二
目を覚ますと健一はベッドの中にいた。微かに鼻を突く消毒薬の臭いは、ここが病院であることを告げていた。
「健一!」
心配そうに覗き込む母親の顔が目の前にあった。身体を起こすと脇腹がズキンと痛んだ。顔も蹴られた場所がずきずきうずく。
「母さん、タマヒメ様がさらわれた」
「分かってる。村の人たちが、待合室に集まってるわ。これからどうするか話し合うんだって」
健一はベッドを降りた。寝てなさいと言う母親に首を振って見せる。
「ここに集まってるってことは、きっと僕の話を聞きたいんだと思う。だったら、行かなきゃ」
二人はにらみ合った。結局、折れたのは瑞樹だった。
「わかったわ」
病室のドアを開けて廊下へ出て、待合室はどっちだろうと左右を見渡す。右手に「診察室」の室名札が掲げられた部屋が見え、その向こうから駐在の声が聞こえてきた。
「そうしたら、三河さんの田んぼを通らなきゃならんだろ。だから僕は、畦をぐるっと回ったんだ」
健一は声のする方へ足を向ける。
「タマヒメ様の一大事に、わしが田んぼなんざ気にするかい」
待合室では数人の男たちがソファーにも座らず、顔を突き合わせて何事かを話し合っていた。その中には祖母の姿もあった。彼女は健一を見るなり目を丸くして言った。
「健ちゃん、大丈夫なのか?」
健一は祖母に頷き返し、時計を見た。針は四時を少し回ったくらいだった。彼が意識を失っていた時間は、意外に短かったようだ。
「駐在さんに聞いたぞ、健一くん」トマトのおじいさんが言った。「君の機転で、駐在さんが一味の一人をとっ捕まえることができたんだってな。よくやってくれた」
しかし、彼はすぐに渋面を作った。
「もっとも、何もしゃべろうとせんから手を焼いとるんだ。健一くん、何か知らんか?」
「三河さん。彼、怪我人なんですから、まずは私に診させてください」
白衣を着た若い男がトマトのおじいさんを止め、健一に目を向けた。
「顔は大した怪我じゃなかったけど、肋骨が二本折れてたんだ。ひどい目に遭ったね。今は痛み止めを注射してあるから痛みは少ないと思うけど、しばらく無茶はしないでね。あ、私は歳神と言って、先月からここの診療所を預かってる医者だよ。よろしく」
健一は「ありがとうございました」と言って頭を下げた。
「どういたしまして。息苦しいとか、そう言うことは無い?」
「平気です。ところで、この辺りの病院って、ここだけですか?」
「この村で病院らしいものと言えば、この診療所だけだよ。それが、どうかしたの?」
「タマヒメ様をさらった人たちは、病院へ集合するみたいなことを言ってました」
健一の言葉に村人たちがざわついた。
「まさか、先生。あいつらの仲間か?」
三河は歳神をじろりと睨む。
「馬鹿なこと言わないでください、三河さん。たぶん、健一くんが聞いたのは隣村の病院のことですよ。うちは病院じゃなくて、診療所ですから」
「隣村ったって、あっちは廃村で誰もおらんだろうが」
「なおさら怪しいでしょう。相手は人さらいの犯罪者なんですよ」
「そりゃあ、もっともだ」三河は納得した。「やつらは車を置いて行ったから、歩きで向かっとるってことだな。だったら先回りするか」
「しまった」
不意に、芝居がかった仕草で駐在は言った。
「報告書を書かなきゃならんのだった。悪いがお先するよ」
「どう書くつもりだい?」
三河が聞いた。
「子供がイノシシに襲われてたから、威嚇で発砲したってことでいいだろ」
