二
「――ロべルティーナ。ロべルティーナ」
ゆっくりと、深い水底から、体が浮かび上がるようだった。瞼が重く、指先は凍り付くようだった。意識だけが光を感じ始めた。
「ロべルティーナ、あぁ、ロべルティーナ。いとし子。世界のいとし子。あぁ、我がいとし子。どうか、どうか」
あぁ、そうか。
シエラは腹落ちした。
この声だ。この声だった。ずっと宝玉から聞こえてきた、シエラではない誰かを呼ぶ、この声。
ローディラルト。グレイに教えられた、フィンディアの魂を集める、終焉の悪魔。世界を保ち、世界を滅ぼす、かなしき悪魔。
「望みはなんだ。そなたの、望みは、なんだ」
シエラは、間違いなく、この声の主に助けられたことがある。どうしようもないとき、願ったことが何度あっただろう。その正体が仮に自分の魂を食べようとしている悪魔だったとして、この悪魔はどうして願いをかなえてくれるのだろうか。
――違うか。かなえた代償に、魂を食われるのか……。
シエラは明瞭になりはじめた意識の中で嘲笑った。
「あなたは、姿を現すことができないのね」
意識に干渉することはできても、肉をもってこの世に顕現することができない。それはきっと、まだ聖玉が機能しているからだろう。
「あぁ、あぁ、ロべルティーナ。ロべルティーナ。私の、私のいとし子。どこだ、どこにいるのだ。そこにいるのだろう……」
「?」
こうして語りかけて来ているのだから、シエラの存在を認知しているのではないのだろうか。何かおかしい。
けれど、その違和感の正体をつかむ間もなく、シエラの意識は急に加速した。そして、重かった瞼が急に開いた。
「ッ!」
大きく息をした。むせ返るような木々の香りに、思わず体を起こした。
「――目が覚めたかい」
「……グレイ」
目の前には、グレイが立っていた。シエラは周囲を見やる。今自分は、白い石づくりの祭壇にいる。円状になった台座が、段々つくりになっており、その最上部にいる。そして、グレイの立っている足元には、小さなくぼみのようなものがある。祭壇に屋根はなく、円を取り囲むように7本の柱がそびえている。
「シエラ」
グレイに呼ばれ、シエラはゆっくりと立ち上がる。
彼を止めるならここしかない。
「シエラ」
グレイは、まっすぐにシエラを見ている。シエラも、まっすぐに彼の瞳を見る。
「グレイ」
シエラは一歩踏み出す。けれど、それ以上を踏み出せなかった。
「……ようやく、ようやく、ここまで来た。ねぇ、シエラ。どうか見届けておくれ」
「……何を、馬鹿な」
まさかそれだけのためにシエラをここまで連れてきたというのか。シエラは両の手を握りしめる。体の中心に、何もないことが分かった。すっかりグレイにすべて奪われている。
「――さぁ、始めよう」
グレイはロッドを、くぼみに突き立てた。
「!!」
すると、突き立てた先から光の波があふれ出す。七色の輝きが、水のように、噴水のようにあふれ出す。そしてその力の奔流は、それぞれ七つの柱に向かって伸びていく。
そして柱の頂点に、それぞれ宝玉と思われるものが形作られ、天空に向かって光を集約させていく。七つの光が集まったその先に、巨大な扉が現れる。
「あれが、封印の……」
「そうだ、あれが、あれこそが、世界の、この最果ての地に隠された秘密の、その片鱗さ」
神々しく、美しい。白亜の扉は、まだ開かない。重く閉ざされた神秘の扉は、圧倒的質量感を持って顕現している。しかし、シエラはそこに現実味を持てないでいた。
「始まりにして終焉の神の力を以て、俺の神殺しは……世界創生は、成し遂げられる」
グレイの呟きも、シエラの中に泡のように消えた。ぞっとするような、崖っぷちに立たされているような足元のおぼつかなさに、恐ろしささえ感じているのに。シエラはまだどこかで夢見心地だった。
――違う。違う。夢じゃない。夢じゃないんだ。
ここで動かなければ、きっと一生後悔する。私が私の人生を歩くためには、私はここで動かねばならない。ここで動けない私なんて、私はこの先許せない。
シエラは何もない両の手をきつく握った。
柱の上で宝玉は明滅している。まだ何か、あるのだろうか。
グレイは扉をじっと見ながら、動かない。
「グレイ。私は、あなたを止めたい。神殺しをしたところで、世界を変えたところで、あなたの積年の思いは、あなたの中の呪いにも似た気持ちは、本当に解決するの」
「ここにきて説得とは、シエラも殊勝だね」
グレイは自分の両の掌を見た。
「でも、俺は、俺の無力さに打ちひしがれていた自分とは決別したんだ。世界を変え、俺は、俺やリディアが感じた理不尽を正したいんだ。そして、シエラ。君のような、君たちのような”適合者”なんてふざけた存在を、もう二度と生み出したくないんだ。それは世界を変え、神という歪んだ存在を無くすことでしか、成し得ないんだよ」
