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 それは中学二年の夏休み。

 出産を控えた母に付き合って、健一(けんいち)はお盆までの一週間を祖母の家で過ごすことになった。友人たちがハワイだのグアムだの沖縄だのと家族で旅行に出かけてしまったので、遊び相手がいない町に残るより田舎の里山や渓流で遊び倒す方が、はるかにマシと考えたのである。

 しかし、祖母の家は遠かった。父の運転する車で、高速道路と田舎道を計四時間。ようやくたどり着いたときには、もうくたくたで、日はまだ高いのにどこかへ遊びに行こうと言う気は失せていた。とにかく、足を延ばしてゆっくりしたい。

「ただいまー、帰ったよ」

 開け放たれていた玄関から、母の瑞樹(みずき)が奥に向かって声を掛ける。ぺたぺたとスリッパを鳴らしながら現れたのは、祖母のハツだった。

「はい、お帰り。健太(けんた)さんも運転ご苦労さん。ビール冷えとるよ」

「ありがとう、お義母さん」

 父の健太はおなかの大きな妻に手を貸しながら、祖母の家へ上がり込んだ。健一も、「おじゃまします」と言って後に続く。靴を脱いだことで、彼は少しだけ元気を取り戻した。

「健ちゃん、久しぶりだなあ。前に来たときは五年生だったかい」

 廊下を歩きながらハツは言った。健一は「はい」と答えた。

「今日はネクターじゃなくて、コーラを買ってあるからな」

 そう言って、ハツはニッと歯を見せた。健一は思わずクスッと笑う。ネクターも決して嫌いではないが、喉が渇いている時に飲むものではないと、前回の訪問で必死に説いたことを覚えてくれていたのだ。

「そしたら婆ちゃんは梅酒をもらおうかねえ」

「あー、いいなあ」

 瑞樹が言う。

「おめえはノンアルコールだ。胎の子に障る」

「ちぇ」

 居間が近付くにつれ、健一はタイムスリップしたかのような気分になった。祖母の家は、五年生の夏休みに訪れた時と、何一つ変わっていなかったからだ。高校野球の実況や、蚊取り線香の香り。池のある中庭からは、涼風が吹く。

 しかし、たどり着いた居間の敷居をまたぐ直前で、健一は凍りついた。それは、部屋の中央に置かれたテーブルの上座にちょこんと座って、テレビに映る高校野球を観戦していた。

「飲み物とってくるから、適当に座っとけ」

 ハツは、居間の前で立ち尽くす三人の背中に言うと、台所へ行ってしまった。健一は、目の前のあり得ない光景に、自分が幻を見ているのかと不安になって、両親に目を向けた。

「タマヒメ様じゃないですか、久しぶりですね!」

 と、健太。

「タマヒメ様、久しぶりー。お父さんの一三回忌以来かなあ。あっ、酎ハイ飲んでるの?」

 瑞樹は健太の手を借りて、謎生物の横に座って言った。すると謎生物は、それに答えるかのように玉虫色の薄い(はね)をブンブン唸らせた。

「私? 残念だけど、私は飲めないわ。おなかの赤ちゃんがビックリするから、お酒はダメなのよ」

「僕が代わりに付き合いますよ。まあ、ビールですけどね」

 健太が腰を下ろして宣言すると、謎生物は愉快げに翅をブンブン鳴らした。

 タマヒメ様と呼ばれるそれは、高学年の小学生くらいの大きさの、虫だった。大まかなシルエットは人間に似ているが、その身体はキチン質の外骨格だった。そして、振り向いて健一を見る目は、黒くて大きな卵形の複眼だった。

「ああ、息子の健一です。健一は、タマヒメ様と会うのは初めてだったな。ほら、ちゃんと挨拶して」

 健太は息子が凍りついたまま動けないでいるのを見て、少し厳しい声で「失礼だぞ」と注意する。タマヒメ様は四本の手を振りながら、取り成すようにブンブン翅を鳴らす。健一は、「六脚ってことは、昆虫かな」とぼんやり考えていた。