「それらしいケガもしとるしな」
「それじゃ、後は任せるよ」
「おう。ご苦労だね」
三河は診療所を出て行く駐在の背に声を掛けてから、待合室にいる全員をぐるっと見渡し、それから低い声で言った。
「お前ら、タマヒメ様を取り返すぞ」
集まっていた男たちは、おうと気勢を上げる。
「まずは、他の男衆に声掛けてまわらんとな。それと、免許持ってるヤツは銃を忘れんなよ」
三河の指示に男たちは頷く。駐在さんが慌てて出て行ったのは、この話を聞かないようにするためかと、健一は合点が入った。あからさまな不法行為を相談する場面に、警官はいない方が都合がよい。
「あの」
と、健一は口を挿んだ。
「タマヒメ様をさらった人たち全員、ガスマスクをしてました。駐在さんが捕まえた人も、ガスマスクが外れたらすごく慌ててたし、何か毒ガスみたいなものを使ってたのかも知れません」
「そりゃあ、物騒だな」
三河は眉をひそめた。
「タマヒメ様が急に倒れたんだよね。だったら、殺虫剤じゃないかな?」
と、歳神。
「ありがとう、健一くん。お前ら聞いたか。農薬をまくときに使うマスクなら、みんな持ってるだろう。準備を抜かるなよ」
全員が険しい顔で三河の言葉に頷く。
「よし、始めよう!」
三河の合図で、男たちは待合室を出て行った。その背中を見送ってから、健一は「もう少し休んでから帰る」と言って、瑞樹とハツに先に帰るよう促した。
「まだ、どこか具合悪いの?」
瑞樹は心配そうに聞いた。
「ちょっと眠くて。薬のせいかな」
「痛み止めの副作用かも知れないね」歳神は言った。「病室で寝てくる?」
「ありがとう、先生。そうします」
「それじゃあ、起きたら電話しな。婆ちゃんが軽トラで迎えにくっから」
そう言ってハツは瑞樹を連れて診療所を後にした。
歳神は健一を病室の前まで連れて行った。
「私は診察室にいるからね。もし変わったことがあったら、ナースコールを押すんだよ。まあ、ナースはいないんだけどね。ここ」
健一は冗談に笑って見せてから、病室に入った。ドアを後ろ手に閉めるが、ベッドには向かわない。ドアの前で、じっと聞き耳を立てる。離れて行く歳神の足音が聞こえた。しかし、それは診察室がある方向とは逆に向かっていた。歳神がドアを開け、そして閉じる音を確認してから、健一はそっと病室を抜け出した。足を忍ばせて廊下を左手に進んでいくと、二つ隣の病室から声が聞こえてきた。
「……と言うことで、どうにか誤魔化せた。田中、お前にしては珍しいヘマを踏んだな?」
歳神の声だ。
「面目ありません」
聞き覚えのある声だった。
「まあ、いいさ。おかげで、いい目眩ましになった。お前を捕まえるのに忙しくしてなかったら、あの駐在も虫を運んだ連中を追っていただろうからな。そうなったら、かなり面倒だった」
「この後は?」
「隊を廃病院へ向かわせよう」
微かに電子音が鳴り、少しの間が空いた。
「山田か。隊をまとめて隣村の廃病院へ向かえ。村人が虫けらを取り返そうと待ち構えているから、適当に付き合ってやるんだ。どっちにも死人は出すなよ」
再び電子音がなった。おそらく、携帯か無線で通話していたのだろう。
「本隊が到着するまでの時間稼ぎ、ですか」
と、田中。
「いや、本隊は来ない」
「来ない?」
「細かいことを説明する前に、一つ聞かせてくれ。お前は、あの虫についてどのくらい知っている?」
「フェロモンで人を操る昆虫型の知的生命体、と言う程度です」
操る?