「……そんなこと、ない。私は、少なくとも私は、今までの旅そのものを後悔なんてしていない。宝玉があったから、絆があったから、クラウドに、ウエーバーに、ラミーナに、みんなに、出会えたんだもの。私の小さな世界は、適合者だったから変わることができた。それはきっと、リディアだって――」
「嘘だ!! リディアが、彼女が、どんな思いだったかなんて、傲慢にも君が語るものじゃないよ」
グレイは激昂した。
「彼女には選択の余地なんてなかった。村を出るときも、彼女は人柱だったんだ。世界を救うのだって、いや、世界を救うなんてこと、結果論なんだよ。神どもの腐った余興のおもちゃだったんだ。そんなこと、彼女自身がよく分かっていたはずだ。他人のために、彼女は自分を犠牲にするしかなかったんだ」
堰を切ったように、シエラに言葉をぶつける。
「間違いを正すためには、もう時間が経ちすぎている。だからこそ、一度すべてを元に戻す必要がある。今ある世界に、いったいどれほどの価値があるんだろうね。間違いだらけの土台の上に成り立つ価値判断に、どれほどの正しさがあるというんだろうね」
「間違っていたとしても、全部をなかったことになんて出来ないよ」
「いいや、出来る。聖玉の力を以てすれば、世界は再び一から形作られる。シエラ、いいかい、シエラ、原初の力を以て、リディアを苦しめたこの力を以てして、俺は彼女を救済するんだ」
グレイの言葉に、シエラは底知れぬ矛盾と苦しみを感じた。
負けられない。負けてなるものか。
そう思う心と、この目の前の男の矛盾に打ち克てるのかと不安にもなる。しかし、鎌首をもたげるその不安を、シエラは無理やり飲み込んだ。
「じゃあ、今ある私たちの幸せはどうなるっていうのよ! 間違った世界に生きているなら私たちの幸せも間違っているっていうの!? 私たちが感じている幸福は、偽物だとでもいうの!? リディアがどうだったかなんて私は知らない! 私には関係ない! 今を生きている私たちを無視して、過去の人の幸福っていう物差しで、すべてを語らないでよね!!」
あぁ、言った。言ってやったぞ。リディアがどんな人かなんて、シエラには関係ない。いや、関係なくはないが、グレイを倒すためには、もうそれしか方法がないようにも思えた。
「グレイはさ、リディアを救いたかったんだよね。救えなかった過去の自分を、許せないんだよね。だから、彼女を苦しめた原因を、今でも許せない……それが、神っていう種族だから、だから、神を殺せばそれでいいって。今ある世界を否定して、新しい世界を創ればいいって、そういうことなの?」
「……シエラ」
「私には、グレイの行動の善悪は推し量れない。馬鹿だし、本当のことなんて何もわからないし。でも、それでも、私は、自分の幸せを否定されてただ黙っているなんて出来ない。グレイの幸福が、私とは決して相容れないものだって、もう何回だってわかっている。だけど、それが良いか悪いかなんて、どっちが正しいかなんて、そんなこと私には分からない。わからないけど……」
シエラの全身から、魔力が渦となって湧き上がる。不可視の力が、自然とシエラの周りに風を起こし、髪を揺らす。
「それでも、私にも守りたいものがある」
「……そうか、とても、とても、残念だよ」
グレイは右手をかざす。風が強く吹いた。
グレイの魔力の渦がシエラの魔力の渦とぶつかり合う。力の奔流が風となり、周囲の木々は大きくざわめく。
渦の中心に、シエラの体が引きずられ始める。渦の中心に火花が散り、風が嵐に姿を変えていく。
空中に、無数の矢が現れる。黒い炎で出来たそれらの鏃がシエラをとらえる。
「さよならだ」
グレイの言葉とともに、矢が放たれる。
「――!!」
轟音とともに、土煙が立ち上る。嵐がやみ、静寂が訪れる。ゆっくりと土煙が晴れていく。
「――なんとか、間に合ったか」
聞きなれた声に、シエラは恐る恐る目を開く、深緑の髪が、揺れた。
「シエラ、無事で良かったです……!」
「ウエーバー……!」
目の前に立つ、仲間たちの姿。そして、アン=ローゼン率いる刺客たち。シエラは目を見張った。
「へぇ。よくもまぁ、ぞろぞろと……」
侮蔑を含んだグレイの言葉に、クラウドが鋭い眼光を向ける。
「お前の好きにはさせねぇよ。これで、決着をつけてやる」
「――あぁ、君は、君ってやつは本当に憎たらしい。ナルダンと同じ、その瞳」
クラウドは切っ先をグレイにまっすぐに向けた。
「――いくぞ」
そして、最後の戦いが始まる。