「無礼も非礼も、タマヒメ様が気にするもんかい」

 ハツが飲み物を持って現れ、テーブルの上に手際よく並べてゆく。ツマミは山盛りの枝豆だ。その間にも、タマヒメ様は健太にブンブンと話し掛ける。

「いやあ、ゆっくりしたいのは山々なんですけどね。明後日には仕事があるんで、明日の昼前には発たなきゃならないんです」

 なぜ、みんなは当たり前のように、意思疎通が出来るのだろう。健一には、ただの羽音にしか聞こえないのに。ひょっとして、自分の気がおかしくなって、彼女?が虫に見えているだけなのだろうか。

 タマヒメ様が、不意にぱたりと倒れた。

「タマヒメ様?」

 瑞樹が心配そうにタマヒメ様の身体を揺する。

「あ、お義母さん、蚊取り線香!」

 健太が叫ぶ。

「あれま、そうだった。健ちゃん、そこの蚊取り線香に蓋しとくれ!」

 健一は言われるまま、足元で煙を立てる蚊取り線香に蓋を被せた。

「もう、母さんたら。タマヒメ様がいるのに蚊取り線香焚くなんて」

「いやあ、うっかりしとった。すまんね、タマヒメ様」

 煙が消えてしばらくするとタマヒメ様は復調し、照れくさそうに頭の後ろを掻きながら起き上がった。蚊取り線香が効くのなら、虫で間違いないようだ。

「健一も座ったら?」

 瑞樹が言った。健一はしぶしぶ卓に着いた。なるべく得体の知れない生物から離れて座りたかったので、祖母を挿んでタマヒメ様から斜向かいの位置を選んだ。

 健一は、それほど昆虫に詳しいわけではないが、このタマヒメ様と呼ばれる生き物が、蜂の特徴を数多く備えている事に気付いた。オレンジと黒の配色や、触角の形、立派な大あごを備えた口などは、図鑑で見たオオスズメバチにそっくりである。しかし、少女のような体付きや、玉虫色をした美しい四枚の翅のせいで、ファンタジー小説に出てくる妖精のようにも見える。そう思えば虫っぽさを差し引いても、なかなか可愛らしい生き物ではないか。

「健一くん、ちょっとそこをどいてくれ。スコアが見えん」

 ブンブンと言う羽音に混じって、声が聞こえた。タマヒメ様は酎ハイの缶を持つ手を除いた三本の腕で、退けろと身振りで訴える。健一がよけるとタマヒメ様はテーブルに中脚を突いて身を乗り出し、叫んだ。

「フルカウントだ!」

 全員がテレビに注目する。スコアは五対四。スリーボール、ツーストライク、ツーアウト。同点のランナーを一塁に置いて、打席に立つのは四番打者。固唾を飲んでみなが見守る中、金属バットが快音を響かせた。白球は大きく弧を描き、フェンスを越え、実況が「逆転」と「ホームラン」を叫ぶ。

 健太と瑞樹が、ハツとタマヒメ様が、抱き合ってわっと歓声を上げる。なぜ、みんなこんなに大喜びしているんだろうと健一が訝っていると、試合終了を告げるサイレンの音を背に、瑞樹が説明してくれた。

「母さんが通ってた高校なの。二回戦進出だって!」

 そう言うことかと納得して、健一は「おめでとう」と言った。健太とタマヒメ様は乾杯を繰り返した。タマヒメ様がこっちを向く。

「健一くんも飲め!」

「いや、僕は中学生だから」

「コーラでもかまわん。ほらほら」

 乾杯を強要され、健一は渋々応じる。そうして、いつの間にかタマヒメ様と普通に会話が出来ている事実に気付き、あれっと首を捻った。ひょっとして、彼女は今まで当たり前にしゃべっていたのではないか。人ではない生き物に、人語を操れるわけがないと思い込んでいたせいで、健一の方が聞く耳を失っていたのかも知れない。勝手に気味悪がって申し訳ないことをしたな、と健一は胸の中で反省した。


 翌朝――と言うより昼も近い時間に、健太とタマヒメ様がのこのこ起きだしてきた。昨夜遅くまで、二人で酒盛りをしていたせいだ。ただ、二人とも二日酔いはしていない様子だった。タマヒメ様に関しては、そもそも酔っていたかも疑わしいが。