「命令書に書かれていた通りの返答だな。村の連中を見て妙だとは思わなかったか?」
束の間、沈黙があった。
「ええ。ヤツらは操られているように見えませんでした」
「その通りだ。私もはじめは、人間をゾンビやロボットのように変えるものだと思っていたが、あれはもっとたちが悪い」
「どう言うことですか?」
「こっちに医者として送り込まれてから、自前で調査をしたんだ。命令書は、どうにも曖昧な部分が多かったからな。それでわかったのは、あれは単に人を操るんじゃなく、好意を抱かせると言うことだ。だから、フェロモンを浴びた対象は自発的に、あの虫に奉仕するようになる。女王蜂にはべる働き蜂のようにな」
健一は息を飲んだ。歳神の言うことが事実なら、タマヒメ様を可愛いと思った気持ちは、全てフェロモンが作り出したニセモノと言うことになる。しかし、心を操られているとしたら、どうやってホンモノとニセモノを区別すればよいのか。
歳神の話は続いていた。
「恐ろしいのは、フェロモンの直接的な影響が消えても、支配力が衰えないことだ。昆虫の場合、感覚と行動がほぼ直結しているから、影響が消えればすぐに支配から解放されるが、人間はあの虫の支配を好ましいものと記憶していれば、対象自らが支配を求めるようになる」
「麻薬のようなものですかね」
「うまい例えだな。ともかく、あれは使いようによっては面白い道具になる。命令書の内容が曖昧だったのも、そのせいだろう。さし当り、宗教団体が手っ取り早そうだな。あのフェロモンを使えば、金も命も惜しまない信者をいくらでも作り出せるぞ」
「歳神さん。あんた、まさか」
「そのまさかだよ、田中。お前にも一役買ってもらうぞ」
長い沈黙が続き、田中が答えた。
「わかりました」
「賢明だな」
不意にドアが勢いよく開け放たれた。ドアにはね飛ばされた健一は廊下を転がり、強かに後頭部をぶつける。ぶつけた場所をさすりながら目を上げれば、開いた戸口に彼の肋骨をへし折った、あの男の姿があった。
「小僧」
田中はニヤリと笑い、健一の腕を背中にねじり上げて歳神の前に、彼を引っ立てた。
「やっぱり、先生はあいつらの仲間だったんだね」
ニヤニヤ笑いを浮かべる歳神を睨みつけ、健一は言った。
「驚いたよ、健一くん。田中に一杯食わせただけじゃなく、私の正体まで見破るんだからな。どうして分った?」
「タマヒメ様がどんな風に倒れたかを知ってるのは、僕以外にはタマヒメ様をさらった人たちだけだ。でも、先生は急に倒れたって言ったよね」
歳神は目を丸くして、それから愉快そうに笑った。
「まいったな。すると、今度は私がヘマを踏んだってわけか」
「タマヒメ様はどこなの?」
健一が聞くと、歳神は田中を見て「ほらな」と言った。
「この坊やは、あの虫の影響が無くても、まだ働き蜂のままだ。自分の身より、女王蜂の心配をしている。いいだろう、君の勇気に免じて虫けらに会わせてやる」
ガスマスクを着けた歳神と田中に引っ立てられ、健一は診療所の地下を歩いていた。健一は「まさか」と思ったが、幸いなことに彼らが足を止めたのは、霊安室よりずいぶん手前のリネン室だった。
歳神が白衣のポケットから鍵の束を取り出し、解錠した。ドアが開くと、部屋の真ん中に手足を拘束されたタマヒメ様が転がっているのが見えた。触角や翅が動いているので、死んだり麻痺しているわけではないようだ。健一は田中の手を振りほどいて、タマヒメ様に駆け寄り彼女を抱き起した。
「健一くんか」
タマヒメ様はしょんぼりと触角を垂らして言った。健一は、すぐに察しがついた。
「フェロモンの話を聞かされたの?」
タマヒメ様は頷いた。
「わしは知らなかったのだ。わしが、村のみんなを操っていたなど。大好きなみんなを、わしは……わしは、みんなにどうやってわびればよいのだ」
健一はタマヒメ様の頭を撫でた。タマヒメ様の触角が、驚いたようにぴょんと跳ねた。
「タマヒメ様が、みんなを大好きだって言うんなら、それでいいじゃないか」
