イリーナ!」

「セルゲイ、だい、じょう、ぶ?」


 背中を斬られたイリーナの口から赤い液体が溢れ出る。ごぽりと溢れてそれは止まらない。

 グルフィヤはセルゲイを手に掛けようとした。意のままにならないならばいっそ、ということだったのかもしれない。理由を明白にしないまま、グルフィヤは客間を老婆のような足取りで去った。


「イリーナ、イリーナ」

「よか、た。あなたが、無事、で」

「どうしてこんな。君を喪うなんて、僕には耐えられないのに」


 ふふ、とイリーナが小さく笑った。笑った瞬間にまた赤が溢れる。


「同じね。わたし、も、あなたをなくすなんて、嫌」

「――――イリーナ。僕の血を飲んで。直接だ」


 微かに見開かれるエメラルドの瞳。

 セルゲイの言うことを実行すれば、イリーナは助かるかもしれないが、セルゲイ自身が人間の枠からはみ出てしまう。逡巡するイリーナの口元に、セルゲイは自ら首を晒した。


「飲んで、イリーナ。それから、遠くに行こう。二人で」

「とお、く」

「ヴォルゴグラード。永劫の森だ」


 薄れゆく意識の中、イリーナは聞き覚えある名前だと思った。いつだったか、父が話してくれた。けれどもう、今は全てが判然としない。


「イリーナ。僕は一生、君のプラリネでいたい。なぜなら君こそが、僕にとってはプラリネに等しいから――――」


 セルゲイの涙が雨のようにイリーナに降りかかる。甘い雨だとイリーナは思った。セルゲイが、泣くのは辛いとも。イリーナは残る力を振り絞って、セルゲイの首に歯を当てた。例えようもない程の至高の味と香りが口中に広がる。全身に温かな波が押し寄せる。





 私のプラリネ。






 その後、住人を失くしたクロスカヤ邸は荒廃した。


 赤い朝焼けの日以来、イリーナとセルゲイの姿を見た者はいない。



                        <完>


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