 健太が車で発つのを見送ってから、タマヒメ様はハツと一緒に台所へ立って昼食の準備を手伝い始めた。自分にも何かできないかと、遅ればせながら健一が台所へ向かえば、大きな鍋で素麺が茹でられていた。

「健ちゃん、いいところに来てくれた。鍋を井戸まで運んでくれ。タマヒメ様には薬味を頼もうかね」

 タマヒメ様は頷き、包丁で小ネギを刻み始めた。ハツは大きなザルを持って台所を出た。健一はハツに言われた通り、湯気を立てる重たい鍋を持って、彼女の後に続く。井戸に着くと、健一はハツが構えるザルに鍋の中身を空け、ポンプを押して水を出した。ハツは手際よく素麺を洗う。

「タマヒメ様ってなんなの?」

 健一は思い切って聞いた。

「知らん」と、ハツは口元に笑みをたたえて言う。「どっから来たのか、いつからおるのか、(だあれ)も知らん。けど、いい子だ。そうだろ?」

 健一は頷く。

「まあ、都会モンにはびっくりする見かけなんはわかるけどな。健太さんも、最初は驚いとった」

 都会か田舎かは、あまり関係ないんじゃないかと思うが、健一は黙って聞いた。

「けど、二人とも大の酒好きってことで、すぐに仲良くなってなあ」

 父の適応力に健一は敬意を覚えた。

「どうして様を付けて呼ぶの?」

「そりゃあ、婆ちゃんよりもずっと昔から生きとる方だからなあ。昔は神様みたいに祭られてたこともあったから、その名残だろ」

「毎日、来てるの?」

「いやいや、月に一度くらいだな。ふらっとやって来て、一晩泊まって帰ってく。村の、他の家にも遊びに来てくれと言われとるから、そうそうしょっちゅうは来れんのだろ」

「人気者なんだ」

「そりゃあ可愛らしいし、いい子だからな。それに年寄りばっかりの村だから、子供の姿に飢えとる」

「でも、ばあちゃんより年寄りなんだよね?」

「女の子のトシは気にしちゃいかん」

 ハツはにやりと笑って言った。

「けど、瑞樹の赤ん坊が見たいと言ってたから、新しい孫が産まれるまでは、家で独り占めできそうだな。健ちゃんも仲良くしてやんな?」

 健一は頷いた。

「よし、素麺はもうよさそうだ。居間に持って行こうか?」


 四人は高校野球を見ながら昼食をとる。人間たちは素麺だが、タマヒメ様にはフルーツゼリーが出された。彼女の親戚のスズメバチ同様、固形物は食べられないらしい。

 健一は、ひょっとして樹液ゼリーをプレゼントしたら喜ぶかなと考えたが、昨日の様子からして甘いお酒の方がよさそうだと思い直し、それから子供の自分ではお酒を買えないことを思い出して、アイスクリームならどうだろうと、あれこれ思案を巡らせた。そして、ソフトクリームを片手に二人でデートする姿が脳裏に浮かんだところで、タマヒメ様が彼の視線に気付いて顔を上げた。

「どうした、健一くん?」

「いや、美味しそうに食べてるなあと思って」

「やらんぞ」

 タマヒメ様は四本の腕でゼリーをかばった。

「麺つゆと一口交換するのは?」

 タマヒメ様は一瞬、考えた。

「ダメだ!」

 麺つゆも嫌いではないらしい。


 食事を終え、健一は釣り道具を引っ張り出した。ハツに、どこか遊べるところはないかと聞けば近所に沢があると言うので、どんな魚がいるか探って見るつもりだった。そこへタマヒメ様がやって来て、何をしているのかと興味津々で見てくる。健一は試しに、一緒にどうかと誘ってみた。タマヒメ様は触角をパタパタ動かしながら、何度も頷いた。よく分からないが、おそらく喜んでくれているのだろうと思い、健一は勝手に気を良くした。

 ハツに出発を告げると、彼女はおにぎりと麦茶の入った水筒と、保冷バッグを手渡してくれた。保冷バッグの中を覗くとゼリーが入っていた。タマヒメ様用のおやつだった。健一はハツに礼を言って家を出た。敷地から道路へ出てすぐに、目の前を白いミニバンが、すごい速さで通り過ぎた。田舎だからって飛ばしすぎだと、健太はムッとしながらナンバープレートを見た。品川の三ナンバーだった。こんな田舎に、わざわざ東京から何の用だと首を傾げる。