「しかし」
健一は首を振って、タマヒメ様の言葉を遮った。
「僕もタマヒメ様が大好きだよ。それがフェロモンのせいだって言うんなら、それでも構わない。きっと、それって可愛いとか、カッコイイって理由で好きになるのと同じことなんだと思う。でも、今日は一日、君と一緒に遊んで本当に楽しかったんだ。誰かと一緒にいて楽しいって気持ちは、見た目とかフェロモンとかは、あまり関係ないんじゃないかな。だから僕は、僕の君を好きって気持ちを、ホンモノだと思うことにするよ」
タマヒメ様はうつむき、何も答えなかった。触角だけは、ぱたぱたと嬉しい気持ちを伝えていた。
「もういいだろう。そろそろ胸焼けがしそうだ」
歳神が自動拳銃を取り出して言った。
「さて、タマヒメ様には一つ提案がある。私たちは、雇い主から君を連れ帰るよう命令されているんだが、私はそれに逆らうことにした。そんなことをすれば、君が科学者どもの玩具にされるのは目に見えているからな。散々、身体をいじくり回されて、最後は標本にされるのがオチだろう」
ガラス瓶に詰められたタマヒメ様の姿が脳裏に浮かび、健一はぞっとした。
「しかし私には、誰も損をしない名案があるんだ。君には生き神様になってもらう。そう難しいことじゃない。私に従うよう、集めた連中に命じるだけでいいんだ。瓶詰になるより、ずっとマシだと思わないか?」
するとタマヒメ様は小さく羽音を立て、こう言った。
「愚かな」
「残念、お気に召さなかったか」
「神様扱いは、とうにあきておる。わしは、村のアイドルでじゅうぶんだ」
「アイドル?」
健一は思わず聞き返した。
「うむ。三河のじいさんに、そう言われたのだ」
「困ったな。それなら、こう言う方法を使うしかない」
歳神は銃口を健一に向けた。タマヒメ様は複眼で歳神を睨みつけ、カチカチと顎を鳴らした。触角はくの字に折れ曲がり、先端を鋭く彼に向けている。
「健一くんに何かしたら、ただではおかんぞ」
「君の返答次第だよ」
タマヒメ様は顎を鳴らすのを止め、触角をうなだれた。
「そう、それでいい」
歳神は満足げに頷いた。
「歳神さん」
不意に田中が声を掛けた。
「なんだ?」
歳神が目を向けると同時に、田中は歳神の顔面を拳で殴りつけた。その一撃で歳神は床に転がり、だらしなく伸びた。田中はガスマスクを外し、ふうと大きく息を吐いてから拳をさすった。
「おい、小僧。このフェロモンってヤツは、なかなかどうして侮れないぞ。お前に引っくり返されてからこっち、俺はこの可哀想な虫けらを、どうやって助けるかで頭がいっぱいだったんだ」
田中はポケットからナイフを取り出して、タマヒメ様の拘束を解いた。健一は床で伸びている歳神に駆け寄り、その顔からガスマスクを引き剥がした。
「いい判断だ、小僧」
田中はニヤリと笑って褒めた。
タマヒメ様も歳神の側にやってくると、拳を作って翅を震わせながらいきみだした。
「なにしてるの?」
健一が聞く。
「うむ。フェロモンとやらを、たくさん出せないかと思ってな」
「そう言うものじゃないと思うよ」
「おい、何を遊んでいる。さっさと出るぞ」
二人は慌てて田中を追いかけた。
地下に歳神を残して、三人は診療所の一階へ戻った。田中は無線でどこかへ連絡し、それが終わると健一に向かって言った。
「外へ出ろ。家の近くまで送ってやる」
「先生は、あのままで大丈夫なの?」
「あの伸び方なら、しばらく寝てるだろう。それに、タマヒメ様のフェロモンをたっぷり吸ったんだ。目を覚ましても妙な気を起こすとは思えん」
田中はタマヒメ様に目を向けた。
「それよりも、彼女がここにいるのはまずい。今の連絡で隊を呼び戻したんだ」
健一は頷き、タマヒメ様の手を引いて外へ出た。空は黄昏色で、一番星が見えている。診療所の前の、やたらと広い駐車場には、例のミニバンが一台だけぽつんと駐車してあった。健一は「なんで?」と物問いたげに田中を見る。