 田舎道を進んでしばらくすると、彼らは畑で作業していた老人に呼び止められた。

「おーい、タマヒメ様」

 タマヒメ様は手を振り返す。

「一緒におるんは、健一くんか?」

 健一は「こんにちは」と返す。老人は汗を拭きつつ二人のそばへやって来て「大きくなったなあ」と目を細める。彼は健一が持つ釣竿に目をとめた。

「これから釣りかい」

「はい」

「今時期の沢なら、オイカワかイワナだなあ。でかいのが掛かるといいな?」

「頑張ってみます」

「おう。タマヒメ様にいいとこ見せな」

 老人はひとしきり笑ってから、不意に険しい表情を浮かべた。

「一ヶ月くらい前から、見知らんでかい車がうろついとる。駐在さんも目を配ってくれとるが、お前さんたちも気を付けるんだぞ」

 健一は神妙に頷いた。そして、老人は二人にもぎたてのトマトを押し付けて、野良仕事に戻った。

「美味しそうだね。沢で冷やして食べようか?」

「わしは、そのままでも構わん」

「すぐ食べたいんだね」

 二人は甘いトマトをかじりながら沢へ向かった。


 ハツは近所と言ったが、沢まではたっぷり二〇分掛かった。健一は、田舎人の距離感ほど、当てにならないものはないことを思い知った。しかし、沢の冷涼な空気は、その苦労にじゅうぶん見合うだけの価値があった。

 健一は水辺の大きな石を引っくり返し、そこに潜んでいたカワゲラの幼虫を捕まえて、餌箱に放り込んだ。タマヒメ様が、何をしているのかと聞いてくるので、釣り餌になる水生昆虫を探しているのだと教えると、彼女は「わしも手伝おう」と言って、濡れるのもいとわず水辺を歩き出した。引っくり返した石は元に戻しておくよう言うと、タマヒメ様は前脚の左腕を上げて了解の合図を返してきた。

 さっそくタマヒメ様がしゃがみ込み、石を引っくり返した。そして、おもむろに水の中へ手を突っ込み、うごめく何かを捕獲する。

「でかいのがいたぞ、健一くん!」

 タマヒメ様が捕まえたのは、ヘビトンボの幼虫だった。通称、川ムカデ。ムカデそっくりな見かけで、ムカデと同様に咬む。毒はないが顎の力がおそろしく強く、咬まれると相当痛いらしい。

「タマヒメ様、そいつ咬むから危ないよ」

「侮るな。わしの殻は、それほどヤワではない」

 事実、川ムカデはタマヒメ様の手に何度も咬みつこうとするが、まったく歯が立たない様子だった。

「だが、心配してくれたことには礼を言おう」

「大丈夫ならいいんだ。でも、すごいの捕まえたね」

「そうだろう」

 タマヒメ様は胸を張った。

「こいつにふさわしい大物を釣らなきゃならないな」

 健一は気を引き締めた。

「頼んだぞ、健一くん。わしは、もっと餌を集めて来る」

 タマヒメ様に頷き返し、健一は咬まれないよう慎重に川ムカデを針に掛け、水中に仕掛けを投げ込んだ。それから、タマヒメ様の方を見る。水面に反射する光を受けながら、しゃがんで石の裏を真剣に見つめる彼女は、とても可愛らしかった。

 タマヒメ様に見とれていると、不意に当たりが来た。会心のタイミングで合わせると、強い引きを手もとに感じた。期待分を差し引いても間違いなく大物だった。五分ほどの格闘の末、釣り上げたのは健一の足よりも大きなイワナだった。勝利の興奮で手がぶるぶる震えた。