「駐在が、俺たちを乗せてここまで運転してきた。捕まえた誘拐犯と気絶した小僧を運ぶには、どうしたって車は必要だろう?」
三人は車の側に歩み寄り、田中は窓越しに運転席を覗き込んで舌打ちした。
「用心深いことだ。鍵が抜いてある」
その時、銃声が響いた。同時に、ミニバンの窓ガラスが粉々に割れた。健一が振り向くと、診療所のドアの前に歳神が銃を構えて立っていた。
「クソッ、狸寝入りしてやがったな」
田中が毒づく。
歳神は銃を構えたまま、ふらふらと健一たちに向かってきた。目は血走り、狂気じみた笑みを口元に浮かべている。
「なんで、フェロモンが効かないの?」
「いや」田中は目をすがめて歳神を見た。「あれは、じゅうぶん過ぎるくらいに効いてるだろう。ただ、フェロモンで作られる好意ってヤツは、人それぞれで違うってことだ」
確かに、健一がタマヒメ様に抱く思いは、村の老人たちや両親のそれとは、また違うものだった。
「虫を渡せ。それは私のものだ!」
そして、歳神のそれは執着だった。タマヒメ様のフェロモンは、彼女を所有物にしたいと言う歪んだ好意の形を、歳神のうちに抱かせたのだ。
「タマヒメ様は、あんたのものなんかじゃない」
健一が言い返すと、歳神は狂気の目と銃口を健一に向けてきた。
「そうか、今はお前のものだったな」
歳神は短く笑った。
「それなら、お前を殺せば!」
タマヒメ様が健一の首元に腕を回して抱きついた。わずかに遅れて銃声が響く。玉虫色の破片がぱっと飛び散り、タマヒメ様の身体から力が抜け、健一の首元に彼女の体重が掛かった。
健一が見ると、タマヒメ様の右の翅に小さな穴が空いていた。そして彼女のおしりには、人間で言えばちょうど尾骨の辺りから、一〇センチほどの細い針が飛び出していた。タマヒメ様が、ぐいとおしりを突き上げると針の先端から透明な液体が噴きだし、コップ一杯分にも満たないそれは、正確に歳神の顔に命中した。
「ああっ!」
歳神は拳銃を取り落とすと、顔を押さえて地面をのた打ち回った。
「ハチ毒か」
田中はつぶやき、喚きながら地面を転がる歳神に近づいて、ブーツの爪先で腹を蹴り上げた。歳神は気を失い、静かになった。田中は銃を拾い上げ、安全装置を掛けてからそれを腰のベルトに差し込んだ。
「タマヒメ様、大丈夫?」
「わしの殻を侮るなと言ったろう。もう忘れたのか?」
タマヒメ様は健一から身を離し、くるりと背を向けて言った。なるほど、彼女の背中には傷一つ無い。しかし川ムカデどころか銃弾までも歯が立たないとは、どれほど丈夫な殻なのだろうか。
「恐ろしい武器を持ってるな、姫さん。俺たちに使う機会なら、いくらでもあったろう?」
車の側に戻ってきた田中が言った。
「そう何度も使えるものではないのだ。それに、その……あまり見られたくない」
どうやら、タマヒメ様にとっては恥ずかしい行為らしい。田中はふっと笑い、ガラスが割れた窓から手を突っ込んでドアを開けると運転席に乗り込んだ。彼がハンドルの下で何やら細工をすると、あっさりエンジンが掛かった。そして窓の外で立ち尽くす二人を見て言った。
「さっさと乗れ」
健一とタマヒメ様は祖母の家の前で降ろされた。健一が「ありがとう、おじさん」と言うと、田中は渋面を作っただけで何も言わず、車で走り去った。玄関の戸を開けると、すぐにハツが出てきた。彼女はタマヒメ様の姿を見ると目を丸くして驚き、スリッパのまま三和土へ降りて、「よかった、よかった!」とタマヒメ様を抱きしめた。騒ぎを聞きつけた瑞樹までやって来た。タマヒメ様は二人にもみくちゃにされながら、触角をぱたぱた動かしていた。
タマヒメ様奪還作戦に出ていた三河たちは、ハツに電話で呼び戻された。三〇分もすると、祖母の家の居間は人でいっぱいになった。それでも入りきれなかった人もいて、彼らは中庭に通された。いつの間にやらバーベキューコンロが設置され、宴会が始まりかけていた。
「おじいさん」
このままではいけないと、健一は三河に声を掛けた。
「おう、そうだった。おい、お前ら。素面のうちに健一くんの話を聞いておこう。一体、何があったんだ」
村人たちの視線が集まった。
健一は、タマヒメ様を取り戻すまでの経緯を、順を追って話した。フェロモンの件には、あえて触れなかった。彼の口から話すことではないと思ったのだ。
「やはり、先生は人さらいの一味だったか。しかし弱ったな。また医者の手配をせにゃならん」
三河が腕組みして難しい顔でつぶやく。村人たちもざわざわと騒ぎ始めた。
「みんなに、話しておかねばならんことがある」
触角をぴんと立てて、タマヒメ様が言った。村人たちは口をつぐんで彼女に注目した。タマヒメ様は、ゆっくりと、自分の力について話し始めた。そして、一通りの説明を終わると、彼女は頭を下げた。
「ほんとうに、すまん。いや、ひょっとすると腹を立てたくとも、わしのせいでそれすら出来なくなっているのかも知れんのだ。それでも、きっと腹を立てたであろうみんなに、わしは謝りたい。すまなかった」
束の間を置いて、瑞樹が口を開いた。
「ねえ、タマヒメ様」
タマヒメ様は顔を上げ、彼女を見た。
「心配しなくても、みんなはちゃんと怒ってると思うわ。けど、それはフェロモンとかで操られてたってことにじゃなくて、そんなことでくよくよしてるタマヒメ様に怒ってるの。いいじゃない、フェロモン。私たちだって、魅力的に見られるように頑張って化粧したり着飾ったりするんだから。それで騙される男たちが悪いのよ。あなたも女の子なんだから、もっと堂々とフェロモンまきちらしなさい」
そして、彼女は健一に向かって「ね?」と同意を求めた。健一は、あえて無視することにした。誰かが「ちげえねえや」と言って笑った。それを引き金に、みんなが笑い出した。それで、この件はお終いだった。
宴会が始まり、健一はバーベキューコンロで焼かれた肉や野菜を確保すると、部屋の隅へ移動した。酔っぱらった老人たちに絡まれないためだ。しばらくして、タマヒメ様が酎ハイの缶を片手にやって来て、健一の横に腰を降ろした。
「やれやれ。みんな、やっと放してくれたわい」
「村のアイドルなんだから、しようがないよ」
「まあ、そうだな」
と言って、タマヒメ様は酎ハイを一口飲んだ。ふと気になったので、健一は思い切って聞いてみた。
「タマヒメ様って酔っぱらったりするの?」
「楽しい気分にはなるが、みんなのようにフラフラにはならんな。見ての通り、わしは人間とは違うからな」
「そっか。それなら、たくさんお酒が飲めるね」
「うむ。健太も羨ましがっておった」
少し間を置いて、彼女は再び言った。
「さっき、ハツさんに言われたのだ。悪漢から救い出された女の子は、助けてくれた男の子にキッスをするもんだと」
健一はむせた。祖母を見れば、彼女はニッと歯を見せて親指を立てる。
「確かにテレビでも、そのような話のドラマを見たことがある」
タマヒメ様の顔が迫ってきた。健一はぎゅっと目をつぶった。頬に固い感触があった。
「どうだ。わしのキッスは?」
「ちょっと痛かった」
「うむ、そうだろう」
なぜかタマヒメ様は満足げだ。
「いや、普通はキスって気持ちいいものじゃないかな。よく知らないけど」
頬をさすりながら、健一は言った。
「そうなのか」タマヒメ様の触角がぴょこんと跳ねた。「だったら健一くんもしてくれ」
健一は触角の片方をそっと手に取り、口付けした。手を放すと、触角は嬉しそうにぱたぱたと動いた。
「そのドラマって、ふたりがキスしたあと、どうなったの?」
「そんなもの、決まっておる」
どこかで「乾杯」の声が上がった。タマヒメ様は声に合わせて酎ハイの缶を高く掲げ、言った。
「めでたしめでたし、だ」
現実世界を舞台にしているように見えるけど、田舎はある意味異世界なのです。
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