「すごいな、君は釣り名人か」

 タマヒメ様が駆け寄ってくる。

 健一は「そうでもないよ」と言ってイワナを針から外し、タマヒメ様に差し出した。

「タマヒメ様が見つけた川ムカデのおかげで釣れたんだ。だから、これはタマヒメ様にあげるよ」

「わしの、おかげ?」

 タマヒメ様は触角をパタパタと動かしながら、健一からの贈り物を受け取った。

「喜んでくれてよかった」

「ありがとう、健一くん。しかし、これはどうしたものか。せっかくもらっても、わしは魚を食えん」

 もちろん、健一はちゃんと考えていた。

「タマヒメ様から母さんにプレゼントしたらどうかな。その代わりに、僕の妹を抱っこさせてもらうんだ」

「妹?」

「まだ産まれてないけどね」

 タマヒメ様の触角がピンと跳ねた。

「赤ちゃんか!」

 健一は頷いた。

「それは名案だな、健一くん」

「僕もそう思う」

「たくさん魚をあげたら、もっとたくさん抱っこさせてもらえるのではないか?」

「どうかな。でも、試して損はないと思うよ」


 獲物が入ったバケツを持って、二人は家路にあった。釣果はオイカワが五尾、ヤマメが一尾、イワナが特大サイズも含めて三尾と大漁だった。今夜の母さんは、たっぷり魚を食べさせられる事になりそうだと、健一は苦笑する。誇らしげにバケツを持って先を行くタマヒメ様の影が、健一の足元で触角を揺らしていた。

 二人の行く手に白いミニバンが停まっていた。ナンバープレートを見れば、祖母の家の前で見かけた車だとわかった。運転席に人の姿は見えないが、健一はトマトをくれたおじいさんの言葉を思い出し、先を行くタマヒメ様を止めようと足を早めた。しかし、タマヒメ様の肩に手を伸ばしたところで、彼女は膝からがくりと崩れ落ち、うつ伏せに倒れ込んだ。バケツはひっくり返り、魚が地面にぶちまけられた。

 ミニバンのドアが開き、そこから数人の男たちが飛び出した。全員が真っ黒な戦闘服と、鼻と口だけを覆うガスマスクと、銃のようなものを装備している。ただならぬ雰囲気を感じて、健一は荷物を放り出し、急いでタマヒメ様を抱き上げた。見掛けを裏切る重さに一瞬たじろぐが、それでもどうにか彼女を横抱きにして、元来た道を駆け戻る。すぐにブーツの音が追いかけてきた。振り向く余裕はない。健一は全力で足を動かし続ける。しかし、逃げ切れるはずもなく、彼はすぐに襟首を掴まれ、背中から地面に引き倒された。タマヒメ様が地面に放り出され転がった。

「手間を掛けさせるな、小僧!」

 戦闘服の男は、ガスマスク越しのくぐもった声で言ったあと、健一の脇腹を強かに蹴りつけた。健一はうめき声を上げて身体を丸めた。

「虫だ。拘束しろ」

 男はタマヒメ様に銃口を向けたまま、手を振って仲間たちに早く来るよう促した。

 健一は痛みをこらえながら、タマヒメ様を見た。この男たちの狙いは彼女だ。なんとかして、彼女を逃がさなければ。しかし、息の詰まる痛みのせいで身動き出来ない。彼は、男たちに連れ去られようとするタマヒメ様を、黙って見送るしかなかった。

「お前ら、何をしとるか!」

 声のする方を見れば、あぜ道を駆ける警官の姿が見えた。村の駐在だった。

「車は破棄する。山田、佐藤、鈴木は虫を運べ」

 やや離れた場所から、別の声が聞こえた。若い男の声だった。隊長格なのか、彼の命令に「了解」と応じる声がすぐさま上がる。

「残りは散開し各自で病院へ向かえ。村人との交戦は避けろ。武器は使用するな。行け!」

 ばらばらと足音を響かせ男たちが散った。健一は、ほとんど意識せず手を伸ばし、彼を蹴りつけた男のブーツの靴紐を掴んでいた。痛みのせいで力は入らなかったが、男を転ばせるにはじゅうぶんだった。銃とガスマスクが地面を転がった。上体を起こした男は苛立たしげに健一を睨みつけ、彼の顔をブーツの裏で蹴りつけた。そして、思い出したように鼻と口を左手で覆い、右手をガスマスクに伸ばした。銃声が響き、「動くな!」と言う駐在の声が聞こえた。健一の意識は、そこで途絶えた。

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